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超ロングバージョン「11.18 創立記念日」のお話

牧口先生の同窓生の紹介状をもらって牧口先生を訪ねた。
この同窓生は、同級会で先生を見かけるだけで話もしたことがないという心細さであったが、それだけに私は緊張していた。

その折、私は教授法にかけては抜群で、絶対の自信があると、大見得を切ってしまった。
すると牧口先生は、じっと私を見ていたが、君は、うまくいけば素晴らしい人物になるが、わるくすると、とんでもない人間になると言われた。  

人間革命 第8巻 明暗 より


寸劇の最後に「創価学会の歴史と確信」(戸田城聖著1951)の一部を収録しました。

P1010739_2.jpg


超ロングバージョンの創立記念日のお話です。

≪ナレーション≫ 皆さんこんばんは。それで寸劇のコーナーです。

本日は、「11.18 創立記念日」のお話であります。

私は戸田先生役です。 
なんと私が、牧口常三郎初代会長役です。よろしくお願いします。

≪ナレーション≫ 時は大正9年、西暦1920年、2月。

青雲の志に燃える、戸田青年は、北海道厚田村の父と母に別れを告げ、東京を目指した。
彼の心には、大きな志が、赤々と熱く燃えさかっていたのであります。
しかし、上京した戸田青年を待っていたもの、それは苦闘の日々でありました。

≪戸田青年≫   大正9年4月11日  未だ、余は余の師匠を見ず、余の主(あるじ)を見ず。
しこうして、自己の思想の帰依(きえ)、未(いまだ)だ意(こころ)を得ず。 
自己の心中に、求むる所ありて、始めて社会に奮闘(ふんとう)すべきなり、奮闘し得(う)べきなり。 
頼り難(がた)きは人心。
独立なれ、自尊なれ。
運命も自己 自ら開拓せざれば、鍵 開きて 来たる可き筈(はず)はあらざるなり。 
恐るるな、人の嘲笑(ちょうしょう)、世間の罵倒(ばとう)、一度(ひとたび)立つ時は、天下を席捲(せっけん)する腕を持て。(当時の日記より)

≪ナレーション≫ 北海道出身の友人たちの人脈を通して、同じ北海道出身の牧口常三郎の存在を知ったのは、もう夏が近くなったころでした。

解説①(≪ナレーション≫) 牧口常三郎は、1871年新潟の荒浜に生まれた。
小学校卒業後、単身北海道に渡り、苦労して、北海道尋常師範学校(現・北海道教育大学)卒業。
同付属小学校などで教壇に立つかたわら、地理学の研究を続けた。
30歳の時に上京。32才の時「人生地理学」という本を発刊。
ベストセラーとなり、地理学学会に大きな波紋を呼んだ。

戸田青年と会った当時は、台東区の西町尋常小学校の校長を勤めていたのであります。

牧口は、東京市(し) の教育界では、一風変わった存在であった。
一家言をなした彼の教育理論の実践は、識者の注目をあつめていたのである。

しかし、彼の教育観は、戦前、教育の金科玉条とされた教育勅語を「最低の道徳なり」と言い放つほど進みすぎていた。
そのため石頭な文部省の役人どもは、彼を白い目で見ていたのである。おろかな指導者たちは、この優れた先覚者を、迫害し続けたのであります。


≪ナレーション≫ 紹介状をたずさえ、戸田青年は、緊張して、牧口常三郎の自宅を訪ねた。

謹厳寡黙(きんげんかもく)な牧口は、鋭い眼で戸田青年をじっと見た。
そして北海道出身の青年と知って、快く迎えたのであります。
牧口は、戸田青年の経歴や意見を、静かに聴いていた。そのなかから、戸田青年の純粋な性格と、その意気を感じとったにちがいない。

≪牧口常三郎≫  履歴書をお持ちになったかな?

≪戸田青年≫   はい、持ってきました。

≪ナレーション≫ 詰襟服(つめえりふく)のボタンをはずした彼は、内ポケットから封筒に入れた履歴書を取りだした。
そしてこの時、戸田青年は思わず口ばしったのであります。

≪戸田青年≫   先生、私をぜひ採用してください。

≪ナレーション≫ 彼は初対面ながら、不思議に牧口に甘えることができた。

牧口は、ちょっと怪訝(けげん)な顔をした。
だが戸田青年は、真剣な表情で、重ねて言ったのであります。

≪戸田青年≫   私はどんな劣等生でも、必ず優等生にしてみせます。
先生、私を採用してくだされば、あとできっと、「いい奴を採用してよかった」、とお考えになるでしょう。

≪牧口常三郎≫  はっ、はっ、はっ、そうか、そうか、

≪戸田青年≫  (ちょっと照れるが、ここが大事。よし、もう一押しだ。)
先生、ぜひとも!ぜひとも!お願いします。

≪牧口常三郎≫  わかった、わかったよ。尽力しよう。
戸田君。君は、うまくいけば素晴らしい人物になるが、わるくすると、とんでもない人間になるだろう。

≪戸田青年≫   は、はい。

≪ナレーション≫ この日、それからの二人の話は、教育の実践と研究について、長時間にわたって熱心につづけられました。
そして就職の件は、二度と口にのぼることはなかったのであります。
この時、牧口常三郎49歳。戸田青年は20歳でありました。

≪ナレーション≫ こうして戸田青年は、牧口先生のはからいで、彼が校長を務める西松尋常小学校に代用教員となったのです。
やがて昭和3年1928年。牧口先生が日蓮正宗に入信し、戸田青年も入信します。
当時のいきさつを、いろいろやってますと、寸劇が、朝になってしまいますので、今回は、次のお話を急ぐことに、いたしましょう。

≪戸田城聖≫   牧口先生、先生の教育学を、後世のためにぜひ出版しましょう。

≪牧口常三郎≫  戸田君、本の出版にはお金がかかる。
まして小学校の校長の出した教育学なぞ売れんぞ。
おお赤字になるぞ。

≪戸田城聖≫   先生、けっしてご心配なさらないでください。
私の一生は、先生に捧げて悔いのない覚悟だけは、とうにできております。
私がすべてやります。

≪牧口常三郎≫  そうか。よろしく頼みます。

≪戸田城聖≫   先生の、教育学の目的は、一言で言えば、何でしょう?

≪牧口常三郎≫  それは、価値を創(つく)ることだ。

≪戸田城聖≫   それでは、先生の教育学を、創価――創価教育学と名付けましょう。


≪ナレーション≫ こうして、昭和5年1930年11月18日 牧口先生の30年に及ぶ研究・思索・実践の結晶として「創価 教育学 体系 第一巻」が発刊されます。
そしてこの日を、もって、創価学会の創立記念日となったことは、皆様ご存知のとおりです。


解説①(≪ナレーション≫)この「創価 教育学 体系 第一巻」に、社会学者の田辺寿利(たなべ すけとし)氏は、ファーブル昆虫記で有名なファーブルが、小学校の校長先生であったことを例にあげ、次のような、序文を寄せています。

**「一(いち)小学校長たるファーブルは、昆虫研究のために黙々としてその一生をささげた。
学問の国フランスは、彼をフランスの誇りであるとし、親(した)しく文部大臣をして駕(が)を枉(ま)げしめ、フランスの名に於(お)いて懇篤(こんとく)なる感謝の意を表(ひょう)せしめた。

一(いち)小学校長たる、牧口常三郎氏は、あらゆる迫害あらゆる苦難と闘(たたか)いつつ、その貴重なる全生涯を費(ついや)して、ついに画期的なる『創価教育学』を完成した。

文化の国・日本は、如何(いか)なる方法によって、国の誇りなるこの偉大なる教育者を遇(ぐう)せんとするか。」


解説②(≪ナレーション≫)やがて日本は戦争への道を歩み始め、時代は軍国主義一色に、塗りつぶされたのであります。
座談会にも特高警察が同席し、牧口先生の「神札」を謗法とする発言などに、たいして「そこまで!止(や)め!弁士中止!中止だ!」と大声を上げるようにな、― そんな時代になったのであります。

「天照大神の神札」を拝まぬものは国賊とされ、反戦思想の持ち主と断定されたのです。
しかし、牧口門下の折伏、弘教の戦いは、「天照大神の神札」を謗法払いして、着実に進められていったのであります。

ところが、日蓮正宗・宗門は、臆病にも、権力の弾圧を恐れ、立正安国の日蓮大聖人の精神を、すっかり忘れさっていたのです。


≪ナレーション≫ 昭和18年1943年6月学会の幹部は総本山に登山を命ぜられた。

≪本山僧侶≫   エー私は、日蓮正宗総本山大石寺(たいせきじ)の偉い、ご僧侶です。
エー時節がら、総本山においても、神札を、一応、受けることにした。
エーこんどの教師指導会において、全国の寺院に対しても、徹底する予定である。
そこでだ、創価学会でも、神札を受けるように申しわたす。


≪牧口常三郎≫  承服いたしかねます。神札は、絶対に受けません。
いまだかつて創価学会は、総本山に、何ひとつご迷惑を、かけておらぬでは、ありませんか。

≪本山僧侶≫   エー、いやいや、創価学会が謗法払いと、称して、神札を焼いておるのは、本山の指導によるものだと、警察に告訴状がでているのですぞ。

≪牧口常三郎≫  承服いたしかねます。神札は、絶対に受けません。


≪ナレーション≫ 牧口会長は、こういいきって、総本山を、後にしたのであります。

≪牧口常三郎≫  私が嘆くのは、一宗が滅びることではない。
一国が眼前でみすみす滅び去ることだ。

宗祖日蓮大聖人の悲しみを私はひたすら恐れるのだ。
今こそ国家諫暁の時ではないか。
宗門は、いったい、何を恐れているのだろう?戸田君、君はどう考える?

≪戸田城聖≫  先生、戸田は命をかけて戦います。
何がどうなろうと、戸田は、どこまでも先生の、お供をさせていただきます。

≪ナレーション≫ 牧口は、一、二度うなずいて、はじめてニッコリと笑いかけた。

そして、この日から一ヶ月たたぬうちに、二人は逮捕されたのである。

権力の弾圧に恐れをなした宗門は、創価学会に対して総本山への登山を禁止し、信徒除名処分とし、大聖人の仏法を唯一、守った牧口先生を切り捨てたのであります。


≪牧口常三郎≫  (獄中からの手紙を紹介します。)

昭和18年1943年10月23日

「独房で、思索が出来て、却(かえ)ってよい。
朝夕の勤行、外に特別の祈願をまじめに怠らない、お互いに信仰が第一です。
災難と云ふても、大聖人様の九牛(きゅうぎゅう)の一毛(いちもう)です、とあきらめて益々(ますます)信仰を強める事です。
広大無辺の大利益に暮らす吾々に、斯(か)くの如き事は決してうらめません。
経文や御書にある通り、必ず『毒変じて薬となる』ことは今までの経験からも後で解ります。」

 *昭和19年1944年10月13日

「カントの哲学を精読している。
100年前及びその後、学者共が、望んでも手を着けない「価値論」を私が著し、しかも上は法華経の信仰に結びつけ、数千人に実証したのを見て、自分ながら驚いている。
これ故、三障四魔が粉起するのは当然で、経文通りです。」

≪ナレーション≫ これが牧口先生の絶筆となりました。

昭和19年1944年11月18日― 牧口会長は東京拘置所で逝去したのであった。

奇しくも、創価教育学体系の出版から、ちょうど14年の歳月が、流れていたのです。

**「軍国主義日本」は、この偉大なる教育者にして偉大なる仏法指導者を“国賊”として、「獄死」をもって遇したのだ。
それは未来永劫に消えぬ、日本国家の最大の汚点であろう。


≪ナレーション≫ それから一年、昭和20年1945年11月18日、牧口常三郎の一周忌が営まれることになった。

集まったのは、親族のほかに、わずかに二十数名の門下の弟子であった。
かつて三千名をかぞえた創価教育学会員は、いま牧口会長の一周忌法要というのに、これだけしか、集まることが、できなく、なってしまった。
それは、創価学会の再建が、いかに、困難であるかを、物語っていたのです。

≪戸田城聖≫ 私は寒い独房(どくぼう)のなかで、いつも御本尊様に祈っておりました。
―― 私はまだ若い。先生は74歳でいらせられる。
どうか、罪は私一身に集まって、先生は一日も早く帰られますように、と。
 ところが、忘れもしない今年一月八日、私は取り調べの判事から、突然「牧口は死んだよ」と聞かされたのであります。
私は独房に帰って、ただ涙にかきくれました。
この世に、これほどの悲しみがあろうとは、思いもかけないことでありました。

先生は、死して、獄門を出られた。
不肖(ふしょう)の弟子の私は、生きて獄門を出た。
私がなにを、なさねばならぬかは、それは自明(じめい)の理であります。

―― 話に聞いた地湧の菩薩は、どこにいるのでもない。
じつにわれわれなのであります。

わたしは、この自覚に立って、いまはっきりと叫ぶものであります。

―― 広宣流布は、誰がやらなくても、この戸田が必ずいたします。
地下にねむる先生、もうしわけございませんでした。
先生、先生の真(まこと)の弟子として、立派に妙法流布にこの身を捧げ、先生のもとにまいります。
きょうよりは、やすらかにお休みになってください。

≪ナレーション≫ この日は、戸田城聖が広宣流布の第一声を放った、歴史的一日となったのであります。


本日は、小説「人間革命」第1巻「一人立つ」の章、さらに小説「人間革命」第2巻「地湧」の章、などから、「牧口先生と戸田先生」そして「11.18 創立記念日」のお話を、 旭日地区、のオール スター キャスト で、お送りいたしました。


本日は、テーマを、かなり、欲張りすぎて、書き残しが、たくさんございます。

それらは、またの寸劇に、こう、ご期待、であります。

以上で寸劇人間革命のコーナーを終わります。


*人間革命第1巻「歯車」

**新人間革命第12巻「栄光」



長い寸劇人間革命を、最後まで読んでくださってありがとうございます。


冒頭の戸田青年の日記の部分。
牧口会長の経歴を紹介する部分。
ファーブルの話。
獄中書簡の2つのうち、最初のほう。

これらは、省略しても、寸劇が成り立ちます。

この寸劇の分量はおおよそ 20文字×270行です。

これからもよろしくお願いいたします。



原稿印刷用に空白行の少ないテキストデータを準備しました。
ご活用ください。

最後に「創価学会の歴史と確信」(戸田城聖著1951)の一部を収録しました。
寸劇の内容を説明する際の参考にしてください。





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テーマ: 二次創作 | ジャンル: 小説・文学

『11.18』のお話 創価教育学会の発足 

先生の、教育学の目的は、一言で言えば、何でしょう?
それは、価値を創(つく)ることだ。
それでは、先生の教育学を、創価――創価教育学と名付けましょう。

私は寒い独房(どくぼう)のなかで、いつも御本尊様に祈っておりました。―― 私はまだ若い。先生は74歳でいらせられる。どうか、罪は私一身に集まって、先生は一日も早く帰られますように、と。 ところが、忘れもしない今年一月八日、私は取り調べの判事から、突然「牧口は死んだよ」と聞かされたのであります。私は独房に帰って、ただ涙にかきくれました。この世に、これほどの悲しみがあろうとは、思いもかけないことでありました。


SBSH1266.jpg
2012年6月に公開したものを書き直したものです。

≪ナレーションA≫ それで寸劇のコーナーです。本日は、牧口先生と戸田先生のお話であります。

 時は大正9年、西暦1920年、2月。青雲の志に燃える、戸田青年は、北海道厚田村の父と母に別れを告げ、東京を目指した。
彼の心には、大きな志が、赤々と熱く燃えさかっていたのであります。
しかし、上京した戸田青年を待っていたもの、それは苦闘の日々でありました。
 北海道出身の友人たちの人脈を通して、同じ北海道出身の牧口常三郎の存在を知ったのは、もう夏が近くなったころでした。

紹介状をたずさえ、戸田青年は、緊張して、牧口常三郎の自宅を訪ねた。牧口は、鋭い眼で戸田青年をじっと見た。
そして北海道出身の青年と知って、快く迎えたのであります。

≪牧口常三郎≫  履歴書をお持ちになったかな?

≪戸田青年≫  はい、持ってきました。
(すごい人だ。でも、やさしそうだ。よし、思い切っていこう。ゴクリ。)

 先生、私をぜひ採用してください。
私はどんな劣等生でも、必ず優等生にしてみせます。
先生、私を採用してくだされば、あとできっと、「いい奴を採用してよかった」、とお考えになるでしょう。

≪牧口常三郎≫  はっ、はっ、はっ。そうか、そうか。

≪戸田青年≫(ちょっと照れるが、ここが大事。よし、もう一押しだ。)
先生、ぜひとも、ぜひとも、お願いいたします。

≪牧口常三郎≫  わかった、わかった。尽力しよう。
戸田君。君は、うまくいけば素晴らしい人物になるが、わるくすると、とんでもない人間になるだろう。

≪戸田青年≫ は、はい。

≪ナレーションA≫ この時、牧口常三郎49歳。戸田青年は20歳でありました。
 こうして戸田青年は、牧口先生のはからいで、彼が校長を務める西松尋常小学校に代用教員となったのです。やがて昭和3年1928年。牧口先生が日蓮正宗に入信し、戸田青年も入信します。当時のいきさつを、いろいろやってますと、寸劇が、朝になってしまいますので、今回は、次のお話を急ぐことに、いたしましょう。

≪ナレーションB≫ 時は、昭和4年1929年2月。
牧口は、戸田の自宅を、新しい教育学説の発表と名称について語るために、訪れたのであります。
夜は、しんしんと更(ふ)け、二人は火鉢(ひばち)をかこみながら、熱っぽく語り合ったのであります。

≪戸田城聖≫ 牧口先生。先生の教育学を、後世のためにぜひ出版しましょう。やりましょう。

≪牧口常三郎≫ 戸田君、本の出版には、金がかかるよ。

≪戸田城聖≫  私には、たくさんはありませんけれども、あるだけ、全部投げ出しましょう。
けっしてご心配なさらないでください。
先生。先生の、教育学は、何が目的ですか?

≪牧口常三郎≫ 価値を創造することだ。

≪戸田城聖≫ それでは先生、先生の教育学を、創価―創価教育学と決めましょう。

≪ナレーションB≫ “価値創造”を略して「創価」とした戸田の進言を、牧口は大変気に入って採用したのであります。
こうして、昭和5年1930年11月18日 牧口先生の30年に及ぶ研究・思索・実践の結晶として「創価 教育学 体系 第一巻」が発刊されます。

そして、この日を、もって、創価学会の創立記念日となったことは、皆様ご存知のとおりです。

やがて日本は戦争への道を歩み始め、時代は軍国主義一色に、塗りつぶされたのであります。
座談会にも特高警察が同席し、牧口先生の「神札」を謗法とする発言などに、たいして「そこまで!止(や)め!弁士中止!中止だ!」と大声を上げるようにな、― そんな時代になったのであります。
しかし、牧口門下の折伏、弘教の戦いは、「神札」を謗法払いして、着実に進められていったのであります。

ところが、日蓮正宗は、権力の弾圧を恐れ、大聖人の精神を忘れさっていたのです。
昭和18年1943年6月学会の幹部は総本山に登山を命ぜられた。

≪本山僧侶≫   エー私は、日蓮正宗総本山の偉い、ご僧侶です。エー時節がら、総本山においても、神札を、一応、受けることにした。エーこんどの教師指導会において、全国の寺院に対しても、徹底する予定である。そこでだ、創価学会でも、神札を受けるように申しわたす。

≪牧口常三郎≫  承服いたしかねます。神札は、絶対に受けません。いまだかつて創価学会は、総本山に、何ひとつご迷惑を、かけておらぬでは、ありませんか。

≪本山僧侶≫   エー、いやいや、創価学会が謗法払いと、称して、神札を焼いておるのは、本山の指導によるものだと、警察に告訴状がでているのですぞ。

≪牧口常三郎≫  承服いたしかねます。神札は、絶対に受けません。

≪ナレーションB≫ 牧口会長は、こういいきって、総本山を、後にしたのであります。

≪牧口常三郎≫  私が嘆くのは、一宗が滅びることではない。一国が眼前でみすみす滅び去ることだ。宗祖日蓮大聖人の悲しみを私はひたすら恐れるのだ。今こそ国家諫暁の時ではないか。
宗門は、いったい、何を恐れているのだろう?
戸田君、君はどう考える?

≪戸田城聖≫  先生、戸田は命をかけて戦います。何がどうなろうと、戸田は、どこまでも先生の、お供をさせていただきます。

≪ナレーションB≫ 牧口は、一、二度うなずいて、はじめてニッコリと笑いかけた。そして、この日から一ヶ月たたぬうちに、二人は逮捕されたのである。権力の弾圧に恐れをなした宗門は、創価学会に対して総本山への登山を禁止し、信徒除名処分にしたのです。

日蓮正宗宗門は、大聖人の仏法を唯一、守った牧口先生を切り捨てたのであります。

≪ナレーションB≫ 獄中からの手紙を紹介します。

≪牧口常三郎≫ 昭和19年1944年10月13日「カントの哲学を精読している。100年前及びその後、学者共が、望んでも手を着けない「価値論」を私が著し、しかも上は法華経の信仰に結びつけ、数千人に実証したのを見て、自分ながら驚いている。これ故、三障四魔が粉起するのは当然で、経文通りです。」

≪ナレーションB≫ これが牧口先生の絶筆となりました。昭和19年1944年11月18日― 牧口会長は東京拘置所で逝去したのであった。奇しくも、創価教育学体系の出版から、ちょうど14年の歳月が、流れていたのです。

≪ナレーションA≫ それから一年、昭和20年1945年11月18日、牧口常三郎の一周忌が営まれることになった。集まったのは、親族のほかに、わずかに二十数名の門下の弟子であった。かつて三千名をかぞえた創価教育学会員は、いま牧口会長の一周忌法要というのに、これだけしか、集まることが、できなく、なってしまった。それは、創価学会の再建が、いかに、困難であるかを、物語っていたのです。

≪戸田城聖≫ 私は寒い独房(どくぼう)のなかで、いつも御本尊様に祈っておりました。
―― 私はまだ若い。先生は74歳でいらせられる。どうか、罪は私一身に集まって、先生は一日も早く帰られますように、と。 
ところが、忘れもしない今年一月八日、私は取り調べの判事から、突然「牧口は死んだよ」と聞かされたのであります。
私は独房に帰って、ただ涙にかきくれました。
この世に、これほどの悲しみがあろうとは、思いもかけないことでありました。

先生は、死して、獄門を出られた。
不肖(ふしょう)の弟子の私は、生きて獄門を出た。
私がなにを、なさねばならぬかは、それは自明(じめい)の理であります。
―― 話に聞いた地湧の菩薩は、どこにいるのでもない。じつにわれわれなのであります。
わたしは、この自覚に立って、いまはっきりと叫ぶものであります。
―― 広宣流布は、誰がやらなくても、この戸田が必ずいたします。
地下にねむる先生、もうしわけございませんでした。
先生、先生の真(まこと)の弟子として、立派に妙法流布にこの身を捧げ、先生のもとにまいります。
きょうよりは、やすらかにお休みになってください。

≪ナレーションA≫ この日は、戸田城聖が広宣流布の第一声を放った、歴史的一日となったのであります。

本日は、小説「人間革命」第1巻「一人立つ」の章、さらに小説「人間革命」第2巻「地湧」の章、などから、「牧口先生と戸田先生」そして「11.18 創立記念日」のお話を、黎明地区、のオール スター キャスト で、お送りいたしました。                                  
本日は、テーマを、かなり、欲張りすぎて、書き残しが、たくさんございます。
それらは、またの寸劇に、こう、ご期待、であります。以上で寸劇のコーナーを終わります。



最後まで読んでいただきありがとうございます。

この寸劇の分量はおおよそ、20文字×200行です。

この寸劇を、実際に座談会でやってみようと思った方は、「続きを読む」を御覧ください。

空白行の少ないテキストデータを準備しましたので、ご利用ください。

テーマ: 二次創作 | ジャンル: 小説・文学

『11.18』のお話 創価教育学会の発足 ショート版

先生どうか私の原稿を見てください。
そういって牧口が差し出した原稿は2000枚近く、厚さにして六寸(約18センチ)もあった。
これは大変なものだ…。ところで、君はどのようにして、これほどの学問をしたのですか

先生の、教育学は、何が目的ですか? 
価値を創造できる人間を育成すること。つまり、価値を創(つく)ることだ。
それでは先生、先生の教育学を、創価教育学と名付けましょう。

P1010480_01.jpg
以前に掲載した『11.18 のお話 創価教育学会の発足 ショートバージョン』を、少し、書き直ししたものです。

≪ナレーションA≫ それでは寸劇のコーナーです。
本日は、牧口先生と戸田先生、そして創価教育学会 創立の、お話であります。

≪ナレーションB≫ 牧口常三郎は、明治4年1871年新潟の荒浜村に生まれた。
小学校卒業後、単身北海道に渡り、苦学して、北海道尋常(じんじょう)師範学校(現・北海道教育大学)卒業。
同付属小学校などで教壇に立つかたわら、地理学の研究を続けたのであります。
明治34年1901年、上京。牧口常三郎、30歳であります。
そして、著名な地理学者の、門をたたいたのであります。

≪牧口常三郎≫ 先生、どうか私の原稿を見てください。

≪ナレーションB≫ そういって牧口が差し出した原稿は2000枚近く、厚さにして六寸(約18センチ)もあった。

≪著名な地理学者≫ これは大変なものだ…。
ところで、君はどのようにして、これほどの学問をしたのですか。

できるだけの援助をしましょう。
ところで、この書の題名は、なんですか。

≪牧口常三郎≫ はい、「人生地理学」と、したいと思っています。

≪ナレーションB≫ こうして、明治36年1903年10月、遂(つい)に牧口の悲願が実って、最初の著作「人生地理学」が出版されたのであります。
執筆(しっぴつ)を始めてから、ちょうど10年目のことであります。

この書は、ベストセラーとなり、地理学 学会に大きな波紋(はもん)を呼んだのであります。

≪ナレーションA≫ 時は流れて、大正9年、西暦1920年2月。
青雲の志(こころざし)に燃える、戸田青年は、北海道厚田村の父と母に別れを告げ、東京を目指した。

彼の心には、大きな志が、赤々と熱く燃えさかっていたのであります。
しかし、上京した戸田青年を待っていたもの、それは苦闘(くとう)の日々でありました。
やがて友人を通して、同じ北海道出身の牧口常三郎の存在を知ったのであります。

当時、牧口は、台東区の西町尋常小学校の校長を勤めていたのであります。

≪ナレーションB≫ 紹介状をたずさえ、戸田青年は、緊張して、牧口常三郎の自宅を訪ねた。
季節はもう夏であります。
牧口は、鋭い眼で戸田青年をじっと見た。
そして北海道出身の青年と知って、快く迎えたのであります。

≪牧口常三郎≫  履歴書をお持ちになったかな?

≪戸田青年≫  はい、持ってきました。
(すごい人だ。でも、やさしそうだ。よし、思い切っていこう。ゴクリ。)
 先生、私をぜひ採用してください。
私はどんな劣等生でも、必ず優等生にしてみせます。
先生、私を採用してくだされば、あとできっと、「いい奴を採用してよかった」、とお考えになるでしょう。

≪牧口常三郎≫  はっ、はっ、はっ。そうか、そうか。

≪戸田青年≫(ちょっと照れるが、ここが大事。よし、もう一押しだ。)

先生、ぜひとも、ぜひとも、お願いいたします。

≪牧口常三郎≫  わかった、わかった。尽力しよう。

戸田君。君は、うまくいけば素晴らしい人物になるが、わるくすると、とんでもない人間になるだろう。

≪戸田青年≫ は、はい。

≪ナレーションB≫ この時、牧口常三郎は49歳。戸田青年は20歳でありました。

こうして戸田青年は、牧口先生のはからいで、彼が校長を務める西松尋常小学校に代用教員となったのです。

≪ナレーションA≫ やがて昭和3年1928年。牧口先生が日蓮正宗に入信し、戸田青年も入信します。
当時のいきさつを、いろいろやってますと、寸劇が、朝になってしまいますので、今回は、次のお話を急ぐことに、いたしましょう。

≪ナレーションB≫ 時は、昭和4年1929年2月。
牧口は、戸田の自宅を、新しい教育学説の発表と名称について語るために、訪れたのであります。
夜は、しんしんと更(ふ)け、二人は火鉢(ひばち)をかこみながら、熱っぽく語り合ったのであります。

≪戸田青年≫ 牧口先生。先生の教育学を、後世のためにぜひ出版しましょう。やりましょう。

≪牧口常三郎≫ 戸田君、本の出版には、金がかかるよ。

≪戸田青年≫  私には、たくさんはありませんけれども、あるだけ、全部投げ出しましょう。けっしてご心配なさらないでください。
先生。先生の、教育学は、何が目的ですか?

≪牧口常三郎≫ 価値を創造することだ。

≪戸田青年≫ それでは先生、先生の教育学を、創価―創価教育と決めましょう。

≪ナレーションB≫ “価値創造”を略して「創価」とした戸田の進言を、牧口は大変気に入って採用したのであります。

こうして、昭和5年1930年11月18日 牧口先生の30年に及ぶ研究・思索・実践の結晶として「創価 教育学 体系 第一巻」が発刊されます。
そして、この日を、もって、創価学会の創立記念日となったことは、皆様ご存知のとおりです。

≪ナレーションA≫  本日は、小説「人間革命」第2巻「地湧」(じゆ)の章、さらに新人間革命第12巻「栄光」の章などから、『牧口先生と戸田先生』、そして『11.18創立記念日』のお話を、旭日地区のオール スター キャストでお送りいたしました。

戸田青年と、牧口初代会長、この2人の偉人は、創価教育学会を、どのように発展させていくのでありましょうか。

それらは、またの寸劇に、こう、ご期待、であります。

以上で寸劇のコーナーを終わります。



この寸劇の分量は約20文字×130行です。


(参考資料)

「創価学会思想シリーズ18 大村浩二・舘野允男 共著 S51.8.15.聖教新聞社刊」より 以下の部分を、引用、参考にしました。 

P33 上京して一年後、明治35年の春には、「日本風景論」の著者・志賀重たか の門を叩いた。この時、志賀は牧口を一目見て気に入ってしまった。学問を愛するひたむきな青年の学究姿勢に触れて心を動かされたに違いない。
「先生、どうか私の原稿を見てください。」
そういって牧口が差し出した原稿は2000枚近く、厚さにして六寸(約18センチ)もあった。
「これは大変なものだ…。ところで、君はどのようにして、これほどの学問をしたのですか。」
志賀は、無名の学究が衣食の窮乏に耐えてこつこつと研究をつみあげてきたことを察して、その意気を壮とし、できるだけの援助をすることを約した。

P72  牧口は、戸田の自宅を、新しい教育学説の発表と名称について語るために、訪れた。昭和4年2月の寒い日であった。
夜は、しんしんと更け、夜の12時近かった。二人は火鉢をかこみながら、熱っぽく語り合った。
戸田は「先生の、教育学は、何が目的ですか」と質問すると、牧口は、眼を炯々と輝かせ、おもむろに、「価値を創造できる人間を育成することだ」と答えた。
「では先生、創価教育学ときめましょう。」と戸田は言った。
“価値創造”を略して「創価」とした戸田の進言を、牧口は大変気に入って採用した。


牧口会長7回忌法要(S25.11.12) 「牧口先生7回忌に」より、以下の部分を、引用、参考にしました。(戸田城聖全集第3巻P417 S58.2.11.聖教新聞社刊)
忘れもしません。夜の12時まで、二人で火鉢をかこんで、私の家で、こんこんと学説の発表について語り合いました。
「よし、先生、やりましょう」と申しあげると、先生は「戸田君、金がかかるよ」と申されました。
わたくしは「わたくしには、たくさんはありませんけれども、一万九千円のものは、ぜんぶ投げ出しましょう」と申しあげ、また「先生の教育学は、何が目的ですか」といいますと、先生はおもむろに「価値を創造することだ」と申されました。
「では先生、創価教育、と決めましょう」というぐあいで、名前も一分間で決まったのです。



最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

このブログを実際に座談会でやってみようと思われた方は「続きを読む」をご覧ください。


このブログでは、読みやすくするために、空白行がたくさんありますが、これでは印刷になりません。
空白行の少ないテキストデータを準備しましたので、ご活用ください。

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11.18のお話

 
 履歴書をお持ちになったかな?

 はい、持ってきました。

 夕張の小学校に勤めておられたのですな。

 はい。勉強のできる子供はどんどん伸ばしました。
 苦手な子供には、辛抱強く、繰り返し、繰り返し教えました。
 そして、勉強は、午前中だけにして、午後は、全部、体育の授業にしましたので、子供たちは、大喜びでした。

 なるほど。なるほど。

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≪ナレーションA≫ それでは寸劇人間革命のコーナーです。

本日は、牧口先生と戸田先生、そして創価教育学会の、お話であります。

≪ナレーションB≫ 大正9年、西暦1920年の夏。紹介状をたずさえ、戸田青年は、緊張して、牧口常三郎の自宅を訪ねた。
牧口は、鋭い眼で戸田青年をじっと見た。そして自分と同じ北海道出身の青年と知って、快く迎えたのであります。

≪牧口常三郎≫  履歴書をお持ちになったかな?

≪戸田青年≫  はい、持ってきました。

≪牧口常三郎≫ 夕張の小学校に勤めておられたのですな。

≪戸田青年≫  はい。勉強のできる子供はどんどん伸ばしました。苦手な子供には、辛抱強く、繰り返し、繰り返し教えました。
そして、勉強は、午前中だけにして、午後は、全部、体育の授業にしましたので、子供たちは、大喜びでした。

≪牧口常三郎≫ なるほど。なるほど。

≪戸田青年≫(すごい人だ。でも、やさしそうだ。よし、思い切っていこう。ゴクリ。)

先生、私をぜひ採用してください。
私はどんな劣等生でも、必ず優等生にしてみせます。
先生、私を採用してくだされば、あとできっと、『いい奴を採用してよかった』と、お考えになるでしょう。

≪牧口常三郎≫  はっ、はっ、はっ。そうか、そうか。

≪戸田青年≫(ちょっと照れるが、ここが大事。よし、もう一押しだ。ゴクリ。)

先生、ぜひとも、ぜひとも、お願いいたします。

≪牧口常三郎≫  わかった、わかった。尽力(じんりょく)しよう。

戸田君。君は、うまくいけば素晴らしい人物になるが、わるくすると、とんでもない人間になるだろう。

≪戸田青年≫ はぁ、はい。

≪ナレーションB≫ この時、牧口常三郎は49歳。戸田青年は20歳でありました。
こうして戸田青年は、牧口先生の、はからいで、彼が校長を務める小学校の、代用教員となったのであります。

≪ナレーションA≫ 時は流れて、昭和4年の冬。
牧口と戸田は、新しい教育学説の発表と名称について話し合いました。
夜は、しんしんと更け、二人は火鉢(ひばち)をかこみながら、熱っぽく語り合ったのであります。

≪戸田青年≫  先生の、教育学は、何が目的ですか?

≪牧口常三郎≫ 価値を創造できる人間を育成すること。つまり、価値を創(つく)ることだ。

≪戸田青年≫  それでは先生。先生の教育学を、創価 ― 創価教育学と名付けましょう。

≪ナレーションB≫ こうして、昭和5年1930年11月18日 牧口先生の30年に及ぶ研究・思索・実践の結晶として「創価 教育学 体系 第一巻」が発刊されます。
そして、この日を、もって、創価学会の創立記念日となったことは、皆様ご存知のとおりです。

≪ナレーションA≫  本日は、小説「人間革命」第2巻「地湧」(じゆ)の章、などから、『牧口先生と戸田先生』、そして『11.18創立記念日』のお話を、黎明地区・オール スター キャストでお送りいたしました。

以上で寸劇人間革命のコーナーを終わります。



寸劇人間革命を読んでいただきありがとうございます。

今まで、作ってきた、11.18のお話を、もう一回、簡単なものに作り変えてみました。
この寸劇人間革命の分量はおおよそ 20文字×80行です。

原稿印刷用に、空白行の少ないテキストデータを準備しました。
是非、ご活用ください。

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創立記念日,11.18にまつわるお話ショート版


我いま仏の 旨をうけ
 妙法流布の 大願を
高くかかげて 独り立つ
 味方は少なし 敵多し

誰をか頼りに 闘わん
 丈夫の心 猛けれど
広き戦野は 風叫ぶ
 捨つるは己が 命のみ

捨つる命は 惜しまねど
 旗持つ若人 何処にか
富士の高嶺を 知らざるか
 競うて来たれ 速やかに

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≪ナレーションA≫ 時は、昭和5年1930年11月18日。
初代会長・牧口常三郎先生の30年に及ぶ研究・思索・実践の結晶として「創価 教育学 体系 第一巻」が発刊されました。

そうです。本日は創価学会の創立記念日・11.18のお話であります。

≪ナレーションB≫ 時は流れて、昭和18年1943年6月。学会の幹部は総本山に登山を命ぜられ、なんと、「学会も『神札』を受けるように」と、話されたのであります。

≪牧口常三郎≫  承服(しょうふく)いたしかねます。神札は、絶対に受けません。

≪ナレーションB≫ 牧口会長は、こう言い切って、総本山を、後にしたのであります。

≪牧口常三郎≫ 私が嘆くのは、一宗(いっしゅう)が滅びることではない。一国が眼前でみすみす滅び去ることだ。宗祖日蓮大聖人の悲しみを私はひたすら恐れるのだ。

今こそ国家諫暁(かんぎょう)の秋(とき)ではないか。
宗門は、いったい、何を恐れているのだろう?
戸田君、君はどう考える?

≪戸田城聖≫ 先生、戸田は命をかけて戦います。
何がどうなろうと、戸田は、どこまでも先生の、お供をさせていただきます。

≪ナレーションB≫ 牧口は、一、二度うなずいて、はじめてニッコリと笑いかけた。
そして、この日から十日とたたぬうちに、二人は逮捕されたのである。

権力の弾圧に恐れをなした宗門は、あわてて創価学会の総本山への登山を禁止し、信徒除名処分としたのです。

逮捕されてから一年四ヶ月。
昭和19年11月18日。牧口会長は東京拘置所で逝去したのであった。
奇(く)しくも、創価教育学体系の出版から、ちょうど14年の歳月が、流れていたのであります。

≪ナレーションA≫ それから一年、昭和20年11月18日。牧口会長の一周忌が営まれることになった。
集まったのは、親族のほかに、わずかに二十数名の門下の弟子であった。

≪戸田城聖≫ 忘れもしない今年一月八日、私は取り調べの判事(はんじ)から、突然「牧口は死んだよ」と聞かされたのであります。
私は独房(どくぼう)に帰って、ただ涙にかきくれました。

この世に、これほどの悲しみがあろうとは、思いもかけないことでありました。

先生は、死して、獄門(ごくもん)を出られた。
不肖(ふしょう)の弟子の私は、生きて獄門を出た。私がなにを、なさねば、ならぬかは、それは自明(じめい)の理であります。

話に聞いた地湧(じゆ)の菩薩は、どこにいるのでもない。実に、われわれなのであります。
私は、この自覚に立って、今、はっきりと叫ぶものであります。

広宣流布は、誰がやらなくても、この戸田が必ずいたします。

先生―先生の真(しん)の弟子として、立派に妙法流布にこの身を捧(ささ)げ、先生のもとにまいります。今日よりは、安らかにお休みになってください。

≪ナレーションA≫ 法要の帰り道、戸田は未来への決意を心に秘めて、自作の詩を、一人、静かに歌ったのであります。

≪同志の歌≫(ゆっくりと朗読)

我(われ)いま仏の 旨(むね)をうけ
 妙法流布(るふ)の 大願を
高くかかげて 独(ひと)り立つ
 味方は少なし 敵多し

誰(だれ)をか頼(たよ)りに 闘(たたか)わん
 丈夫(じょうぶ)の心 猛(たけ)けれど
広き戦野(せんや)は 風叫(さけ)ぶ
 捨(す)つるは己(おの)が 命のみ

捨つる命は 惜(お)しまねど
 旗(はた)持つ若人(わこうど) 何処(いずこ)にか
富士の高嶺(たかね)を 知らざるか
 競(きそ)うて来たれ 速(すみ)やかに

≪ナレーションB≫ 
本日は、小説「人間革命」第1巻「一人立つ」の章、などから、『創立記念日,11.18にまつわるお話』を、黎明地区のオール スター キャストで、お送りいたしました。

以上で寸劇人間革命のコーナーを終わります。



この寸劇人間革命を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

この寸劇人間革命の分量はおおよそ、20文字×100行です。

原稿印刷用に、空白行の少ないテキストデータを準備いたしました。
ぜひ、座談会でご活用ください。

この11.18をテーマにした寸劇人間革命はいろいろと、作ってみました。

その寸劇を読んでみたい方は、ここをクリック してください。

こっちにもあります。ここをクリック してください。


最後に「創価学会の歴史と確信」(戸田城聖著1951)の一部を収録しました。
寸劇の内容を説明する際の参考にしてください。

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