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「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆のなかに死んでいく」

諸君は妙法を胸に抱きしめた文化部員であることを、いつ、いかなる所にあっても、忘れてはなりません。
民衆のなかに生き、民衆のために闘い、民衆のなかに死んでいってほしいと私は願う。

偉くなったからといって、大衆から遊離して、孤立したり、また組織の上にあぐらをかいたりするような政治家には、絶対に、なっていただきたくないのであります。
大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆のなかに入りきって、大衆のなかに死んでいっていただきたい。

SBSH0241_02.jpg




≪ナレーションA≫ それでは寸劇のコーナーです。
本日は「大衆とともに」と題しましてお送りいたします。

時は昭和30年西暦1955年2月。
学会本部2階の広間であります。

全国から選ばれた、文化部員の任命式が行われたのであります。

戸田城聖は、まだ海のものとも、山のものともわからない文化部員を前にして、その出立(しゅったつ)を激励したのであります。

≪戸田城聖≫ いよいよ時が来たのです。
諸君は妙法を胸に抱きしめた文化部員であることを、いつ、いかなる所にあっても、忘れてはなりません。
民衆のなかに生き、民衆のために闘(たたか)い、民衆のなかに死んでいってほしいと私は願う。

名聞名利(みょうもんみょうり)を捨て去った真の政治家の出現を、現代の人類社会は渇望(かつぼう)しているのだ。
諸君こそ、やがて、この要望に応えうる人材だと、私は諸君を信頼している。
立派に闘いなさい。
私はどんなにしても応援しよう。
今後どうなろうとも、わが学会の文化部員として、生涯、誇らかに生きぬいていきなさい。
ともかく、われわれの期待を断じて裏切るな!

≪ナレーションA≫そして、思わぬ厳しい指導がなされたのです。

≪戸田城聖≫ ここに集った、54名の文化部員は、皆、私の、愛弟子(まなでし)である。
私は、『獅子が我が子を千尋(せんじん)の谷に突き落とす』がごとき思いで、諸君を政治の世界に送り出すのである。
しかし、だれ一人として、這(は)い上がってくることはできぬであろう。

≪ナレーションA≫戸田は、滂沱(ぼうだ)とながれる涙を、ぬぐおうともしなかったのであります。

新しい分野に巣立つ54名の新部員は、緊張した面持ちで戸田の言葉を聞いていた。
それは激励とも思われたが、また新しい門出への惜別(せきべつ)の言葉とも響いた。
征(ゆ)き、断じて還ることを、拳(こぶし)を握りしめて心に誓ったのであります。

≪ナレーションB≫ それでは、ここでドラマを一つ紹介しましょう。

時は、昭和38年1963年6月28日の東京都議会の本会儀・一般質問の真っ最中であります。

≪公明議員・澤田良一≫大量の“し尿”が、消毒もされぬまま、隅田川に不法投棄されているという事実を、ご存知ですか!

≪某議員≫はっはっはっ、そんなバカなことがあるはずがないでしょ

≪澤田良一≫この写真を見てください。
この写真では、雪のようなものが帯状に川面(かわも)に広がっているのがわかります。
この白いのは、全部、不法投棄された“し尿”から発生したウジです。
これでは、都民は、まるで肥溜(こえだ)めのなかにすんでいるのも同然です。
私は、その実態を、その現場を、この目で見てきたのです。!

≪某議員≫アワワ、これは、これは、アワワ、

≪澤田良一≫周辺の住民の被害は、甚大です。想像を超える、大変な悪臭です。

私たちの調査によれば、一回に不法投棄されてきた“し尿”は小型バキュームカーにして4-50台分であり、それが少なくとも、週に2,3回は行われているのです。

≪ナレーションB≫ 議場は、騒然となりました。都知事も、清掃局長も全くの初耳です。
さっそく、実態調査がおこなわれることになりました。

清掃委員会所属の議員一行は、都の清掃局のタンクを調査したあと、いよいよ“し尿運搬船”に乗り込んだのであります。

≪某議員≫ ウ!これは、ひどい。とても運搬船には乗れません。ここから見てます。

≪ナレーションB≫ 夏の太陽がジリジリと照りつけ、耐え難い悪臭が広がっていたのであります。

≪し尿運搬船の業者≫ フン、不法投棄してるなんて、とんでもない言いがかりだ。
           そんなことは、絶対にやってませんよ。

≪澤田良一≫ この船の底に、“し尿”を放流するための開閉口はありませんか

≪し尿運搬船の業者≫ フン、ありませんね

≪澤田良一≫ あそこにあるのはなんだ!あれは開閉口のフタではないのか!

≪し尿運搬船の業者≫ 今は使ってませんよ。二年も前に釘を打って、フタしてますよ。

≪澤田良一≫ よし、ハシゴを掛けてくれ!
       この糞尿槽のなかを調査する。

≪し尿運搬船の業者≫ “し尿”は、規則どうりに、大島沖で、ポンプを使って捨てているので、開閉口は使っていませんよ。
中に入るなんて、そんなことやめてください。

≪ナレーションB≫ 公明会の議員は、ハシゴを下り、糞尿槽(ふんにょうそう)のなかに入っていった。
なかには、強烈な臭気が充満していたのであります。
しかし彼らは、鋭く業者の隠蔽工作(いんぺいこうさく)を見抜いていった。
開閉口のフタを閉ざすために打たれている釘が、まだ新しく、光っていることを見逃さなかったのであります。

≪澤田良一≫釘がまだ光っている。
二年も前に打った釘ならば、錆(さ)びついているはずだ。
この釘は、科学検査のために持って帰ります。

≪し尿運搬船の業者≫ いやだめだ。それはだめだ。

≪澤田良一≫なぜですか!

≪し尿運搬船の業者≫ なぜって…。あの…。ここには、釘抜きがないから、抜けないよ、、、

≪ナレーションB≫ それから間もない、ある日のことである。
深夜、議員の家に、脅迫電話がかかってきたのです。
「この件には、これ以上かかわるな!深入りするなら消すぞ!」
そして再び念を押すように、強い語調で「消すぞ!」と繰り返して電話は切れたのです。
だが公明会の議員は、いささかもひるまなかったのであります。

「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆のなかに死んでいく」
--それが公明政治連盟の議員たちの、偉大なる精神であったからだ。

この精神を訴えたのは、山本伸一であった。

≪ナレーションA≫ 昭和37年西暦1962年9月13日公明政治連盟の第1回全国大会に出席した山本伸一は、大衆の真実の友たるべき、公明政治連盟の政治家の在り方を、次のように語ったのであります。

≪山本伸一≫最後の最後まで、生涯、政治家として、そして指導者として、大衆に直結していってもらいたい。

偉(えら)くなったからといって、大衆から遊離(ゆうり)して、孤立(こりつ)したり、また組織の上にあぐらをかいたりするような政治家には、絶対に、なっていただきたくないのであります。

大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆のなかに入りきって、大衆のなかに死んでいっていただきたい。
どうか、公政連(こうせいれん)の同志の皆さん方だけは、全民衆のための、大衆のなかの政治家として、一生を貫き通していただきたいと、切望するものであります。

≪ナレーションA≫そしてこの「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆のなかに死んでいく」との言葉が、公明党の偉大なる立党精神となっていることは、皆様ご存知のとおりであります。

本日は、小説人間革命第9巻「展開」の章、さらに、小説新人間革命第9巻「衆望」の章などから、「大衆とともに」と題しまして、公明党の立党精神のお話を、旭日地区の オールスターキャストでお送りいたしました。

なお、来月は、薫(かお)り高き「寸劇」を準備しておりますので、どうかよろしくお願いいたします。

以上で寸劇のコーナーを終わります。




最後まで読んでいただきありがとうございます。

この寸劇人間革命の分量は、おおよそ20文字×170行です。

この寸劇を実際に座談会でやってみようと、思われた方は、「続きを読む」をご覧ください。
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『11.18』のお話 創価教育学会の発足 

先生の、教育学の目的は、一言で言えば、何でしょう?
それは、価値を創(つく)ることだ。
それでは、先生の教育学を、創価――創価教育学と名付けましょう。

私は寒い独房(どくぼう)のなかで、いつも御本尊様に祈っておりました。―― 私はまだ若い。先生は74歳でいらせられる。どうか、罪は私一身に集まって、先生は一日も早く帰られますように、と。 ところが、忘れもしない今年一月八日、私は取り調べの判事から、突然「牧口は死んだよ」と聞かされたのであります。私は独房に帰って、ただ涙にかきくれました。この世に、これほどの悲しみがあろうとは、思いもかけないことでありました。


SBSH1266.jpg
2012年6月に公開したものを書き直したものです。

≪ナレーションA≫ それで寸劇のコーナーです。本日は、牧口先生と戸田先生のお話であります。

 時は大正9年、西暦1920年、2月。青雲の志に燃える、戸田青年は、北海道厚田村の父と母に別れを告げ、東京を目指した。
彼の心には、大きな志が、赤々と熱く燃えさかっていたのであります。
しかし、上京した戸田青年を待っていたもの、それは苦闘の日々でありました。
 北海道出身の友人たちの人脈を通して、同じ北海道出身の牧口常三郎の存在を知ったのは、もう夏が近くなったころでした。

紹介状をたずさえ、戸田青年は、緊張して、牧口常三郎の自宅を訪ねた。牧口は、鋭い眼で戸田青年をじっと見た。
そして北海道出身の青年と知って、快く迎えたのであります。

≪牧口常三郎≫  履歴書をお持ちになったかな?

≪戸田青年≫  はい、持ってきました。
(すごい人だ。でも、やさしそうだ。よし、思い切っていこう。ゴクリ。)

 先生、私をぜひ採用してください。
私はどんな劣等生でも、必ず優等生にしてみせます。
先生、私を採用してくだされば、あとできっと、「いい奴を採用してよかった」、とお考えになるでしょう。

≪牧口常三郎≫  はっ、はっ、はっ。そうか、そうか。

≪戸田青年≫(ちょっと照れるが、ここが大事。よし、もう一押しだ。)
先生、ぜひとも、ぜひとも、お願いいたします。

≪牧口常三郎≫  わかった、わかった。尽力しよう。
戸田君。君は、うまくいけば素晴らしい人物になるが、わるくすると、とんでもない人間になるだろう。

≪戸田青年≫ は、はい。

≪ナレーションA≫ この時、牧口常三郎49歳。戸田青年は20歳でありました。
 こうして戸田青年は、牧口先生のはからいで、彼が校長を務める西松尋常小学校に代用教員となったのです。やがて昭和3年1928年。牧口先生が日蓮正宗に入信し、戸田青年も入信します。当時のいきさつを、いろいろやってますと、寸劇が、朝になってしまいますので、今回は、次のお話を急ぐことに、いたしましょう。

≪ナレーションB≫ 時は、昭和4年1929年2月。
牧口は、戸田の自宅を、新しい教育学説の発表と名称について語るために、訪れたのであります。
夜は、しんしんと更(ふ)け、二人は火鉢(ひばち)をかこみながら、熱っぽく語り合ったのであります。

≪戸田城聖≫ 牧口先生。先生の教育学を、後世のためにぜひ出版しましょう。やりましょう。

≪牧口常三郎≫ 戸田君、本の出版には、金がかかるよ。

≪戸田城聖≫  私には、たくさんはありませんけれども、あるだけ、全部投げ出しましょう。
けっしてご心配なさらないでください。
先生。先生の、教育学は、何が目的ですか?

≪牧口常三郎≫ 価値を創造することだ。

≪戸田城聖≫ それでは先生、先生の教育学を、創価―創価教育学と決めましょう。

≪ナレーションB≫ “価値創造”を略して「創価」とした戸田の進言を、牧口は大変気に入って採用したのであります。
こうして、昭和5年1930年11月18日 牧口先生の30年に及ぶ研究・思索・実践の結晶として「創価 教育学 体系 第一巻」が発刊されます。

そして、この日を、もって、創価学会の創立記念日となったことは、皆様ご存知のとおりです。

やがて日本は戦争への道を歩み始め、時代は軍国主義一色に、塗りつぶされたのであります。
座談会にも特高警察が同席し、牧口先生の「神札」を謗法とする発言などに、たいして「そこまで!止(や)め!弁士中止!中止だ!」と大声を上げるようにな、― そんな時代になったのであります。
しかし、牧口門下の折伏、弘教の戦いは、「神札」を謗法払いして、着実に進められていったのであります。

ところが、日蓮正宗は、権力の弾圧を恐れ、大聖人の精神を忘れさっていたのです。
昭和18年1943年6月学会の幹部は総本山に登山を命ぜられた。

≪本山僧侶≫   エー私は、日蓮正宗総本山の偉い、ご僧侶です。エー時節がら、総本山においても、神札を、一応、受けることにした。エーこんどの教師指導会において、全国の寺院に対しても、徹底する予定である。そこでだ、創価学会でも、神札を受けるように申しわたす。

≪牧口常三郎≫  承服いたしかねます。神札は、絶対に受けません。いまだかつて創価学会は、総本山に、何ひとつご迷惑を、かけておらぬでは、ありませんか。

≪本山僧侶≫   エー、いやいや、創価学会が謗法払いと、称して、神札を焼いておるのは、本山の指導によるものだと、警察に告訴状がでているのですぞ。

≪牧口常三郎≫  承服いたしかねます。神札は、絶対に受けません。

≪ナレーションB≫ 牧口会長は、こういいきって、総本山を、後にしたのであります。

≪牧口常三郎≫  私が嘆くのは、一宗が滅びることではない。一国が眼前でみすみす滅び去ることだ。宗祖日蓮大聖人の悲しみを私はひたすら恐れるのだ。今こそ国家諫暁の時ではないか。
宗門は、いったい、何を恐れているのだろう?
戸田君、君はどう考える?

≪戸田城聖≫  先生、戸田は命をかけて戦います。何がどうなろうと、戸田は、どこまでも先生の、お供をさせていただきます。

≪ナレーションB≫ 牧口は、一、二度うなずいて、はじめてニッコリと笑いかけた。そして、この日から一ヶ月たたぬうちに、二人は逮捕されたのである。権力の弾圧に恐れをなした宗門は、創価学会に対して総本山への登山を禁止し、信徒除名処分にしたのです。

日蓮正宗宗門は、大聖人の仏法を唯一、守った牧口先生を切り捨てたのであります。

≪ナレーションB≫ 獄中からの手紙を紹介します。

≪牧口常三郎≫ 昭和19年1944年10月13日「カントの哲学を精読している。100年前及びその後、学者共が、望んでも手を着けない「価値論」を私が著し、しかも上は法華経の信仰に結びつけ、数千人に実証したのを見て、自分ながら驚いている。これ故、三障四魔が粉起するのは当然で、経文通りです。」

≪ナレーションB≫ これが牧口先生の絶筆となりました。昭和19年1944年11月18日― 牧口会長は東京拘置所で逝去したのであった。奇しくも、創価教育学体系の出版から、ちょうど14年の歳月が、流れていたのです。

≪ナレーションA≫ それから一年、昭和20年1945年11月18日、牧口常三郎の一周忌が営まれることになった。集まったのは、親族のほかに、わずかに二十数名の門下の弟子であった。かつて三千名をかぞえた創価教育学会員は、いま牧口会長の一周忌法要というのに、これだけしか、集まることが、できなく、なってしまった。それは、創価学会の再建が、いかに、困難であるかを、物語っていたのです。

≪戸田城聖≫ 私は寒い独房(どくぼう)のなかで、いつも御本尊様に祈っておりました。
―― 私はまだ若い。先生は74歳でいらせられる。どうか、罪は私一身に集まって、先生は一日も早く帰られますように、と。 
ところが、忘れもしない今年一月八日、私は取り調べの判事から、突然「牧口は死んだよ」と聞かされたのであります。
私は独房に帰って、ただ涙にかきくれました。
この世に、これほどの悲しみがあろうとは、思いもかけないことでありました。

先生は、死して、獄門を出られた。
不肖(ふしょう)の弟子の私は、生きて獄門を出た。
私がなにを、なさねばならぬかは、それは自明(じめい)の理であります。
―― 話に聞いた地湧の菩薩は、どこにいるのでもない。じつにわれわれなのであります。
わたしは、この自覚に立って、いまはっきりと叫ぶものであります。
―― 広宣流布は、誰がやらなくても、この戸田が必ずいたします。
地下にねむる先生、もうしわけございませんでした。
先生、先生の真(まこと)の弟子として、立派に妙法流布にこの身を捧げ、先生のもとにまいります。
きょうよりは、やすらかにお休みになってください。

≪ナレーションA≫ この日は、戸田城聖が広宣流布の第一声を放った、歴史的一日となったのであります。

本日は、小説「人間革命」第1巻「一人立つ」の章、さらに小説「人間革命」第2巻「地湧」の章、などから、「牧口先生と戸田先生」そして「11.18 創立記念日」のお話を、黎明地区、のオール スター キャスト で、お送りいたしました。                                  
本日は、テーマを、かなり、欲張りすぎて、書き残しが、たくさんございます。
それらは、またの寸劇に、こう、ご期待、であります。以上で寸劇のコーナーを終わります。



最後まで読んでいただきありがとうございます。

この寸劇の分量はおおよそ、20文字×200行です。

この寸劇を、実際に座談会でやってみようと思った方は、「続きを読む」を御覧ください。

空白行の少ないテキストデータを準備しましたので、ご利用ください。
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『11.18』のお話 創価教育学会の発足 ショート版

先生どうか私の原稿を見てください。
そういって牧口が差し出した原稿は2000枚近く、厚さにして六寸(約18センチ)もあった。
これは大変なものだ…。ところで、君はどのようにして、これほどの学問をしたのですか

先生の、教育学は、何が目的ですか? 
価値を創造できる人間を育成すること。つまり、価値を創(つく)ることだ。
それでは先生、先生の教育学を、創価教育学と名付けましょう。

P1010480_01.jpg
以前に掲載した『11.18 のお話 創価教育学会の発足 ショートバージョン』を、少し、書き直ししたものです。

≪ナレーションA≫ それでは寸劇のコーナーです。
本日は、牧口先生と戸田先生、そして創価教育学会 創立の、お話であります。

≪ナレーションB≫ 牧口常三郎は、明治4年1871年新潟の荒浜村に生まれた。
小学校卒業後、単身北海道に渡り、苦学して、北海道尋常(じんじょう)師範学校(現・北海道教育大学)卒業。
同付属小学校などで教壇に立つかたわら、地理学の研究を続けたのであります。
明治34年1901年、上京。牧口常三郎、30歳であります。
そして、著名な地理学者の、門をたたいたのであります。

≪牧口常三郎≫ 先生、どうか私の原稿を見てください。

≪ナレーションB≫ そういって牧口が差し出した原稿は2000枚近く、厚さにして六寸(約18センチ)もあった。

≪著名な地理学者≫ これは大変なものだ…。
ところで、君はどのようにして、これほどの学問をしたのですか。

できるだけの援助をしましょう。
ところで、この書の題名は、なんですか。

≪牧口常三郎≫ はい、「人生地理学」と、したいと思っています。

≪ナレーションB≫ こうして、明治36年1903年10月、遂(つい)に牧口の悲願が実って、最初の著作「人生地理学」が出版されたのであります。
執筆(しっぴつ)を始めてから、ちょうど10年目のことであります。

この書は、ベストセラーとなり、地理学 学会に大きな波紋(はもん)を呼んだのであります。

≪ナレーションA≫ 時は流れて、大正9年、西暦1920年2月。
青雲の志(こころざし)に燃える、戸田青年は、北海道厚田村の父と母に別れを告げ、東京を目指した。

彼の心には、大きな志が、赤々と熱く燃えさかっていたのであります。
しかし、上京した戸田青年を待っていたもの、それは苦闘(くとう)の日々でありました。
やがて友人を通して、同じ北海道出身の牧口常三郎の存在を知ったのであります。

当時、牧口は、台東区の西町尋常小学校の校長を勤めていたのであります。

≪ナレーションB≫ 紹介状をたずさえ、戸田青年は、緊張して、牧口常三郎の自宅を訪ねた。
季節はもう夏であります。
牧口は、鋭い眼で戸田青年をじっと見た。
そして北海道出身の青年と知って、快く迎えたのであります。

≪牧口常三郎≫  履歴書をお持ちになったかな?

≪戸田青年≫  はい、持ってきました。
(すごい人だ。でも、やさしそうだ。よし、思い切っていこう。ゴクリ。)
 先生、私をぜひ採用してください。
私はどんな劣等生でも、必ず優等生にしてみせます。
先生、私を採用してくだされば、あとできっと、「いい奴を採用してよかった」、とお考えになるでしょう。

≪牧口常三郎≫  はっ、はっ、はっ。そうか、そうか。

≪戸田青年≫(ちょっと照れるが、ここが大事。よし、もう一押しだ。)

先生、ぜひとも、ぜひとも、お願いいたします。

≪牧口常三郎≫  わかった、わかった。尽力しよう。

戸田君。君は、うまくいけば素晴らしい人物になるが、わるくすると、とんでもない人間になるだろう。

≪戸田青年≫ は、はい。

≪ナレーションB≫ この時、牧口常三郎は49歳。戸田青年は20歳でありました。

こうして戸田青年は、牧口先生のはからいで、彼が校長を務める西松尋常小学校に代用教員となったのです。

≪ナレーションA≫ やがて昭和3年1928年。牧口先生が日蓮正宗に入信し、戸田青年も入信します。
当時のいきさつを、いろいろやってますと、寸劇が、朝になってしまいますので、今回は、次のお話を急ぐことに、いたしましょう。

≪ナレーションB≫ 時は、昭和4年1929年2月。
牧口は、戸田の自宅を、新しい教育学説の発表と名称について語るために、訪れたのであります。
夜は、しんしんと更(ふ)け、二人は火鉢(ひばち)をかこみながら、熱っぽく語り合ったのであります。

≪戸田青年≫ 牧口先生。先生の教育学を、後世のためにぜひ出版しましょう。やりましょう。

≪牧口常三郎≫ 戸田君、本の出版には、金がかかるよ。

≪戸田青年≫  私には、たくさんはありませんけれども、あるだけ、全部投げ出しましょう。けっしてご心配なさらないでください。
先生。先生の、教育学は、何が目的ですか?

≪牧口常三郎≫ 価値を創造することだ。

≪戸田青年≫ それでは先生、先生の教育学を、創価―創価教育と決めましょう。

≪ナレーションB≫ “価値創造”を略して「創価」とした戸田の進言を、牧口は大変気に入って採用したのであります。

こうして、昭和5年1930年11月18日 牧口先生の30年に及ぶ研究・思索・実践の結晶として「創価 教育学 体系 第一巻」が発刊されます。
そして、この日を、もって、創価学会の創立記念日となったことは、皆様ご存知のとおりです。

≪ナレーションA≫  本日は、小説「人間革命」第2巻「地湧」(じゆ)の章、さらに新人間革命第12巻「栄光」の章などから、『牧口先生と戸田先生』、そして『11.18創立記念日』のお話を、旭日地区のオール スター キャストでお送りいたしました。

戸田青年と、牧口初代会長、この2人の偉人は、創価教育学会を、どのように発展させていくのでありましょうか。

それらは、またの寸劇に、こう、ご期待、であります。

以上で寸劇のコーナーを終わります。



この寸劇の分量は約20文字×130行です。


(参考資料)

「創価学会思想シリーズ18 大村浩二・舘野允男 共著 S51.8.15.聖教新聞社刊」より 以下の部分を、引用、参考にしました。 

P33 上京して一年後、明治35年の春には、「日本風景論」の著者・志賀重たか の門を叩いた。この時、志賀は牧口を一目見て気に入ってしまった。学問を愛するひたむきな青年の学究姿勢に触れて心を動かされたに違いない。
「先生、どうか私の原稿を見てください。」
そういって牧口が差し出した原稿は2000枚近く、厚さにして六寸(約18センチ)もあった。
「これは大変なものだ…。ところで、君はどのようにして、これほどの学問をしたのですか。」
志賀は、無名の学究が衣食の窮乏に耐えてこつこつと研究をつみあげてきたことを察して、その意気を壮とし、できるだけの援助をすることを約した。

P72  牧口は、戸田の自宅を、新しい教育学説の発表と名称について語るために、訪れた。昭和4年2月の寒い日であった。
夜は、しんしんと更け、夜の12時近かった。二人は火鉢をかこみながら、熱っぽく語り合った。
戸田は「先生の、教育学は、何が目的ですか」と質問すると、牧口は、眼を炯々と輝かせ、おもむろに、「価値を創造できる人間を育成することだ」と答えた。
「では先生、創価教育学ときめましょう。」と戸田は言った。
“価値創造”を略して「創価」とした戸田の進言を、牧口は大変気に入って採用した。


牧口会長7回忌法要(S25.11.12) 「牧口先生7回忌に」より、以下の部分を、引用、参考にしました。(戸田城聖全集第3巻P417 S58.2.11.聖教新聞社刊)
忘れもしません。夜の12時まで、二人で火鉢をかこんで、私の家で、こんこんと学説の発表について語り合いました。
「よし、先生、やりましょう」と申しあげると、先生は「戸田君、金がかかるよ」と申されました。
わたくしは「わたくしには、たくさんはありませんけれども、一万九千円のものは、ぜんぶ投げ出しましょう」と申しあげ、また「先生の教育学は、何が目的ですか」といいますと、先生はおもむろに「価値を創造することだ」と申されました。
「では先生、創価教育、と決めましょう」というぐあいで、名前も一分間で決まったのです。



最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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このブログでは、読みやすくするために、空白行がたくさんありますが、これでは印刷になりません。
空白行の少ないテキストデータを準備しましたので、ご活用ください。
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昭和25年の山本伸一青年の闘い

先生、今度、三島さんが理事長になると、私の師匠は三島さんになるんでしょうか?
いや、それは違う!苦労ばかりかけてしまう師匠だが、君の師匠は、このぼくだよ。

伸一、お前は死のうとしている。
俺に、命をくれようとしている。
それは困る。
お前は生き抜け。断じて生き抜け!
俺の命と、交換するんだ!

古の 奇しき縁に 仕えしを 人は変われど われは変らじ
幾たびか 戦の庭に 起てる身の  捨てず持つは 君が太刀ぞよ
色は褪せ 力は抜けし 吾が王者  死すとも残すは 君が冠

異体は同心となり、一つの偉大な生命に溶けて、久遠からの、実在の、姿を、現したのである。

P1010759_2.jpg
以前(2012/08) に公開したものを少し手直ししました。



≪ナレーションA≫ それでは寸劇のコーナーです。

本日は、「昭和25年の山本伸一青年の闘い」と題しまして、お送りいたします。

時は昭和25年、西暦1950年8月24日、午後8時。
西神田にある、学会本部二階の和室であります。

法華経講義が、終了すると、戸田が、まったく意外な事を、話し始めたのであります。

≪戸田城聖≫ 私の一身上のことだが、じつは私が経営する信用組合は、きのうで営業を停止したのです。
そこで考えに考え、熟慮の末、理事長の職を今日かぎり辞任することにした。
そこで理事長は三島君に代わってもらいます。

私は、思うところあって理事長を辞任したが、信心をやめたわけでは断じてない。
深く心に期するところがあります。
広宣流布の大業に身を挺(てい)する決意は、少しもかわっておりません。

≪ナレーションA≫ 三島新理事長の挨拶が終わると、幹部たちがあつまり、打ち合わせを始めた。
伸一は、その輪から抜けだすと、ひとり戸田の部屋に入っていった。

沈(しず)んだ、元気のない伸一の姿を見ると、戸田は微笑(ほほえ)みながら聞いた

≪戸田城聖≫ なんだ、どうした。

≪山本伸一≫ 先生…

≪戸田城聖≫ なんだね?

≪山本伸一≫ 先生、今度、三島さんが理事長になると、私の師匠は三島さんになるんでしょうか?

≪戸田城聖≫ いや、それは違う!苦労ばかりかけてしまう師匠だが、君の師匠は、このぼくだよ。

≪山本伸一≫ 先生…

≪戸田城聖≫ 伸、どうした?

≪山本伸一≫ いや、先生、いいんです。先生、お休みなさい。

≪山本伸一≫ これでいい。信用組合が潰(つぶ)れようと、先生が理事長をやめようと、先生と自分との一線が狂わないならば、何が起きようと、かまったことではない。

未来、生涯、いかなる苦難が打ち続くとも、この師に学んだ栄誉を、最高、最大の、幸福とする。  
僕の生涯の師匠は、先生なんだ。先生なんだ。
これでいいんだ。これでよし。

≪ナレーションA≫ その日、8月24日は、山本伸一にとって、ちょうど入会満三年にあたる日であったのであります。

≪ナレーションB≫ 新しく手掛(てが)けた事業も難航を極めた。
給料も遅配が続いた。夜間大学に通うことも断念せざるをえなかった。

社員であった同志も、一人、またひとりと、恨(うら)みごとを残して、戸田のもとを去り、伸一ただ一人だけが残り、怒濤(どとう)に身をさらすがごとき苦闘(くとう)が始まったのである。

伸一は、必死に、戸田を守り、支えた。
胸を病む彼は、熱にさいなまれ、時に血さえ吐(は)きながらも、走りぬいた。
彼は、死をも覚悟していたのである。

戸田に一身を捧(ささ)げ、師とともに、偉大なる広宣流布の法戦を進め、戸田が生きているうちに、広布に散りゆこうと、心に決めていた。

そうしなければ、後世にまことの弟子の模範(もはん)を残すことも、現代における真実の大聖人門下の鑑(かがみ)をつくることもできない、と考えていたのであります。


≪戸田城聖≫ 伸、どうした。
生命力がてんでないじゃないか。
生命力が弱っていては、戦(いくさ)は負けだぞ。

伸一、お前は死のうとしている。
俺に、命をくれようとしている。
それは困る。
お前は生き抜け。断じて生き抜け!
俺の命と、交換するんだ!

≪ナレーションB≫ 深い感動が、山下伸一を包んだ。
深夜、一人の青年の感涙は、一首の歌に結晶したのであります。

≪山本伸一≫
古の 奇しき縁に 仕えしを 人は変われど われは変らじ
いにしえの  くしき えにしに  つかえしを  ひとは かわれど  われは かわらじ

≪ナレーションB≫ あくる朝、戸田は伸一の体を心配し、伸一はまた戸田の体を心配して、昨夜のことを思いながら挨拶を、したのであります。

≪戸田城聖≫ 伸、きのうは休めたか。これ以上、やせてはいかんぞ。

≪山本伸一≫ はい、ありがとうございます。

どうか先生こそ少しお休みになってください。お願いいたします。

先生、これを、(綺麗(きれい)に清書した紙を手渡す)


≪戸田城聖≫ うん。わかっている。

(近眼の目を、紙にすりつけんばかりにして見る)

古の 奇しき縁に 仕えしを  人は変われど われは変らじ

ウーン。よし!僕も歌をあげよう。
返し歌だ。紙はないか…。さて…。

幾たびか 戦の庭に 起てる身の  捨てず持つは 君が太刀ぞよ
いくたびか いくさの にわに たてる みの  すてず たもつは  きみが たちぞよ

これをあげよう、、いや まて、まて、もう一首あるんだ 

色は褪せ 力は抜けし 吾が王者  死すとも残すは 君が冠
いろは あせ ちからは ぬけし わが おうじゃ  しすとも のこすは きみが かんむり

さあ、これで、いいだろう

≪山本伸一≫ 幾たびか 戦の庭に 起てる身の  捨てず持つは 君が太刀ぞよ

色は褪せ 力は抜けし 吾が王者  死すとも残すは 君が冠

先生 ありがとうございます。

――この私が、はたして先生の太刀(たち)なのであろうか。この私が先生の冠(かんむり)に値(あたい)するのだろうか。

……先生はご自分のことも、私の何から、なにまでも、解(わ)かっていてくださるのだ。

≪ナレーションB≫ 伸一は眉(まゆ)をあげた。
戸田の深い慈愛は、この時、伸一の生命を永遠に貫(つらぬ)いたのである。

異体は同心となり、一つの偉大な生命に溶けて、久遠からの、実在の、姿を、現(あらわ)したのである。

戸田は、にっこり笑って、無言であった。
伸一は、必死の決意で、戸田の眼鏡(めがね)の奥の瞳(ひとみ)を、はっきりと見た。
瞳は鋭く、また暖かく、澄(す)みきって、かがやいていたのであります。

≪戸田城聖≫ 伸、仏法は勝負だ、男らしく命のある限り、戦いきってみようよ。
生命は永遠だ。その証拠が、必ずなにかの形で今世に現れるだろう

≪山本伸一≫ 仏法真実ならば、因果の理法、これまた、厳(きび)しく、あらねばならぬ。
十年後の学会を、見よ。二十年後の学会を見よ。そして、わが存在も!

≪ナレーションB≫ 時に昭和25年西暦1950年の晩秋(ばんしゅう)。
山本伸一青年22歳であります。

山本伸一は、一日一万遍の唱題を発心し、そして実行しつつ、彼をめぐるすべての苦難に耐えたのであります。

≪ナレーションA≫ 明けて、昭和26年西暦1951年1月6日。
この時、信用組合の問題は、最悪の事態に追い詰められていたのであります。

≪戸田城聖≫ 伸一、今日はよく聞いてもらいたいことがある。

伸一君、私に、もし万一のことがあったら、創価学会のことも、信用組合のことも、また新会社の大東商工のことも、いっさい君に任せるから、引き受けてくれまいか。

伸一君、君にとんでもないお土産を残すと思うかも知れないが、私のこの世に生まれた使命は、また君の使命なんだよ。
わかっているね。
私と君とが使命に生きるならば、きっと大聖人様の御遺命(ごゆいめい)も達成する時が来るだろう。
誰がなんといおうと、強く、つよく、一緒に前へ進むのだ。

≪山本伸一≫ 先生、けっしてご心配なさらないでください。
私の一生は先生に捧げて悔いのない覚悟だけは、とうにできております。
この覚悟は、また将来にわたって永遠に変わることはありません。

私がすべてやります。先生は、お体をお休めください。わたしが断じて苦境を打開します。
そして絶対に先生に、創価学会の会長になっていただきます!

≪ナレーションA≫ この約一ヵ月後、信用組合の問題は、山本伸一の奮闘により解決。

そして、いよいよ、昭和26年西暦1951年5月3日の、戸田城聖第2代会長就任式への前進が、始まったのです。

 当時、誰一人として、気づかなかった、戸田先生と山本伸一青年の、師弟不二の絆の中にこそ、創価学会の永遠普遍の原点があることは、皆様ご存知のとおりであります。

≪ナレーションA≫ 本日は、小説人間革命第4巻「怒濤 どとう」の章、「秋霜 しゅうそう」の章、さらに、小説人間革命第12巻「新・黎明 れいめい」の章などから、「山本伸一青年の闘い」を、旭日地区男子部のオールスターキャストで、お送りいたしました。

以上で寸劇のコーナーを終わります。


最後まで読んでいただきありがとうございます。
この寸劇人間革命の分量は、空白行を除いて、おおよそ、20文字×210行です。
これからもよろしくお願いします。

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テーマ: 二次創作 | ジャンル: 小説・文学

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