スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

総集編201503

総集編201503として、今まで作った寸劇人間革命の中から、座談会で使えそうなものをピックアップしてみました。

A4用紙1枚に収められる分量のものを選んでみました。以前に掲載したものを少し手直ししたものもあります。

改めて見直してみるとまだまだ下手だなあと思います。これからも挑戦していきます。よろしくお願いします。

130.jpg


1)学会歌・『厚田村』にまつわるお話
   約20文字×105行

2)『牧口先生と戸田先生』そして『11.18創立記念日』のお話
   約20文字×90行

3)『創立記念日・11.18』にまつわるお話
   約20文字×130行

4)「友人との語らい・森ヶ崎海岸」のお話
   約20文字×100行

5)「戸田先生と山本伸一青年の運命的な出会い」のお話
   約20文字×105行

6)「山本伸一22歳の闘い」のお話
   約20文字×115行

7)「5月3日創価学会の日」のお話
   約20文字×105行

8)『伝統の二月』のお話
   約20文字×105行

9)「8年目のお赤飯」のお話
   約20文字×85行

10)『7月3日』のお話
   約20文字×145行

11)「7月17日・かき氷」のお話
   約20文字×130行

12)「原水爆禁止宣言」のお話
   約20文字×130行

13)学会歌「田原坂」のお話
   約20文字×105行

14)「昭和33年3月のお話
   約20文字×105行

15)「3月16日・広宣流布記念の日」のお話
   約20文字×135行

16)「戸田先生、最後の指導」のお話
   約20文字×130行

17)「七つの鐘・そして五月三日」のお話
   約20文字×135行

18)「雪の秋田指導」のお話
   約20文字×130行

19)「植木屋のおじさん」のお話
   約20文字×130行

20)「世界広布新時代」のお話
   約20文字×125行

21)「トインビー対談」のお話
   約20文字×110行

22)第一次ソビエト訪問・コスイギン首相のお話
   約20文字×105行


以上22個の『寸劇人間革命』です。
印刷用の空白行の少ないデータを掲載しています。
是非、座談会で、ご活用ください。


1) 学会歌・『厚田村』にまつわるお話

≪ナレーション≫ 本日は「学会歌・『厚田村』にまつわるお話」であります。
時は大正9年1920年2月。
夕張は、真谷地(まやち)の尋常小学校を、突然、退職して、両親の住む、厚田村に立ち寄った、二十歳の戸田青年であります。
≪戸田青年≫ 東京に行くことにしましたので、ご挨拶にまいりました。
≪父・甚七≫ 学校の方はどうしたのだ。
≪戸田青年≫ 辞めてまいりました。東京で人生を賭けたいと思います。どうか、お許しを。
≪父・甚七≫ お前の人生だ。好きなようにするがよい。 それで、出発はいつなんだ。
≪戸田青年≫ 明日にでも、発ちたいと思っています。
≪父・甚七≫ 身を寄せる先はあるのか。
≪戸田青年≫ これといったところは、ありません。
≪父・甚七≫ はっはっはっ、おまえらしいな。
ちょっとまて。これだ。何もないが、戸田家の家宝だ。持っていけ。
≪ナレーション≫ 父は、柳行李(やなぎごうり)の中から一振りの日本刀を取り出したのでした。
刀はずっしりと重かったのであります。
≪父・甚七≫ 征け(ゆ)!! 勇気をもってな
≪ナレーション≫ 翌朝、母は徹夜で縫(ぬ)い上げたアッシをわが子に手渡したのであります。
≪母・すえ≫ さあ、このアッシをもって征(い)きなさい。さあ、着てみなさい。
≪戸田青年≫ これは、暖かい、すばらしい。ありがとう、母さん。
≪母・すえ≫ 征っておいで、(涙) 元気で、(涙) 体には気をつけて、(涙)(泣く)
≪戸田青年≫ 父さんは勇気を、僕にくれました。
母さんは愛を、僕にくれました。
これで何があっても大丈夫です。僕は負けません。
≪ナレーション≫ 時は、ながれて昭和29年、1954年8月。戸田城聖は山本伸一を伴って生まれ故郷厚田村に、数日間、滞在したのであります。
≪戸田城聖≫ 伸一君、これが私のふるさとの海だよ。
この厚田の海と、厳しい自然が、僕を育ててくれたんだ。
伸一君、僕は、日本の広宣流布の磐石(ばんじゃく)な礎(いしずえ)を作る。
君は世界の広宣流布の道を開くんだ!
この海の向こうには、大陸が広がっている。
世界は広い。そこには苦悩にあえぐ民衆がいる。
いまだ戦火におびえる子供たちもいる。
東洋に、そして世界に、妙法の灯をともしていくんだ。
この私に代わって。
≪ナレーション≫ その師匠の言葉は、強く、強く、弟子の胸を、うったのです。
翌日の早朝、一人、厚田港の防波堤を歩く、山本伸一の姿があったのであります。
≪山本伸一≫ この村から、社会、国家の行く末を憂い、東京にでて、今、広宣流布をなしとげようとしている。なんと偉大な、人生なのか!
道をふさぐ吹雪も、あの断崖も、山も、海も、戸田先生を封じこめることはできなかったのだ。
ウーン、詩心が、わいてきたぞ。
サラサラ サラサラ
「厚田村」 「恩師の故郷に憶う」
サラサラ サラサラ
北海凍る 厚田村 吹雪果てなく 貧しくも
海辺に銀の家ありき これぞ栄えあるわが古城
春夏詩情の 厚田川 鰊の波は 日本海
松前藩主の 拓きしか 断崖屏風と 漁村庭
少年動かず 月明かり 伝記と歴史の 書を読みて
紅顔可憐に 涙あり 正義の心の 鼓動楽
痛まし針の白髪に 不正に勝てとアッシ織る
母の祈りに鳳雛も 虹を求めて天子舞
暖炉に語りし父もまた 網をつくろい笑顔皺
権威の風に丈夫は 征けと一言父子の譜
厚田の故郷忘れじと 北風つつみて美少年
無名の地より世のために 長途の旅や馬上行
先生!東洋広布は、伸一がいたします。
世界広布の金の橋を、かならず架(か)けます!!
≪ナレーション≫ 北海の小さな漁村から、青年が一人立って偉大なる人生に挑戦する姿をうたったこの詩は、そのまま、若き日の山本伸一の決意であり、その決意が、この歌とともに多くの青年に受け継がれて、いますことは、皆様ご存知のとおりであります。
本日は、小説「人間革命・第12巻」「涼風(りょうふう)」の章から、「学会歌・『厚田村』にまつわるお話」を 地区のオールスターキャストで、送りいたしました。
以上で寸劇人間革命のコーナーを、終わります。

1)学会歌・『厚田村』にまつわるお話

atuta1.jpg




2) 『牧口先生と戸田先生』そして『11.18創立記念日』のお話

≪ナレーションA≫ 本日は、牧口先生と戸田先生、そして創価教育学会の、お話であります。
大正9年、1920年2月。青雲の志に燃える、戸田青年は、北海道厚田村の父と母に別れを告げ、東京を目指した。
しかし、上京した戸田青年を待っていたもの、それは苦闘の日々でありました。やがて友人を通して、同じ北海道出身の牧口常三郎の存在を知ったのであります。
当時、牧口は、台東区の西町尋常小学校の校長を勤めていたのであります。
≪ナレーションB≫ 紹介状をたずさえ、戸田青年は、緊張して、牧口常三郎の自宅を訪ねた。季節はもう夏であります。牧口は、鋭い眼で戸田青年をじっと見た。そして北海道出身の青年と知って、快く迎えたのであります。
≪牧口常三郎≫ 履歴書をお持ちになったかな?
≪戸田青年≫ はい、持ってきました。
(すごい人だ。でも、やさしそうだ。よし、思い切っていこう。ゴクリ。)
先生、私をぜひ採用してください。
私はどんな劣等生でも、必ず優等生にしてみせます。
先生、私を採用してくだされば、あとできっと、『いい奴を採用してよかった』、とお考えになるでしょう。
≪牧口常三郎≫ はっ、はっ、はっ。そうか、そうか。
≪戸田青年≫(ちょっと照れるが、ここが大事。よし、もう一押しだ。)
先生、ぜひとも、ぜひとも、お願いいたします。
≪牧口常三郎≫ わかった、わかった。尽力(じんりょく)しよう。
戸田君。君は、うまくいけば素晴らしい人物に なるが、わるくすると、とんでもない人間になるだろう。
≪戸田青年≫ は、はい。
≪ナレーションB≫ この時、牧口常三郎は49歳。戸田青年は20歳でありました。
こうして戸田青年は、牧口先生のはからいで、彼が校長を務める小学校の、代用教員となったのであります。
≪ナレーションA≫ やがて昭和3年1928年。牧口先生が日蓮正宗に入信し、戸田青年も入信します。
当時のいきさつを、いろいろやってますと、寸劇が、朝になってしまいますので、今回は、次のお話を急ぐことに、いたしましょう。
≪ナレーションB≫ 時は、昭和4年1929年2月。牧口は、戸田の自宅を、新しい教育学説の発表と名称について語るために、訪れたのであります。
夜は、しんしんと更け、二人は火鉢(ひばち)をかこみながら、熱っぽく語り合ったのであります。
≪戸田青年≫ 先生の、教育学は、何が目的ですか?
≪牧口常三郎≫ 価値を創造できる人間を育成すること。つまり、価値を創(つく)ることだ。
≪戸田青年≫ それでは先生、先生の教育学を、創価 ― 創価教育学と名付けましょう。
≪ナレーションB≫ “価値創造(かちそうぞう)”を略して「創価」とした戸田の進言を、牧口は大変気に入って採用したのであります。
こうして、昭和5年1930年11月18日 牧口先生の30年に及ぶ研究・思索・実践の結晶として「創価 教育学 体系 第一巻」が発刊されます。
そして、この日を、もって、創価学会の創立記念日となったことは、皆様ご存知のとおりです。
≪ナレーションA≫ 本日は、小説「人間革命」第2巻「地湧」(じゆ)の章。
さらに小説「新人間革命」第12巻「栄光」の章、などから、『牧口先生と戸田先生』、そして 『11.18創立記念日』のお話を、 地区のオール スター キャストでお送りいたしました。
戸田青年と、牧口初代会長、この2人の偉人は、創価教育学会を、どのように発展させていくのでありましょうか。
それらは、またの寸劇人間革命に、こう、ご期待、であります。
以上で寸劇人間革命のコーナーを終わります。

2)『牧口先生と戸田先生』そして『11.18創立記念日』のお話


無題_4


3) 『創立記念日・11.18』にまつわるお話

≪ナレーションA≫ 昭和5年1930年11月18日、初代会長牧口常三郎先生の30年に及ぶ研究・思索・実践の結晶として「創価 教育学 体系 第一巻」が発刊されました。
そうです。本日は創価学会の創立記念日・11.18のお話であります。
≪ナレーションB≫ 創価教育学会の活動が活発になった当時、座談会にも特高警察が同席して目を光らせる、軍国主義一色(いっしょく)の時代になったのであります。「天照大神(てんしょうだいじん)の神札(かみふだ)」を拝(おが)まぬものは国賊(こくぞく)とされ、反戦思想の危険人物とされたのです。しかし折伏、弘教の戦いは、神札を謗法払(ほうぼうばら)いして、着実に進められていったのであります。
≪ナレーションA≫ 昭和18年1943年6月27日、学会の幹部は日蓮正宗総本山大石寺に登山を命ぜられた。
≪本山僧侶≫ 時節がら、総本山においても、神札を、受けることにした。全国の寺院に対しても、徹底する。そこで、創価学会でも、神札を受けるように申しわたす。
≪牧口常三郎≫ 時(とき)の貫首(かんず)為(た)りと雖(いえど)も仏法に相違(そうい)して己義(こぎ)を構(かま)えば之(これ)を用(もち)う可(べ)からざる事(御書P1618)とあるではないか。
承服(しょうふく)いたしかねます。神札は、絶対に受けません。いまだかつて創価学会は、総本山に、何ひとつご迷惑を、かけておらぬでは、ありませんか。
≪本山僧侶≫ いやいや、創価学会が謗法払いで、神札を焼いておるのは、日蓮正宗の指導によるものだと、警察に告訴状がでているのですぞ。
≪牧口常三郎≫ 神札は、絶対に受けません。
≪ナレーションA≫ 牧口会長は、こう言い切って、総本山を、後にしたのであります。
≪牧口常三郎≫ 私が嘆くのは、一宗(いっしゅう)が滅びることではない。一国が眼前でみすみす滅び去ることだ。宗祖日蓮大聖人の悲しみを私はひたすら恐れるのだ。
今こそ国家諫暁(かんぎょう)の秋(とき)ではないか。
宗門は、いったい、何を恐れているのだろう?
戸田君、君はどう考える?
≪戸田城聖≫ 先生、戸田は命をかけて戦います。
何がどうなろうと、戸田は、どこまでも先生の、お供をさせていただきます。
≪ナレーションB≫ 牧口は、一、二度うなずいて、はじめてニッコリと笑いかけた。
そして、この日から十日とたたぬうちに、二人は逮捕されたのである。
権力の弾圧に恐れをなした宗門は、あわてて創価学会の総本山への登山を禁止し、信徒除名処分としたのです。
日蓮正宗は、大聖人の仏法を唯一、守った牧口先生を切り捨てたのであります。
≪ナレーションA≫ 逮捕されてから一年四ヶ月。
昭和19年11月18日― 牧口会長は東京拘置所で逝去したのであった。
奇(く)しくも、創価教育学体系の出版から、ちょうど14年の歳月が、流れていたのです。
≪ナレーションB≫ それから一年、昭和20年1945年11月18日、牧口常三郎の一周忌が営まれることになった。
集まったのは、親族のほかに、わずかに二十数名の門下の弟子であった。
かつて三千名をかぞえた創価教育学会員は、今、牧口会長の一周忌法要というのに、これだけしか、集まることが、できなかったのであります。
≪戸田城聖≫ 忘れもしない今年一月八日、私は取り調べの判事(はんじ)から、突然「牧口は死んだよ」と聞かされたのであります。
私は独房(どくぼう)に帰って、ただ涙にかきくれました。
この世に、これほどの悲しみがあろうとは、思いもかけないことでありました。
先生は、死して、獄門(ごくもん)を出られた。不肖(ふしょう)の弟子の私は、生きて獄門を出た。私がなにを、なさねば、ならぬかは、それは自明(じめい)の理であります。
話に聞いた地湧(じゆ)の菩薩は、どこにいるのでもない。
実にわれわれなのであります。
私は、この自覚に立って、今、はっきりと叫ぶものであります。
広宣流布は、誰がやらなくても、この戸田が必ずいたします。地下に眠る先生、申し訳ございませんでした。
先生―先生の真(しん)の弟子として、立派に妙法流布にこの身を捧(ささ)げ、先生のもとにまいります。今日よりは、安らかにお休みになってください。
≪ナレーションB≫ 法要の帰り道、戸田は未来への決意を心に秘めて、自作の詩を一人、静かに歌ったのであります。
≪戸田城聖≫ (“同志の歌”ゆっくりと朗読)
我(われ)いま仏の 旨(むね)をうけ
妙法流布(るふ)の 大願を
高くかかげて 独(ひと)り立つ
味方は少なし 敵多し
誰(だれ)をか頼(たよ)りに 闘(たたか)わん
丈夫(じょうぶ)の心 猛(たけ)けれど
広き戦野(せんや)は 風叫(さけ)ぶ
捨(す)つるは己(おの)が 命のみ
捨つる命は 惜(お)しまねど
旗(はた)持つ若人(わこうど) 何処(いずこ)にか
富士の高嶺(たかね)を 知らざるか
競(きそ)うて来たれ 速(すみ)やかに
≪ナレーションA≫
本日は、小説「人間革命」第1巻「一人立つ」の章、などから、『創立記念日,11.18にまつわるお話』を、 地区のオール スター キャストで、お送りいたしました。
以上で寸劇人間革命のコーナーを終わります。

3)『創立記念日・11.18』にまつわるお話


無題_4


4) 「友人との語らい・森ヶ崎海岸」のお話

≪ナレーション≫ 本日は、「友人との語らい」と題しまして、お送りいたします。
≪山本伸一≫ 私の友人にキリスト教に入った人がいた。
戦後間もなく、一緒に読書会を開き、文学や哲学を学びあった親しい仲間だった。
彼は、ある大きな悩みを抱え、教会の門を叩(たた)いた。
私が創価学会に入会する直前のことです。
その後、彼も、私も移転してしまい。消息は途絶えてしまったが、今も私は、この友人の幸せを祈っています。
もし、彼と会うことができたら、また、人生を語り合いたい。そして、仏法を教えたいと思う。
布教といっても友情から始まる。相手を尊重してこそ、本当の対話ができる。
≪ナレーション≫ 山本伸一は、友と語り合った、青春の日々を思い起こした。それは、彼が十九歳の時のことであった。やがて友人は、自分の悩みを打ち明けるようになった。
貧しい暮らし、複雑な家庭環境、人間への不信、失恋の痛手、友人は、時には涙を流しながら、自分の心境を語ることもあったのであります。
それは、月の美しい夜であった。
森ヶ崎の海岸で、いかに生きるべきか語り合っているうちに、友人は意を決したように言ったのであります。
≪友人≫ 山本君、ぼくは、キリスト教に入ってみようと思う。人間は、心に神を持たなければ、人を信ずることも、自分を信ずることもできないような気がする。
神の存在とは何かは、まだ、よくわからないけど、聖書を読んでいると、心の安らぎを覚えるし、神を信じられそうな気がしてくる。
≪山本伸一≫ 君が、そう決めたのなら、それもよいと思う。ともかく、ぼくの願いは、君が幸せになることだ。
ぼくの進もうとする道とは異なると思うが、そこから君が何かをつかみ、人生の大空に飛び立ってもらいたい。
ぼくも今は結核だし、生活も苦しいが、すべてを乗り越えて、社会のため、人々のために貢献できる、堂々たる人生を開こうと思う。お互いに頑張ろう。
≪ナレーション≫ 伸一がこう言って手を差し出すと、友人は固く、その手を握り締めた。
山本伸一が、生涯の師匠・創価学会第2代会長・戸田城聖と出会うのは、この直後のことであります。
伸一は、この友人との語らいを詩にしてノートに記し、「森ヶ崎海岸」という題をつけたのであります。
≪山本伸一 詩の朗読≫
岸辺(きしべ)に友と 森ヶ崎(もりがさき)
磯(いそ)の香(か)高く 波かえし
十九の青春 道まよい
哲学語(かた)り 時はすぐ
友は悩めり 貧(まず)しけれ
基督(キリスト)の道 われ行(ゆ)くと
瞳(ひとみ)きびしく 月映(は)えて
つよき鼓動(こどう)に 波寄せり
崩(くず)れし土手に 草深く
いかなる虫か 知らねども
今宵(こよい)は詩歌(しいか)を つくらんと
楽(がく)平安(へいあん)の 念(おも)いあり
されども友は 黙(もく)しけん
いかに生きなば わがいのち
深園(しんえん)の月に 飛びゆかん
涙を拭(ぬぐ)い 悲歎(ひたん)あり
友の孤愁(こしゅう)に われもまた
無限の願望 人生を
苦しみ開くと 誓(ちか)いしに
友は微笑(ほほえ)み 約(やく)しけん
友の求むる 遠き世に
たがうも吾(わ)れは 己(おの)が道
長歌(ちょうか)の舞台 涯(はて)しなく
白髪(しらがみ)までも 月語る
君に幸(さち)あれ わが友よ
つぎに会う日は いつの日か
無言のうちの 離別旅(わかれたび)
銀波(ぎんば)ゆれゆく 森ヶ崎
≪ナレーション≫ 後に、この詩に、青年部の有志が曲をつけ、愛唱歌として広く歌われていますことは、皆様ご存知のとおりであります。
本日は、小説・新人間革命第五巻・“歓喜”の章より、「友人との語らい・森ヶ崎海岸」と、題しまして、 地区の、オールスターキャストでお送りいたしました。
以上で、寸劇人間革命のコーナーを終わります。

4)「友人との語らい・森ヶ崎海岸」のお話


無題_4


5) 「戸田先生と山本伸一青年の運命的な出会い」のお話

≪ナレーション≫ 時は、昭和22年1947年8月14日。
東京は墨田区・蒲田。
創価学会の理事長・戸田城聖先生を囲んでの座談会の真っ最中であります。
≪戸田城聖≫ 山本伸一君は、いくつになったね?
≪山本伸一≫ 十九歳です。
≪戸田城聖≫ そうか、もうすぐ二十歳(はたち)だね。僕は二十歳の時に東京に出てきた。
北海道からはじめて東京に出てきて、まるっきり、おのぼりさん。
ずいぶん参ったもんだよ。はっはっは~。
≪山本伸一≫ 先生,教えていただきたいことが、あるのですが、
≪戸田城聖≫ 何かね、何でも聞いてあげるよ。
≪山本伸一≫ 先生、正しい人生とは、いったい、どういう人生をいうのでしょうか?
考えれば考えるほど、わからなくなるのです。
≪戸田城聖≫ さあ、これは、難問中の難問だな。この質問に答えられる人は、いまの時代には誰もいないと思う。
しかし、僕には答えることができる。
なぜならば、僕は福運あって、日蓮大聖人の仏法を、いささかでも、身で読むことができたからです。
いつまでも、十九.二十歳の娘でいたい、年は絶対にとりたくないと、いくら思ったって、あっという間に、ウメボシおばあさんになってしまう。
私は、病気は絶対にごめんだと言ったって、生身(なまみ)の体だもの、どうしようもない。
それから最後に、必ず死ぬということ。
これは厳(きび)しい。
ところが、日蓮大聖人は、この人生の難問題、すなわち生命の本質を、ものの見事に解決してくださっているのです。
しかも、だれでも、どんな人でも、必ずそのような解決の境涯(きょうがい)にいけるように、具体的に実践の仕方を、教えてくださっている。
これほどの大哲学が、いったいどこにありますか?
正しい人生とは何ぞや、と考えるのも良い。
しかし考える暇(ひま)に、大聖人の哲学を実践してごらんなさい。青年じゃありませんか。
必ずいつか、自然に自分が正しい人生を歩んでいることを、いやでも発見するでしょう。
≪山本伸一≫ もうひとつ、よろしいでしょうか。
本当の愛国者とは、どうゆう人でしょうか?
≪戸田城聖≫ それは簡単だ、乃木大将も愛国者、吉田松陰だって愛国者でしょう。
しかし本当の愛国者があるとすれば、この妙法を実践する、私たち創価学会員こそが真実の愛国者です。
その理由は、日蓮大聖人の仏法を実践する、私たち学会員こそが、一人の人間を救いきり、真実の幸福な社会を築くことが、できるから、なのです。
それだけの力が、大聖人の仏法、南無妙法蓮華経には、たしかにあるのです。
≪山本伸一≫ その南無妙法蓮華経とは、どうゆうことなんでしょうか?
≪戸田城聖≫ 一言にしていえば、人間や草木(そうもく)にいたるまでの一切の宇宙の現象は、みな妙法蓮華経の活動なのです。
難(むずか)しく言えば、法本尊(ほうほんぞん)即(そく)人本尊(にんほんぞん)で、人法一箇(にんぽういっか)のこの御本尊様こそ南無妙法蓮華経の実体といえるのです。
話せといわれれば、いくらでも話してあげたいが、山本君も少し勉強して、任用試験に合格してからに、しようじゃないか。
≪山本伸一≫ 先生ありがとうございました。いま感謝の気持ちを詩にたくして、詠(よ)ませていただきたいと思います。
旅びとよ
いずこより来(きた)り
いずこへ往(ゆ)かんとするか
月は沈(しず)みぬ
日いまだ昇(のぼ)らず
夜明けの前の混沌(カオス)に
光もとめて
われ進みゆく
心の暗雲をはらわんと
嵐に動かぬ大樹(たいじゅ)を求めて
われ地より湧(わ)き出(い)でんとするか
≪ナレーション≫ こうして山本伸一青年は、入信の決意をし、8月24日に入会したのであります。
本日は、小説「人間革命」第2巻・地湧(じゆ)の章から、『戸田先生と山本伸一青年の、運命的な出会いのお話』を、 地区の、オールスターキャストでお送りいたしました。
戸田先生47歳。そして山本伸一青年とは、池田先生のことでありますことは、皆様ご存知の通りです。
以上で寸劇人間革命のコーナーを終わります。

5)「戸田先生と山本伸一青年の運命的な出会い」のお話


無題_4


6) 「山本伸一22歳の闘い」のお話

≪ナレーションA≫ それでは寸劇人間革命のコーナーです。
本日は、『山本伸一22歳の闘い』と題しまして、お送りいたします。
時は昭和25年、1950年8月24日。
戸田は、自分の事業の失敗によって学会に迷惑をかけてはならぬとの思いから、理事長を辞任したのであります。
≪山本伸一≫ 先生、今度、三島さんが理事長になると、私の師匠は三島さんになるんでしょうか?
≪戸田城聖≫ いや、それは違う!
苦労ばかりかけてしまう師匠だが、君の師匠は、このぼくだよ。
≪ナレーションA≫ それは、ちょうど伸一の入会満3年の記念日であった。伸一は誓った。
≪山本伸一≫ 未来、生涯、いかなる苦難が打ち続くとも、この師に学んだ栄誉を、私は最高、最大の、幸福とする。
≪ナレーションB≫ 新しく手掛(てが)けた事業も難航(なんこう)を極(きわ)めた。
給料も遅配(ちはい)が続いた。夜間大学に通うことも断念(だんねん)せざるをえなかった。
伸一ただ一人だけが、怒濤(どとう)に身をさらすがごとき苦闘(くとう)が始まったのである。
伸一は、必死に、戸田を守り、支えた。胸を病(や)む彼は、熱にさいなまれ、時に血さえ吐(は)きながらも、走りぬいた。
彼は、死を覚悟していたのである。
戸田に一身(いっしん)を捧(ささ)げ、師とともに、偉大なる広宣流布の法戦(ほうせん)を進め、戸田が生きているうちに、広布に散りゆこうと心に決めていた。
そうしなければ、後世にまことの弟子の模範(もはん)を残すことも、現代における真実の大聖人門下の鑑(かがみ)をつくることもできないと考えていたのである
≪戸田城聖≫ 伸一、お前は死のうとしている。
俺に、命をくれようとしている。
それは困る。お前は生き抜け。断じて生き抜け!
俺の命と、交換するんだ!
≪ナレーションB≫ 深い感動が、山下伸一を包んだ。
深夜、一人の青年の感涙(かんるい)は、一首の歌に結晶したのであります。
≪山本伸一≫古の 奇しき縁に 仕えしを
人ひとは変われど われは変らじ
(いにしえの くしきえにしに つかえしを ひとはかわれど われはかわらじ)
≪ナレーションB≫ あくる朝、伸一は和歌を綺麗(きれい)に清書して戸田に手渡したのであります。
≪戸田城聖≫ よし! 僕も歌をあげよう。返し歌だ。
幾たびか 戦の庭に 起てる身の
捨てず持つは 君が太刀ぞよ
(いくたびか いくさのにわに たてるみの すてずたもつは きみがたちぞよ)

これをあげよう、いや、まてまて、もう一首あるんだ。
色は褪せ 力は抜けし 吾が王者
死すとも残すは 君が冠
(いろはあせ ちからはぬけし わがおうじゃ しすとものこすは きみがかんむり)

≪山本伸一≫ 先生 ありがとうございます。
この私が、はたして先生の太刀(たち)なのであろうか。
この私が先生の冠(かんむり)に値(あたい)するのだろうか。
先生は私の何から、なにまでも、解(わ)かっていてくださるのだ。
≪ナレーションB≫ 伸一は眉(まゆ)をあげた。
戸田の深い慈愛は、この時、伸一の生命を永遠に貫(つらぬ)いたのである。
異体は同心となり、一つの偉大な生命に溶けて、久遠(くおん)からの、実在の姿を、現(あらわ)したのであります。
≪戸田城聖≫ 伸、仏法は勝負だ。男らしく命のある限り、戦いきってみようよ。
生命は永遠だ。その証拠が、必ずなにかの形で今世に現れるだろう。
≪山本伸一≫ 仏法真実ならば、因果の理法、これまた、厳(きび)しく、あらねばならぬ。
十年後の学会を見よ。二十年後の学会を見よ。
そして、わが存在も!
≪ナレーションB≫ 時に昭和25年1950年の晩秋(ばんしゅう)。山本伸一青年、22歳であります。
山本伸一は、一日一万遍の唱題を発心し、そして実行しつつ、すべての苦難に耐えたのであります。
やがてすべての問題は、山本伸一の奮闘(ふんとう)により解決。
そして、いよいよ、戸田城聖第2代会長推戴(すいたい)式への前進が、始まったのです。
当時、誰一人として、気づかなかった、戸田先生と山本伸一青年の、師弟不二の絆の中にこそ、創価学会の永遠普遍の原点があることは、皆様ご存知のとおりであります。
≪ナレーションA≫ 本日は、小説人間革命第4巻「怒濤 どとう」の章、「秋霜 しゅうそう」の章、さらに小説人間革命第12巻「新・黎明 れいめい」の章などから、『山本伸一22歳の闘いのお話』を、 地区のオールスターキャストで、お送りいたしました。
以上で寸劇人間革命のコーナーを終わります。

6)「山本伸一22歳の闘い」のお話


無題_4


7) 「5月3日創価学会の日」のお話

≪ナレーションA≫ 本日は、5月3日のお話であります。
時は昭和26年1951年5月3日。定刻2時。 粛然(しゅくぜん)とした場内に、司会の緊張した声がひびきわたったのであります。
≪司会者≫ ただ今より、創価学会第2代会長推戴式(すいたいしき)を、おこないます。
会長講演 戸田城聖先生
≪戸田城聖≫ 故 牧口常三郎 初代会長は、昭和18年の春ごろから、『学会は発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)しなければならぬ』と私どもを責(せ)めるようにいうのが口癖(くちぐせ)になっていました。
不肖(ふしょう)の弟子どもは、それがどんなことなのか、私はじめ、戸惑(とまど)うだけで、どうすることもできなかったのであります。
しかるに、いまやっと学会総体に、偉大な自覚が生じ、偉大な確信のもとに活動を開始するにいたったのであります。
これこそ創価学会の発迹顕本でなくして何でありましょう。
折伏をなすものは、慈悲の境涯にあり、仏にかわって仏の事(じ)を行(ぎょう)ずるのであることを、夢にも忘れてはなりませんぞ。
この一念に立って、私は、いよいよ大折伏を果敢(かかん)に実践せんとするものであります。
私の自覚にまかせて言うならば、私は広宣流布のために、この身を捨てます。
私が生きている間に、七十五万世帯の折伏は私の手でいたします。
もし私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな。
遺骸(いがい)は品川の沖に投げ捨てなさい!
よろしいか!
≪司会者≫ 誰もが耳を疑いました。
んんん~~。もしかして、7万5千の、聞き間違いではなかろうか。
いやたしかに七十五万と聞こえた。はたして、そのような大折伏がほんとうにできるのであろうか。
≪ナレーションB≫ 七十五万世帯の折伏達成という確信はいささかの狂いもなかった。
しかし、当時の誰ひとり、それを信じることはできなかったのであります。
この日の夜。山本伸一は、日記に次のように記(しる)したのであります。
≪山本伸一≫ 五月三日 木曜日
第二代会長、戸田城聖先生の会長推戴式。
晴天、午後二時開始。祝賀会終えて解散午後九時。
遂に戸田先生は会長となられる。
待ちに待った、我等門下生の願望であった。
生涯の歴史とならん、この日。
集まりし同志、約一千数百名か。--
進まん、法旗(ほうき)を高らかに。
広宣流布をめざして。二十億の民(たみ)ぞ待て、吾が学会の進軍に。
新組織の発表に、幹部の顔は、晴ればれなり。
講演に、決意に、確信発表に、皆元気に、やらんかなの意気盛(いきさか)んなり。
吾人(ごじん)は、一人、集会の中央に、静かに、先生の、先輩諸氏(せんぱいしょし)の話を聞き入るなり。
十年先の、学会の前途(ぜんと)を、見定(みさだ)める青年ありとは、先生以外に、誰人(だれびと)も知らざるを思いながら。
≪ナレーションA≫ 戸田会長の七十五万世帯の折伏達成という予言的確信が的中するには、わずか七年たらずの歳月で充分であったのであります。
昭和32年1957年12月、
学会の総世帯数が、七十六万五千を達成するにいたったこと。
そして三ヵ月後の翌年の四月二日に、戸田先生が逝去(せいきょ)されたことは、皆様ご存知のとおりです。
≪ナレーションB≫ そして、戸田会長の逝去から2年後に、山本伸一が第3代会長に就任。
昭和35年1960年5月3日。
山本伸一 32歳であります。
≪山本伸一≫
若輩(じゃくはい)では、ございますが、
本日より、戸田門下生を、代表して、
化儀(けぎ)の、広宣流布を、めざし、
一歩前進への、
指揮を、とらさせていただきます!
≪ナレーションA≫ こうして 5月3日が「創価学会の日」となり、広宣流布を誓う、誓願(せいがん)の日となったことは、皆様ご存知のとおりです。
本日は、「小説人間革命第5巻 烈日 れつじつ」の章、 そして「若き日の日記」などより、「5月3日創価学会の日」のお話を、 地区の オール スター キャスト でお送りいたしました。
以上で、寸劇人間革命のコーナーを終わります。

7)「5月3日創価学会の日」のお話


無題_4


8) 『伝統の二月』のお話

≪ナレーションA≫ 試練の冬を勝ち越えて、戸田先生が第2代会長に就任されたのは、昭和26年(1951)の5月3日であった。
その晴れの日、戸田先生は、生涯の願業として、75万世帯の本尊流布を大宣言なされのであります。
だが、折伏は難事中の難事である。
なかなか、思うようには成果があがらないのが、現実であったのであります。
≪山本伸一≫ このままでは、戸田先生の宣言は虚妄(こもう)になってしまう。
≪ナレーションA≫ 山本伸一は悩んだ。しかし、戸田の会社を軌道に乗せるために、全力を投入しなければならない日々が続いていた。
そうしたなかで、戸田から、蒲田の支部幹事として活動の指揮をとるよう、託されたのであります。

≪ナレーションB≫ 「二月闘争」の発火点。それは、第一線のリーダーが集った緊急組長会であった。
山本伸一は、寒風を突いて参加してくれた130人の同志と心一つに誓い合ったのであります。
≪山本伸一≫ 二月は日蓮大聖人の御生誕の月であり、また二月十一日は、戸田先生の誕生日であります。
今日、私たちが、この信心に巡り合えたのは、大聖人様が御出現になったからであることは言うまでもありませんが、戸田先生が広宣流布に一人立たれたおかげでもあります。そして、皆さんは、それぞれ功徳を受け、幸せになられた。
その報恩感謝の思いで、この二月を戦いきり、見事な勝利の結果をもって、戸田先生にお応えし、先生の誕生の月をお祝いしようではありませんか。
≪ナレーションB≫ 当時、どんなに頑張っても1支部で「月に100世帯」ほどの折伏が限界だと、皆が思い込んでいた。
しかし山本伸一は、、「組で2世帯」という折伏目標を掲げた。
そして、具体的に、「祈りから始めよう」
「近隣を大切にしよう」「体験を語ろう」、と呼びかけたのであります。
≪ナレーションB≫ 池田先生は次のように語っています。
≪山本伸一≫ ともあれ、「何としても、戸田先生に喜んでもらいたい」と私の心に、皆が共に燃え立ってくれた。
「誰か」ではない。「自分」がやるのだ!
「いつか」ではない。「今」やるのだ!
「不可能」ではない。「可能」にするのだ!
自然のうちに、一人ひとりの心が戸田先生の大願と合致して、「師弟」の命のギアが深く噛み合った。
師と共に広宣流布することを自ら願って出現したのが、地涌の菩薩だ。学会員は皆、偉大な菩薩である。
ひとたび使命を自覚するならば、必ず第一級の広布の闘士として、本領を発揮できないわけがない。
破れぬ壁など、断じてないのである。
当時の蒲田の支部幹部では、私が一番若かった。
人を集めて偉ぶって指導しても、誰が信用するか。
自分が足を運び、顔を合わせ、寒風の中を一緒に歩く以外にない。
1回の座談会、一軒の個人指導、一通の激励の手紙……すべてが私の主戦場と思って真剣に取り組んだ。
これまで周囲に信心の話などしたことがないという人も、まだ信心が浅くて何も語れないと尻込(しりご)みしていた人も、矢も盾(たて)もたまらぬ息吹の中で、勇気の一歩を踏み出してくれた。
≪ナレーションB≫ 蒲田の友は寒風に胸を張り、喜び勇んで、活動を開始した。そして、この月、蒲田支部は、二百一世帯という未曾有(みぞう)の折伏を成し遂げたのである。
“やればできる!”
誰もが大歓喜のなかにそう実感した。
蒲田支部の壮挙(そうきょ)は、触発の波動となって全国に広がり、これが七十五万世帯達成への突破口となった。
この蒲田での山本伸一の戦いが、折伏の飛躍を遂げる「伝統の二月」の淵源(えんげん)となっていったのであります。
≪ナレーションA≫ 「二月闘争」では、東京はもちろん、多摩川を隔てた神奈川にも、広宣の炎は燃え上がり、中部、山梨、千葉へ、そして雪の東北・秋田にも拡大しました事は、皆様ご存知のとおりであります。
本日は、新人間革命第3巻「平和の光」そして、随筆 我らの勝利の大道「新時代の二月闘争」より、『伝統の二月』のお話を、 地区のオールスターキャストでお送りいたしました。
以上で、寸劇人間革命のコーナーを終わります。

8)『伝統の二月』のお話


img407.jpg


9) 「8年目のお赤飯」のお話

≪ナレーションA≫ 本日は、「8年目の、お赤飯」というお話であります。
はて? さて? これは、いったい何のお話でありましょうか。お話は、昭和35年・1960年まで、さかのぼります。

≪ナレーションB≫ 昭和三十五年の五月三日。
前夜の雷雨は上がり、朝が明けると、雲一つない五月晴れであった。 
 山本伸一は、戸田先生の形見のモーニングを、身につけ、妻・峯子が、静かに第三代の「会長」の胸章(きょうしょう)を整えたのであります。

≪山本伸一≫ 
若輩(じゃくはい)ではございますが、
本日より戸田門下生を代表して、
化儀(けぎ)の広宣流布をめざし、
一歩前進への、
指揮を、とらさせていただきます!

≪ナレーションB≫ その日の夜、自宅に帰ると、峯子は食事のしたくをして待っていた。
しかし、祝いの膳(ぜん)など何もない、普段と変わらぬ質素な食卓であったのであります。

≪山本伸一≫ 今日は、会長就任のお祝いの、お赤飯かと思ったら、いつもと同じだね。
≪峯子≫ 今日から、わが家には主人はいなくなったと思っています。
今日は山本家のお葬式です。お赤飯は炊(た)いておりません。

≪山本伸一≫ 確かにそうだね・・・

≪峯子≫ お赤飯の用意はしておりませんが、あなたに何か、会長就任のお祝いの品を、贈りたいと思っております。
何がよろしいのかしら。
≪山本伸一≫ それなら、旅行カバンがいい。
一番大きな、丈夫(じょうぶ)なやつを頼むよ。
≪峯子≫ 旅行カバンですか。
でも、そんなに大きなカバンを持って、どこにお出かけになりますの?
≪山本伸一≫ 世界を回るんだよ。戸田先生に代わって。
≪峯子≫ いよいよ始まるんですね。世界広布の旅が。
≪ナレーションB≫ 峯子の瞳(ひとみ)が光り、微笑(びしょう)が浮かんだ。
山本伸一は、ニッコリと笑って、うなずいたのであります。
 
峯子は後年、ある婦人部の同志に、次のように語っています。

≪峯子≫ 今日から山本家には、主人はいなくなった、というのが偽(いつわ)らざる心境でした。
 会長就任、一周年の、五月三日には『ああ命があったのか』と思いました。それは二年目、三年目の五月三日も同じでした。
≪ナレーションB≫
 戸田先生は、会長就任から七年にして、偉大なるご生涯の幕を閉じられています。
 まして、山本伸一は、医師から「三十歳まで生きられない」と言われてきたのです。
昭和四十三年の五月三日。
 「会長就任八周年」の、その日に、峯子は初めて、お赤飯を用意してくれたのであります。
≪ナレーションA≫ 本日は、小説・新人間革命・第1巻・錦秋(きんしゅう)の章、などより、
「8年目のお赤飯」のお話を、 地区のオールスターキャストでお送りいたしました。
以上で、寸劇人間革命のコーナーを終わります。

9)「8年目のお赤飯」のお話


SBSH1675_2015032614343572c.jpg


10) 『7月3日』のお話

≪ナレーション≫ 時は昭和32年・1957年6月30日。
大阪府警の刑事2人が、突然、山本伸一の自宅を訪れます。
≪刑事≫ ご主人は、おられますか。大阪府警まで、ご同行ねがいたい。
≪峯子≫ 主人は、札幌に出張で、不在でございます。
≪刑事≫ さ、札幌ですか。う、うーん。
≪ナレーション≫ ただちに、学会本部に電話が入ります。
≪峯子≫ 先生、いま、大阪府警の刑事2人が、来たところです。かくかくしかじか・・・
≪戸田城聖≫ よしわかった。伸一には、こちらから連絡を入れておく。よいか、何も心配するでないぞ。
≪ナレーション≫ 刑事が、札幌の旅館にやってきました。
しかし山本伸一は、すでに夕張の地で、戦っていたのです。
≪関久男≫ 大阪府警に出頭せよというのですね。
しかし今は、ダメですよ。少し待って、ください。
≪刑事≫ それは困ります。出頭命令が、この通り出ているのです。逮捕状も、とろうと思えば、すぐに出るんですよ。
≪関久男≫ (厳しい声で)何を言うんです、君たちは!!
山本伸一は、逃げも隠れもしません。明日は札幌で、明後日は夕張で、それぞれ非常に大事な会合があるのです。それが終わるまで、待ちなさい。私が、山本伸一の身柄については、間違いなく保証します。
≪刑事≫ うーん、すると、7月の3日ならよいのですね。
間違いありませんね。
≪関久男≫ 間違いない。
≪ナレーション≫ そうです。本日の寸劇人間革命は、創価学会の原点である、7月3日の、お話であります。
時は昭和32年・1957年7月3日。その日の朝まで、山本伸一は北海道にいた。夕張炭労事件の解決のために、北の大地を走りまわっていたのであります。
≪戸田城聖≫ 伸一、征(い)ってきなさい!
現実の社会に根を張れば張るほど、難は競い起こってくる。
どんな難がきそいおころうが、われわれは戦う以外にないのだ。また、大きな苦難が待ちかまえているが、伸一、征ってきなさい!
≪山本伸一≫ はい、征ってまいります。
それより、先生、お体の具合は。
≪戸田城聖≫ うん。それより、心配なのは君の体だ。
絶対に死ぬな。死んではならんぞ。
伸一、もしも、もしも、おまえが死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな。
≪ナレーション≫ 電撃が、伸一の五体を貫いた。伸一は答える言葉を失った。伸一は、あふれ出そうになる涙を、じっと、こらえたのであります。
≪ナレーション≫ 大阪府警に出頭した伸一は、この7月3日の夕刻、身に覚えのない公職選挙法違反の容疑で、不当逮捕された。
7月3日といえば、12年前の、昭和20年、軍部政府の弾圧によって投獄されていた戸田城聖が、中野の豊玉刑務所を、出獄した日であります。
伸一への取調べは過酷であった。検事二人がかりで、夕食もなしに、深夜まで尋問が続くこともあった。
まるで、さらし者にするかのように、手錠をかけたまま、大阪地検の本館と別館との間を、行ったり、来たり、させたこともあったのであります。
≪戸田城聖≫ なんてことだ。ただちに手錠をはずさせろ。すぐに伸一を釈放させろ!
いいか、学会をつぶすことが狙(ねら)いなら、この戸田を逮捕しろと、検事につたえてくれ。かわいい弟子が捕まって、牢獄に入れられているのを、黙って見すごすことなどだんじてできぬ。戸田は逃げも隠れもせんぞ。
君たちを叱りつけてすまんな。しかし牢獄というものは、入った者でないとわからんのだ。いま伸一は、その中で、必死になって戦っているんだよ。
≪山本伸一≫ 体をこわし、衰弱しきった戸田先生が逮捕されれば、命を縮めることは間違いない。絶対に、絶対に、先生を逮捕などさせてなるものか!
戸田先生あっての私の人生である。いかなることがあっても、私は先生をお守りするのだ。では、検事の言うままに真実を捨てて、嘘をつくのか。学会の正義はどうなるのか。それでは、自らの手で愛する学会を汚すことに、なりはしないのか・・・
≪ナレーション≫ 深い苦悩が、夜通し伸一をさいなんだのであります。悩み抜いた果てに、伸一の心は決まった。
≪山本伸一≫ 私が罪を背負いさえすれば、一切は収まる。
たとえ無実の罪に 問われようと、戸田先生のためなら、学会のためなら、それでよいではないか。
≪ナレーション≫ そして、7月17日、伸一は大阪拘置所を出たのであります。
≪戸田城聖≫ おお、伸一 ・・よかった よかった。
≪山本伸一≫ 先生、大変にご心配をおかけしました。申し訳ございません。
≪戸田城聖≫ それより、体は大丈夫か
≪山本伸一≫ はい、大丈夫です。負けません。
先生の出獄の日に、私は、牢に入ったのですから。
≪戸田城聖≫ 伸一君、戦いはこれからだよ。
御本尊は、すべてわかっていらっしゃる。
勝負は、裁判だ。裁判長は、必ずわかるはずだ。
裁判長に真実をわかってもらえれば、それでいいじゃないか。
≪ナレーション≫ のちに山本伸一は、7月3日を、次のように綴(つづ)っています。
 そして、僕は、邪悪な権力の魔手に牢獄の捕われの身となった。しかし、師とともに戦いぬいた真実の声は、無実の罪の証(あかし)となって現れた。僕は、忘れない。あの日のことを。僕は、詠(よ)んだ。
出獄と 入獄の日に 師弟あり
七月の 三日忘れじ 富士仰ぐ
≪ナレーション≫ この7月3日が、あらゆる権力から人権を守り、人間の尊厳と自由と平等とを勝ち取ることの原点となったことは、皆様ご存知のとおりです。
本日は『小説・人間革命』第11巻「夕張」そして「大阪」の章などから『7月3日』のお話を、 地区のオールスターキャストでお送りいたしました。
以上で寸劇人間革命のコーナーを終わります。

10)『7月3日』のお話


SBSH1675_2015032614343572c.jpg


11) 「7月17日・かき氷」のお話

≪ナレーションA≫ 池田先生のお宅では、毎年7月17日に「かき氷」を食べるのが伝統になっておるそうです。「アイスクリームなら、毎日食べている」という方もいると思いますが、なぜ「かき氷」なのでありましょうか?
本日は「7月17日・かき氷のお話」であります。
≪ナレーションB≫ 時は昭和32年1957年7月3日。大阪府警に出頭する山本伸一に、戸田先生が語りかけます。 
≪戸田城聖≫ 心配なのは君の体だ、・・・絶対に死ぬな。死んではならんぞ。
伸一、もしも、もしも、おまえが死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな。
≪ナレーションB≫ 伸一は答える言葉を失った。伸一は、あふれ出そうになる涙を、じっと、こらえたのであります。
伸一への取調べは過酷(かこく)であった。
ついには、罪を認めなければ、戸田会長を逮捕するとまで迫ったのであります。
≪山本伸一≫ 私が罪を背負(せお)いさえすれば、一切は収(おさ)まる。たとえ無実の罪に問われようと、戸田先生のためなら、学会のためなら、それでよいではないか。
≪ナレーションB≫ そして、不当逮捕から2週間目の7月17日。伸一は大阪拘置所を出たのであります。
≪戸田城聖≫ おお、伸一、体は大丈夫か
≪山本伸一≫ はい、大丈夫です。負けません。
先生の出獄の日に、私は、牢に入ったのですから。
≪戸田城聖≫ 伸一君、戦いはこれからだよ。
御本尊は、すべてわかっていらっしゃる。
勝負は、裁判だ。裁判長は、必ずわかるはずだ。
裁判長に真実をわかってもらえれば、それでいいじゃないか。
≪ナレーションB≫ 戸田は、関西本部に集まった皆に、「かき氷」を取り寄せて振る舞ったのであります。
≪戸田城聖≫ 弁護士さん、伸一はどうなりますか。
≪弁護士≫ かなり証言もそろっているようですから、切り崩(くず)すのは、決して容易ではないでしょうな。
≪戸田城聖≫ 有罪だとしたら、どのくらい入ることになりますか。
≪弁護士≫ さあ、ちょっと、あの、その、それは、まあ、最低六ヶ月は、覚悟したほうがよいでしょう。
≪戸田城聖≫ ほう、泣く子と検察(けんさつ)には勝てぬというわけですな。裁判は執念と忍耐を必要としますから、辛抱(しんぼう)強く戦ってください。
≪ナレーションB≫ 戸田は一瞬、むっとした表情になったが、すぐに笑いを浮かべて、思いもかけぬことを言い出した。
≪戸田城聖≫ 今だからいうが、じつは今日、伸一が釈放にならなかったら、この大阪で全国大会を開こうと思っていたのです。そしたら支部長たちが、是非とも大々的な集会にしてほしいといってきた。
そうなれば、何十万人も、この大阪に集まってきたでしょう。
ムシロ旗を立てて抗議集会をし、それから検察庁にデモ行進して、どっと押しかけようというわけですよ。
≪弁護士≫ うーん、それはたいへんな騒動になる。
≪戸田城聖≫ そうなると、警察も出てきて、ピストルぐらい発砲するかもしれない。
そのときは、私が先頭に立って乗り込めばよい。もともと悪いのは向こうなんだし、私は決して恐れませんよ。
もしも、そんな大騒動が起こったとしたら、私はいったい、どのくらい入ればいいのかね。
≪弁護士≫ うーん。双方ともに負傷者もでる。すると、戸田会長は、十年か十五年は、入ることになるのではないでしょうか。
≪戸田城聖≫ はぁはぁはぁ、そりゃ、かなわん。しかし、事と次第によっては決行しようかと考えていたのです。まあ、投獄された時は、差し入れだけは、してくれるように、皆に頼んでおきましたがね。はぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ。
≪ナレーションB≫ 山本伸一は、自分のために、命を捨てて戦おうとした戸田城聖の決心を知り、深い感動を覚えた。 
冷たい「かき氷」を口にしたとき、伸一には、その真心が痛いほどしみたのであります。
≪ナレーションB≫ こうして戦いの舞台は、裁判となりました。第2回目の公判は、翌年の3月6日。
そうです。あの3月16日の直前であります。
≪戸田城聖≫ おお、そうだったな。
≪山本伸一≫ 大切な戦いのさなかに不在になってしまい、まことに申し訳ありません。
≪戸田城聖≫ 伸一、疲れているな。体の方は大丈夫か。
≪山本伸一≫ 先生、私は大丈夫です。先生こそ、ご無理をなさっているだけに・・・
≪戸田城聖≫ 君の戦いは、ながいのだ。代われるものなら、私が代わってやりたい。
伸一・・・、君は罪を一身に背負おうとした。ほんとうに人の良い男だな。でも、だからこそ安心だな、学会も。
裁判は容易ならざる戦いになるだろう。いつまでも君を悩ませることになるかもしれぬ。
しかし、最後は勝つ。
金(きん)は金だ。いくら泥にまみれさせようとも、その輝きは失せるものか。
真実はかならず明らかになる。悠々と、堂々と、男らしく戦うんだ。
≪ナレーションA≫ この大阪事件の裁判が、4年後に無実を勝ち取った、その、いきさつにつきましては、またの寸劇人間革命に、こう、ご期待であります。
 本日は『小説・人間革命』第11巻「大阪」の章などより、「7月17日・かき氷のお話」を、 地区の、オールスターキャストでおおくりいたしました。
以上で寸劇人間革命のコーナーを終わります。

11)「7月17日・かき氷」のお話


201102 002


12) 「原水爆禁止宣言」のお話

≪ナレーション≫ 本日は、創価学会の平和運動の原点である、「原水爆禁止宣言」のお話です。
時は昭和32年、1957年9月8日、定刻午前9時。横浜は、三ツ沢陸上競技場であります。
観客席を埋めた、五万の人々の見守る中、青年部東日本体育大会「若人の祭典(わこうどのさいてん)」がいよいよ開会であります。
≪司会者≫ ただ今より、青年部東日本体育大会「若人の祭典」を開会いたします。選手宣誓。
≪選手宣誓≫ 宣誓、我々青年部・選手一同は、崇高(すうこう)なる学会精神と、旺盛なる団結力を発揮して、正々堂々と戦うことを誓います。
≪司会者≫ いよいよ競技の始まりであります。
とつぜんですが、ここで、クイズ大会を行います。
当時の体育大会の競技の名前には珍しいものが、あります。
たとえば「大法戦」。
この「大法戦」とは、騎馬戦ことなんですね。
まずは、やさしい問題です。「三障四魔競争」。
これは何でしょう? 答えは   です。
続いて、男子部の「学会魂」。
これはちょっとむずかしい。
何でしょう? 答えは   です。
最後に、女子部の「部員増加」。
これがわかれば、たいしたもんです。
何でしょう?答えは   です。
それでは本題に戻りましょう。
≪ナレーション≫ すべての熱戦が終わった後、閉会式が行われ、いよいよ戸田先生の挨拶であります。

≪戸田城聖≫ 天竜(てんりゅう)も諸君らの熱誠に応えてか、昨日までの嵐はあとかたもなく、天気晴朗(せいろう)のこの日を迎え、学会魂を思う存分に発揮せられた諸君ら、又それにこたえるこの大観衆の心を、心から喜ばしく思うものであります。
さて、今日の喜ばしさにひきかえて、今後も、当然、難があるであろう。
あるいは、わが身に攻撃を受けることも覚悟のうえであるが、諸君らに今後、遺訓(いくん)すべき第一のものを、本日は発表いたします。

≪司会者≫ 思ってもいなかった、言葉に、私たちは驚きました。「遺訓すべき第一のもの」との言葉に、何かを、感じたのです。
歓喜につつまれた「若人の祭典」の最後に、戸田が語ろうとする遺言とは何かを思い、私たちは固唾(かたず)をのんで、次の言葉を待ったのです。
会場の空気は一変していたのであります。

≪戸田城聖≫ 前々から申しているように、次の時代は青年によって担(にな)われるものである。広宣流布は、われわれの使命であることは申すまでもない。これは私たちが絶対にやらなければならぬことであるが、今、世に騒がれている核実験、原水爆実験にたいする私の態度を、本日、はっきりと声明したいと思うものであります。

いやしくも、私の弟子であるならば、私の今日の声明を継(つ)いで、全世界にこの意味を浸透(しんとう)させてもらいたいと思うのであります。
それは、核あるいは原子爆弾の、実験禁止運動が、いま世界に起っているが、私はその奥に隠されているところの爪(つめ)をもぎ取りたいと思う。

それは、もし原水爆を、いずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。

なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利を持っております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり怪物であります。
それを、この人間社会、たとえ一国が原子爆弾を使って勝ったとしても、勝者でも、それを使用したものは、ことごとく死刑にされねばならんということを、私は主張するものであります。
たとえ、ある国が原子爆弾を用いて世界を征服しようとも、その民族、それを使用したものは悪魔であり、魔ものであるという思想を全世界に広めることこそ、全日本青年男女の使命であると信ずるものであります。
願わくは、今日の体育大会における意気をもって、この私の第一回の声明(せいめい)を全世界に広めてもらいたいことを切望して、今日の訓示にかえる次第であります。

≪ナレーション≫ 山本伸一は、戸田城聖の原水爆禁止宣言を、打ち震(ふる)える思いで聞いていた。彼は、この師の遺訓を、かならず果(は)たさなければならないと、自らに言い聞かせた。そして、戸田の思想を、いかにして全世界浸透(しんとう)させていくかを、彼はこのときから、真剣に模索(もさく)しはじめたのである。伸一の胸には数々の構想が広がっていった。
しかし、彼は逸(はや)る心を抑えた。それが、今日の創価学会の広範な平和運動として結実していくには、まだ、ながい歳月を待たねばならなかったのであります。

この日、昭和32年西暦1952年9月8日は、山本伸一が不当逮捕された入獄の日・7月3日から2ヵ月後、そして戸田先生逝去のおよそ7ヶ月前のお話であります。

本日は、小説人間革命第12巻『宣言』の章から、創価学会の平和運動の原点である、「原水爆禁止宣言」のお話を、 地区青年部のオールスターキャストで、お送りいたしました。
以上で寸劇のコーナーを、終わります。

12)「原水爆禁止宣言」のお話


SBSH1675_2015032614343572c.jpg



13) 学会歌「田原坂」のお話

≪ナレーションA≫ 時は、昭和33年・1958年の2月11日は夕刻。
戸田城聖の、病気回復の快気祝いと、誕生日祝いを兼ねた、祝宴(しゅくえん)が、行われたのであります。
戸田は、前年の11月に病に倒れ、以来、闘病生活を送っていたのでありました。
戸田は、和服姿のくつろいだ装(よそお)いで部屋に入ってくるなり、「よお~!」と、一同に呼びかけたのであります。
≪戸田城聖≫ 私は会長就任以来7年になるが、人生を振り返ってみると、7年ごとに難にあっていることになる。
昭和18年の弾圧による投獄、昭和25年の事業の問題、そして今回の病気です。しかし今度の病気も打ち破ることができた。かくなるうえは、もう7年、また会長として頑張るつもりだからひとつよろしく頼みます。
≪ナレーションA≫ そして、乾杯、祝宴がはじまった。婦人部は、皆で、「田原坂 たばるざか」を歌ったのであります。
≪ナレーションB≫ 戸田は、一生懸命に歌っているその姿に目を細め、歌に合わせ、拳(こぶし)で軽くテーブルを、トントンと叩(たた)き、さも愉快そうに聴き入っていたのであります。
雨はふるふる 人馬(じんば)はぬれる
越(こ)すにこされぬ 田原坂(たばるざか)
右手(めて)に血刀(ちがたな)
左手(ゆんで)に手綱(たずな)
馬上(ばじょう)ゆたかな 美少年(びしょうねん)
天下(てんか)取るまで 大事な身体(からだ)
蚤(のみ)にくわせて なるものか
蚤(のみ)にくわせて なるものか
≪戸田城聖≫ これは、西南(せいなん)の役(えき)の時に伝令(でんれい)となった薩摩軍の一青年・三宅伝八郎(みやけでんはちろう)を歌ったものだと言われている。
西郷隆盛 率いる薩摩軍(さつまぐん)は官軍と熊本の田原坂で激戦となったが、近代的な装備を整(ととの)え、武器弾薬の豊富な官軍の前に、敗北を余儀(よぎ)なくされる。そして、多くの青年や少年が、命を失ってしまう。
いよいよ敗北が決定的になった時、薩摩の本陣に、伝令を、送ることになった。それを命ぜられたのが、若干(じゃっかん)20歳の三宅伝八朗だった。
同志は次つぎと討ち死にしていった。激戦に伝八郎も疲れ果てていた。
しかし、彼は最後の力を振り絞(しぼ)り、敵の囲いを抜けようとする。死んでいった同志のためにも伝令の使命を果たし、かならず生き抜いて天下を取ろうと心に誓いながら。
その後、伝八郎がどうなったか知らないが、君たち青年部は、生きて生き抜いて、天下を取り、民衆の楽土を作るのだよ。つまらぬ失敗で、身を滅ぼすようなことがあってはならんのだよ。
≪ナレーションB≫ 戸田はそれから、合唱した婦人部たちを見て、言ったのであります。
≪戸田城聖≫ この歌には、また母の心が託(たく)されているように、私には思えるのだ。
男は戦場に行き、まだ、とても手放せないような、小さな子供まで、送り出さなければ、ならなかった。
その中には、戦いに出て行ったまま、帰ってこない子もいただろう。あるいは傷ついて、帰って来た子供も、いたはずだ。
その傷ついて帰った、我が子を匿(かくま)って、傷を癒(いや)してやる。そして、立派に大きく育てて、天下を取るために、ふたたび世に、送り出そうとする。その母の心境が、この歌だと考えてみてはどうかね。
婦人部のみんなも、子供を立派に育てて、広宣流布の庭に、送り出すんだよ。
きっと、送り出すんだよ。約束だよ。
≪ナレーションB≫ 戸田の言葉には力がこもっていた。そうです。学会歌「田原坂」は「母の心」を歌ったものだったのであります。
そして、これが、婦人部に対する、最後の指導と、なりました。
3月16日の儀式の33日前、そして逝去の4月2日の、50日前の、お話であります。
≪ナレーションA≫ 時は流れて、昭和56年1981年12月15日。池田先生を迎えて、熊本文化会館の近くの公園に、1500人ものメンバーが集まりました。「さあ、『田原坂』を、歌おう」池田先生の提案に、大歓声があがったのであります。
あの日、その時、それは雪の秋田指導の3週間前。
それは、嫉妬(しっと)や讒言(ざんげん)による迫害を吹き飛ばす、反転攻勢 開始の歌声だったのであります。
本日は、『小説人間革命第12巻「後継(こうけい)」の章』などから、学会歌「田原坂」のお話を、旭日地区の オール スター キャストで、お送りいたしました。
以上で寸劇人間革命のコーナーを、終わります。

13)学会歌「田原坂」のお話


SBSH1675_2015032614343572c.jpg


14) 「昭和33年3月」のお話

≪ナレーション A≫ 白雪の富士を背に、本門大講堂は杉木立のなかに威容(いよう)を見せていた。
いかなる来賓を招いても恥じない、近代的な荘厳(そうごん)な建物であります。
≪戸田城聖≫ この自界叛逆(じかいほんぎゃく)が日本の国を覆(おお)っている。
このままでいけば、どうなるのか――。
それを救うのが妙法の力です。この大講堂で、教えを受け、それをもって、日本の国を救っていく以外にないのです。
そこに学会の使命があるのであります。
≪ナレーション B≫ 時は、昭和33年1958年3月1日。
大講堂の落慶法要が行われたのであります。
≪山本伸一≫ 先生、まいりましょう。まもなく祝宴の時間です。6階の貴賓室で、来賓の皆様が、お待ちです。
≪ナレーション B≫ エレベーターが上昇しはじめると、戸田は、伸一の顔をのぞきこむように見すえた。
そして、静かだが、力をこめて言ったのであります。
≪戸田城聖≫ さあ、これで、私の仕事は終わった。私はいつ死んでもいいと思っている。
伸一、あとはお前だ。頼むぞ!
≪ナレーション B≫ 伸一の体に電撃(でんげき)が走った。
二人の目と目が光った。
師と弟子は、無限の生命の言葉を交わすかのように、沈黙したまま、じっと、互いの顔を見つめ合った。
それは厳粛な瞬間であったのであります。
≪ナレーション A≫ 数日後、時の首相から、16日に総本山に参詣したいとの、連絡が入ったのであります。
≪戸田城聖≫ この日に、青年部を登山させよう。そして将来のために広宣流布の模擬試験、予行演習となる式典を、しようじゃないか。
広宣流布がなされば、一国の宰相(さいしょう)はもとより、各国、各界の指導者がこの仏法を信奉(しんぽう)して、世界の平和と繁栄を祈念する日がやってくる。いや、その時代を、青年の手で、必ずつくっていくのだ。
伸一、僕はこの3月16日の式典を、広布の後継と責任を、君たちに託(たく)す儀式にしようと思っているのだよ。
この式典の全責任は君がもつのだ。思い通りに、力いっぱいやりたまえ。
≪山本伸一≫ はい、見事な後継の、誓いの集いに、いたします。
≪ナレーション A≫ こうして、山本伸一を中心に、式典の準備は、直ちに進められていったのであります。
≪ナレーション B≫ 3月16日、正午。
戸田城聖は、伸一に手を取られて、あの車駕(しゃが)の前に、立っていたのであります。
≪戸田城聖≫ 大きすぎて、実践には向かぬ!
戦いにならんぞ!
≪山本伸一≫ 先生、よくわかりました。申し訳ございません。しかし、この車駕は弟子が真心で作ったものです。どうかお乗りください。
≪ナレーション B≫ 戸田は、伸一を見てにっこり、うなずくと、弟子たちに体を預け、車駕の中央に固定された、ひじかけ椅子に座った。
車駕は静かに、ゆっくりと参道を進みはじめました。
車駕には伸一がぴったりと、付き添ったのであります。
≪戸田城聖≫ 妙法のもとには、皆、平等です。そして、個人も、国家も、幸せと繁栄を得るには、正法を根幹とする以外にない。ゆえにわれわれには広宣流布を断じてなさねばならぬ使命がある。
それを今日、私は君たち青年に託しておきたい。
未来は君たちに任せる。頼むぞ、広宣流布を!!
創価学会は、宗教界の王者であります。何も恐れるものなどない。諸君は、その後継者であるとの自覚を忘れることなく、広布の誉れの法戦に、花の若武者として勇敢に戦い進んでもらいたい。
≪ナレーション B≫ それは、生涯にわたる正法の戦いを勝利した広布の大将軍の凱旋(がいせん)の姿であったのであります。
≪ナレーション A≫ このお話は、戸田先生の逝去の、4月2日の、直前の出来事であり、そしてこの3月16日が、のちに、「広宣流布記念の日」となり、広宣流布を永遠不滅ならしめる、弟子たちの新たな誓いの日となった事は、皆様ご存知のとおりです。
本日は、小説「人間革命・第12巻」「後継」の章、から「昭和33年3月のお話」を、 地区のオールスターキャストでお送りいたしました。
以上で寸劇人間革命のコーナーを、終わります。

14)「昭和33年3月」のお話



syaga_03.jpg


15) 「3月16日・広宣流布記念の日」のお話

≪ナレーションA≫ 時は昭和33年、1958年の3月、一日7000人、一ヶ月で20万人の大講堂(だいこうどう)落慶(らっけい)総登山の、まっ最中であります。
そこに、時の首相、峰直介(みね なおすけ)から、3月16日の日曜日に総本山大石寺に参詣(さんけい)したいとの、連絡が入ったのであります。そうです。今日は、「広宣流布記念の日」3月16日の、お話であります。
≪戸田城聖≫ よい機会だ。この日に、青年部を登山させようじゃないか。そして将来のために広宣流布の模擬試験(もぎしけん)、予行演習(よこうえんしゅう)となる式典(しきてん)を、しようじゃないか。
伸一、僕はこの3月16日の式典を、広布の後継(こうけい)と責任を、君たちに託(たく)す儀式にしようと思っているのだよ。この式典の全責任は君がもつのだ。思い通りに、力いっぱいやりたまえ。
≪山本伸一≫ はい、みごとな後継の、誓(ちか)いの集(つど)いに、いたします。
≪ナレーションA≫ こうして、山本伸一を中心に、式典の準備は、直ちに進められていきました。
『3月16日に、急遽、青年部の登山がある。』この連絡は、またたくまに、組織の隅々(すみずみ)までいきわたったのであります。
≪ナレーションB≫ 一方、弟子の山本伸一は、師匠のために、ひとり、心を痛めていたのであります。それは戸田の体の衰弱(すいじゃく)でありました。
山本伸一は、戸田が乗るための、車駕(しゃが)の作成を澤田良一に依頼したのであります。
≪澤田良一≫ 参謀(さんぼう)室長、車駕ができました。今、理境坊(りきょう ぼう)の中庭に運びました。
≪山本伸一≫ ありがとう。立派にできたね。これなら、戸田先生のお体に、負担をかけなくてすむ。
先生。明日の式典で、先生にお乗りいただこうと、車駕を作りました。御覧(ごらん)いただければと思います。
≪戸田城聖≫ おう。ん。大きすぎる!これでは戦闘(せんとう)の役にはたたぬ!
≪側近幹部≫ いや、いや。ほんとうに大きいですね。これじゃあ、まるで角館の祭りの山車(だし)ですね。
≪澤田良一≫ しまったー、どうしようー、あの形も大きさも、すべて私が考えたものだ。責任は私にあるのに。
≪山本伸一≫ 大丈夫だよ、澤田君。 戸田先生は、かならず乗ってくださる。戸田先生は、こうした一つひとつの事柄(ことがら)を通して、私たちを真剣に訓練して下さっているんだよ。
ありがたいことじゃないか。なにも、心配はいらないよ。
≪ナレーションB≫ 16日、午前9時半、男女青年部の代表6000名が集い、すべての準備は整った。あとは首相一行の到着を待つばかりであります。しかし、突然、峰首相が参列(さんれつ)できないとの連絡が、入ったのであります。
≪戸田城聖≫ 首相は参列しなくとも、この式典を広宣流布を記念する模擬的(もぎてき)な儀式とすることには、いささかも変わりはない。
私は、今日参加した青年を、この戸田の後継者と思い、広宣流布のいっさいを託(たく)す式典にするつもりでいる。首相がこないのだから、私が全力で、皆を激励したい。
≪ナレーションB≫ 正午になった。戸田城聖は、山本伸一に手を取られて、理境坊(りきょうぼう)の玄関に降り立った。そこには、周囲を白い布で巻いた、車駕が、置かれてあった。
≪戸田城聖≫ 大きすぎて、実戦には向かぬ。
戦いにならんぞ!!
≪山本伸一≫ 先生、よくわかりました。申し訳ございません。しかし、この車駕は弟子が真心で作ったものです。どうかお乗りください。
≪ナレーションB≫ 師の厳愛(げんあい)、そして師の体を気遣(きづか)い、いたわろうとする、弟子の真心。
それは、師と弟子の、熱い生命の交流のドラマでありました。
戸田は、伸一を見てにっこり、うなずくと、弟子たちに体を預(あず)け、車駕の中央に固定された、ひじかけ椅子(いす)に座った。車駕は静かに、ゆっくりと参道(さんどう)を進みはじめました。車駕には山本伸一がぴったりと、付き添ったのであります。
≪ナレーションA≫ 12時40分。式典は開会となった。司会は、山本伸一であります。
≪戸田城聖≫ 個人も、国家も、幸せと繁栄を得るには正法を根幹とする以外にない。ゆえにわれわれには広宣流布を断じてなさねばならぬ使命がある。
それを今日、私は君たち青年に託しておきたい。未来は君たちに任せる。頼むぞ広宣流布を!!
創価学会は、宗教界の王者であります。何も恐れるものなどない。諸君は、その後継者であるとの自覚を忘れることなく、広布の誉(ほま)れの法戦に、花の若武者(わかむしゃ)として勇敢(ゆうかん)に戦い進んでもらいたい。
≪ナレーションA≫ この「創価学会は、宗教界の王者であります」との宣言は、戸田先生の大勝利宣言であったのであります。戸田は青年たちを見つめながら心のなかで叫びました。
≪戸田城聖≫ 牧口先生,広宣流布の万代の基盤を作り上げ,あとは,我が愛弟子(まなでし)に託しました。
妙法広布の松明(たいまつ)が,東洋へ,世界へと、燃え広がる日も、もはや、遠くは、ございません。
≪ナレーションA≫ このお話は、戸田先生の逝去の、4月2日の、直前の出来事であり、そしてこの3月16日が、のちに、「広宣流布記念の日」となり、広宣流布を永遠不滅ならしめる、弟子たちの新たな誓いの日となった事は、皆様ご存知のとおりです。
本日は、小説「人間革命・第12巻」「後継(こうけい)」の章、から「3月16日・広宣流布記念の日のお話」を、 地区の オール スター キャストで、お送りいたしました。
以上で寸劇人間革命のコーナーを、終わります。

15)「3月16日・広宣流布記念の日」のお話


syaga_06.jpg


16) 「戸田先生、最後の指導」のお話

≪ナレーションA≫ 時は、昭和33年1958年3月は下旬のお話。そうです。「広宣流布記念の日」3月16日の前後のお話であります。
≪ナレーションB≫ この慶祝(けいしゅく)登山の最中に、酔っ払っては、青年部に絡(から)んだ所化頭(しょけがしら)がいたのであります。
「お前たち学会は、アルバイトで大石寺にきているのだろう」
またある時は、酔っ払ったまま、会合に押しかけた。
「俺に講義させろ!俺が代わって指導してやる!」
お小僧(こぞう)さんに届けられた、お菓子も、気にくわない。
「信者から物をもらって喜ぶやつが、どこにいる。感謝なんかしなくてよい!」
学会の青年部は、僧俗和合(そうぞくわごう)のために、ひたすらじっと耐えていたのであります。
≪ナレーションA≫ ある朝、あの所化頭が、大きな鈴(りん)をお小僧さんの頭からかぶせて、鈴棒(りんぼう)で思いっきり叩(たた)くという、信じられない虐待をしていたのです。
≪山本伸一≫ また、そんなことがあったのか。
≪青年部≫ 参謀室長、それだけじゃありません。
16日に戸田先生を車駕(しゃが)にお乗せしたことについても、あの所化頭は「総本山では乗りものは禁止されているのに、いい気になって、なんだ。」と罵(ののし)っています。もう、ガマンできません。黙っているわけにはいきません。
≪ナレーションA≫ 伸一は宗門の理事に事情を話して、所化頭の謝罪・反省を求めたのであります。
≪山本伸一≫ いいですか。このたびの大講堂の落成は、日蓮正宗の七百年の歴史に輝く、晴れの壮挙(そうきょ)なのです。
そのさなかに、僧侶が毎日、朝から酒を飲んでいるようなことがあってよいのですか。
お小僧さんに対する、暴力、暴言は、私どもとしても見過ごすわけにはいきません。是非おやめください。
また、あなたは日頃から戸田先生や学会の青年部員に反感をいだき悪口を言っていると聞きましたが、そういうことも、おやめいただきたいのです。もし、ご意見や批判があるのならばお伺(うかが)いしますので、私に言ってください……
≪ナレーションA≫ 伸一は忍耐強く、噛(か)んで含めるように所化頭の非をただした。真心をつくしての説得であった。やがて「すいません……」という声が、かすかに聞こえたのであります。
≪ナレーションB≫ 三月二十九日の朝、山本伸一は、登山会の進行状況を戸田城聖に報告したのであります。
≪山本伸一≫ すべて順調に進んでおります。
ただ、あまりに非道な僧侶がおりまして、私どもで抗議をいたしました。
≪ナレーションB≫ 戸田は、伸一の報告を聞き終わると、さも残念そうな表情で語りはじめた。
≪戸田城聖≫ 情けないことだな…。これは、小さい事のようだが、…宗門の腐敗、堕落という、じつに大きな問題をはらんでいるのだ。
残念なことだが…広宣流布を口にしながらも、多くの僧侶が考えていることは、保身であり、私利私欲をいかに満たすかだ。
戦時中も、宗門は、保身のために法を曲げ、大聖人の御遺命(ごゆいめい)を破り、軍部政府に迎合(げいごう)した。
…そして、牧口先生と私が逮捕されるや、かかわりを恐れて、学会を登山停止したのだ。…そのなかで、厳然(げんぜん)と、大聖人の仏法の命脈(めいみゃく)を保ったのが、牧口先生であり、創価学会なのだ。
…だから、大聖人の御精神は、ほんとうの、信仰は、創価学会にしかない。もし、学会から離れるならば…大聖人の正義(しょうぎ)を踏みにじった、謗法(ほうぼう)の寺でしかなくなってしまう。
…学会は、宗門が、壊滅(かいめつ)の危機に瀕(ひん)しているのを、信心の赤誠(せきせい)をもって、お助けしてきた。…しかし私が、信心のあり方を厳しく言うものだから、眼のうえのタンコブのように思っている者もいる。
でも、…私が生きているうちは、正面きって、とやかくいう者はおるまい。だが、私がいなくなれば…あとは、何をするか、わかったものではないぞ。
≪ナレーションB≫ 戸田の言葉は、息苦しさのためか、しばしば途絶えたが、ただならぬ気迫にあふれていたのであります。
≪戸田城聖≫ 衣(ころも)の権威(けんい)で、学会を奴隷(どれい)のように意のままに操(あやつ)り、支配しようとする法主も、出てくるかもしれぬ。
戦時中と同じように、宗門は、天魔(てんま)の住処(すみか)にならないとも、限らないのだ。
しかし…日蓮大聖人の正法を滅ぼすようなことがあっては、断じてならない。
そのために、宗門に巣くう邪悪とは、断固、戦え。
いいか、伸一。一歩も退(しりぞ)いてはならんぞ。
追撃(ついげき)の手をゆるめるな!
≪ナレーションB≫ それは、炎のような言葉であった。
瞬間、戸田の眼が燃え輝いた。
そして、これが、彼の最後の指導であり、愛弟子(まなでし)への遺言となったのであります。
≪ナレーションA≫ このお話が、戸田先生の逝去(せいきょ)の4月2日の直前の出来事でありましたことは、皆様ご存知のとおりであります。
本日は、小説人間革命第12巻「寂光」の章などより、「戸田先生、最後の指導」のお話を、 地区の、オールスターキャストでお送りいたしました。
以上で寸劇人間革命のコーナーを終わります。

16)「戸田先生、最後の指導」のお話


IMG_560503_2.jpg


17) 「七つの鐘・そして五月三日」のお話

≪ナレーションA≫ 昭和33年1958年2月10日。伸一は関西の状況を、戸田に報告したのであります。
≪戸田城聖≫ よし。関西は完璧に仕上がったな。これで日本の広布の基盤は調ったといってよいだろう。さて、問題はこれからだよ。あと7年でどこまでやるかだ。
急がねばならんのだよ。伸一、あと7年で、300万世帯までやれるか?
≪ナレーションA≫ 彼は熟慮(じゅくりょ)の末に、壮大な広布の展望を練(ね)り上げたのです。だが、それを成すのは戸田自身ではないことも、彼は悟らざるをえなかった。自らの寿命の、ながからぬことを、戸田は覚知(かくち)していたのです。
≪山本伸一≫ はい、成就(じょうじゅ)いたします。ますます勇気がわきます。私は先生の弟子です。先生の御構想はかならず実現してまいります。御安心ください。
≪戸田城聖≫ そうか。うん。うん。
伸一の手で、どこまでできるかな。一千万人が信心する時代がきたら、すごいことになるぞ。
楽しみだな、ほんとうに楽しみだ…
≪ナレーションA≫ 伸一は、その言葉を遺言(ゆいごん)として心に焼きつけた。
師から生涯の大指針を示されたのだと思うと、胸が高鳴るのを覚えたのであります。
≪ナレーションB≫ 4月2日。戸田先生が逝去。
山本伸一は、その日の日記に、次のように、記(しる)したのであります。
≪山本伸一≫ 嗚呼(ああ)、四月二日。
この日は、学会にとって、私の生涯にとって、弟子一同にとって、永遠の歴史の日になった。
……妙法の大英雄、広布の偉人たる先生の人生は、これで幕となる。しかし、先生の残せる、分身の生命は、第二部の、広宣流布の決戦の幕を、いよいよ開くのだ。
われは立つ。
≪ナレーションB≫ 伸一は、創価学会の新たな出発のために何が必要かを、考え続けていた。
伸一は、戸田が生前、「学会は七年ごとに大きな歩みを刻(きざ)んでいくのだ。」と、しばしば語っていた事を知っていた。また「七年を一つの区切りとして広布の鐘(かね)を打ち、『七つの鐘』を鳴らそう!」と語っていた事が思い出された。
≪山本伸一≫ 牧口常三郎と戸田城聖の手によって、創価教育学会が創立されたのは、昭和5年11月18日である。そして、7年後にあたる昭和12年には、創価教育学会の発足(ほっそく)式が行われている。
そして、7年後の昭和19年11月18日には、牧口が獄死。それから7年後の26年5月3日には、戸田が第二代会長に就任している。
以来、7年を経て、戸田は願業(がんぎょう)をことごとく成就し、逝去した。不思議な時の一致といってよい。
昭和5年に、第一の広布の鐘が打ち鳴らされたとすれば、すでに、第4の鐘が鳴り終わったことになる。すると、今年の5月3日の春季総会は、第5の鐘を高らかに打ち鳴らす日としなければならない。
この第5の鐘にあたる7年のうちに、先生が示してくださった300万世帯を、断固、達成するのだ。第6の鐘となる次の目標は、600万世帯の達成になろう。
そして、次の7年が、第7の鐘。
つまり、今から21年後の昭和54年には、「七つの鐘」が鳴り終る事になる。
それまでに、日本の広宣流布の、確かな形を作り上げることだ。それは同時に、本格的な世界広布の幕開けとなるだろう。そのとき私は、51歳……。
もし、健康でさえあれば、新しき 世紀への大舞台が待っている。
≪ナレーションB≫ 伸一の、広布の展望は、限りなく広がっていった。
伸一は、この日、高鳴る胸の鼓動(こどう)を感じながら、日記に、こう記したのであります。
≪山本伸一≫ ……意義深き五月三日、目前に迫(せま)る。実質的―学会の指揮を執(と)る日となるか。
胸(むね)苦し、荷(に)重し。『第五の鐘』乱打(らんだ)。戦おう、師の偉大さを、世界に証明するために。
一直線に進むぞ。断じて戦うぞ。障魔の怒濤(どとう)を乗り越えて。本門の青春に入る。
≪ナレーションB≫ 昭和33年5月3日。
第18回春季総会であります。
≪山本伸一≫ …… そして、昭和26年、戸田先生は、第二代会長に就任され、以来7年、いっさいの広宣流布の原理を示され、広布の基盤を、つくってくださいました。
いよいよ、本日から、第5の鐘となる新たな7年の幕が開くのであります。
そして次の7年が第6の鐘。その次の7年が第7の鐘となり、その終了は21年後の、昭和54年となります。
この『七つの鐘』が鳴り終わる時までに、広宣流布の具体的な形態(けいたい)をつくりあげることを目標に、前進してまいりたい、と思うのでございます。
本日を力強い前進の第一歩として、希望と勇気と確信を、たぎらせて、広宣流布に邁進(まいしん)していこうではありませんか!
≪ナレーションB≫ 人びとは、新しき広布の道が豁然(かつぜん)と開かれ、未来の金の峰、銀の峰を仰(あお)ぐ思いで、伸一の話を聞いたのであります。
≪ナレーションA≫ そして、2年後。山本伸一が第3代会長に就任。昭和35年・1960年5月3日。
山本伸一 32歳であります。
≪山本伸一≫
若輩(じゃくはい)ではございますが、
本日より戸田門下生を代表して、
化儀(けぎ)の広宣流布をめざし、
一歩前進への、
指揮を、とらさせていただきます!
≪ナレーションA≫ こうして 5月3日が「創価学会の日」となり、広宣流布を誓う、誓願(せいがん)の日となったことは、皆様ご存知のとおりです。
本日は、小説人間革命第12巻 後継の章。そして、新・黎明の章、より、「七つの鐘・そして五月三日」のお話を、 地区の オール スター キャスト でお送りいたしました。
以上で寸劇人間革命のコーナーを終わります。

17)「七つの鐘・そして五月三日」のお話


IMG_3558_3.jpg


18) 「雪の秋田指導」のお話

≪ナレーション≫ それでは寸劇人間革命のコーナーです。
本日は、「雪の秋田指導」の、お話であります。
≪ナレーション≫ 時は昭和57年1982年1月10日、いちめんの銀世界であります。
≪支部長≫ もしもし、支部長です。池田先生は、今日、秋田空港に到着されます。国道を通られると、思いますが、絶対に、ぞろぞろ道路に、出たりしないように、連絡の徹底を、お願いします。ど~も~
≪地区部長≫ はい支部長、分かりました。(向き直って)もしもし、地区部長です。時間は、分かりませんが、池田先生がもうすぐ通られます。んだ、んだ。ではる、ではる。んだ、んだ。みな、して。んだ、んだ。
≪ナレーション≫ こうして、道路わきには、学会員が、たくさん集まったのです。皆が、きょろきょろしていると、車が近づいてきた。小さなブレーキ音。ドアが開き、降り立つ人がいる。「先生!!」皆が、歓声をあげた。
≪池田先生≫ さあ、私が来たからもう大丈夫だよ。
さあ記念写真を撮ろう!!
≪ナレーション≫ 聖教新聞の記者がカメラをかまえます。しかし、カメラマンを振り向く人は誰もいません。皆が先生を見て、涙を流していたのであります。
≪カメラマン≫ 皆さん、カメラはこっちですよ。(手を)パチパチ。はい、お願いですから、こっちを見てください。
≪ナレーション≫ こうして、雪の秋田指導は、『雪の街頭座談会』で、幕を開けたのであります。
しばらく行くと再び学会員が集まっています。そのたびに車を止め、一人一人に声をかけ、記念のカメラを撮ったのであります。ゴム長靴を、はいたカメラマンは、慣れない雪の道に、合計9回も、走り出たのであります。
≪支部婦人部長≫ もしもし、支部婦人部長です。明日の日中、大事な会合があるそうです。だれでも参加できるわけでは、ありませんからネ、よろしくお願いします。
≪地区担≫ はい婦人部長、分かりました。(向き直って)もしもし、地区担です。明日の日中、大事な会合があるそうです。だれでも参加できるそうですから、みんなして。んだ、んだ。んだ、んだ。
≪池田先生≫ 秋田指導の4日目の午前と午後、私は、魔僧(まそう)の最も激しい弾圧を忍(しの)んだ大曲・能代などの同志と、雪中の記念撮影を行った。
会館隣の沼田児童公園を使って、三千人の撮影会であった。そこには、迫害の嵐を耐え抜いた魂の勝者の涙があった。「私は戦い抜きました!」と、無名の英雄の笑顔があった。
君も征け 我も征く 吹雪に胸はり いざや征け
私たちは「人間革命の歌」を心の底から大合唱した。
そして、五月晴れのような万歳の声が、千年の未来にも轟(とどろ)けと、秋田の空に鳴り響いた。
≪ナレーション≫ この日、この時、この場に集ったメンバーが、「吹雪(ふぶき)グループ」、そして「嵐舞(らんぶ)グループ」となったことは、皆様ご存知のとうりです。
≪長編詩「みちのくの幸の光彩」より≫
それは忘れえぬ 決してわすれることのできぬ
私の胸中の歴史の一コマであった
昭和五十七年一月十日――
空港から会館への車中の道は大雪
秋田の銀世界を行く私の目に
寒風の中 笑(え)みをたたえながら
肩を寄せあって立つ
路傍(ろぼう)の一群の人たちが飛びこんできた
壮年がいる 婦人がいる 白髪の人もみえた
つぶらな瞳(ひとみ)の王子 王女もいた
“うちの人たちだ” 私は急いで車を降りた
磁石(じしゃく)と磁石が引きあうように
その輪の一員となった
喜びでいっぱいの顔 顔 顔
一人一人と固い握手(あくしゅ)をした
共に記念のカメラに納(おさ)まった
行く先々の あの街角にも この辻々にも
十余年ぶりの 私との再会を待っていて下さった
三々五々 集(つど)い来た
あなたたちの輝く瞳が待っていた
雪の中 九度に及んだ あの感動の街頭座談会
私は嬉しかった 心で泣いた
あなたたちの誠実の熱き心は
いかなる厳寒も寒風も冷(さ)ますことを得ず
その表情は 輝く銀世界よりも
まばゆくきらめいていた
ああ―――その喜びは 人間のみが知る歓喜
猛吹雪の厳寒に耐(た)え抜いた者のみが知る
春の微笑(ほほえみ)のかちどき
法衣の権威に身を包み
“正信”を騙(かた)った魔の軍勢に
見事に まことに見事に勝利した
晴れやかな顔(かんばせ)
日本海の雄たる秋田の
懐(なつ)かしくも健気(けなげ)なる同志との
忘れえぬあの出会いの数々よ―――
喜びの波紋(はもん)は
一波万波と県下に広がる 能代 大曲 角館から
三千の友が集(つど)いし自由勤行会
雪舞う戸外(こがい)での かちどきの歓声
皆で合唱せし「人間革命の歌」
わが友が真心で作りし“かまくら”に
心遊ばせし ひとときは 我が少年の日に夢みし
北国の詩情あふるる おとぎの世界
私の胸ふかく 三世に生き続けるにちがいない
金と銀との五泊六日よ
≪ナレーション≫ 本日は「雪の秋田指導」のお話を、随筆 人間革命、長編詩「みちのくの幸の光彩」、そして「うわさばなし」などを、もとに、 地区の オール スター キャストでお送りいたしました。
以上で、寸劇人間革命 のコーナーを終わります。

18)「雪の秋田指導」のお話


SBSH1675_2015032614343572c.jpg


19) 「植木屋のおじさん」のお話

≪ナレーション≫本日は、植木屋のおじさんの、お話であります。 時は平成8年1996年3月上旬。
東京・台東区。婦人部総会の帰り道、台東区婦人部長は路上でふと自転車を止めた。
今は少なくなった鉢植えの行商であります。
≪植木屋≫ 奥さん、綺麗なのがいっぱいあるよ。
≪婦人部長≫ そおねぇ~、どれがいいかしら。赤、白、ピンクの花が、とても綺麗。これ、一鉢くださいな。
≪植木屋≫ よお、南京桃(なんきんもも)だね。奥さん目がいいね。一鉢で三色楽しめるからお得だよ。
≪婦人部長≫ おじさん、行商のお仕事は長いの?
≪植木屋≫ もう終戦後から、やってるよ。や~、儲からない商売でね、うちの母ちゃんに頭あがんないよ。はっはっはっ
≪婦人部長≫ そうそう、婦人部総会の“しおり”が、まだあるわ。この、“しおり”差し上げます。よかったら、自宅でお待ちの奥様に、渡してくださいね。
≪植木屋≫ 綺麗な“しおり”だね。歌が書いてあるじゃないか。なになに、、
「微笑みの 母がおわせば 太陽が 照らすと等しき 平和の城かな」へえ! いい歌だね。奥さん和歌を詠むの?
≪婦人部長≫ え??違いますよ。
≪ナレーション≫ 婦人部長は、笑いながら、“しおり”の裏を見せた。
そこには「池田大作」と記されていたのであります。
その瞬間、植木屋のおじさんの表情が、みるみる変わったのであります。
≪植木屋≫ あんたは池田先生を、知っているのかい?
一番会いたい人。俺が、一番会いたい人は、この人なんだよ
≪ナレーション≫ その植木屋のおじさんの名前は島村さん。終戦後、生活必需品でない植木の行商は苦しかったのであります。
≪植木屋≫ あれは昭和二十六、七年だった。市ヶ谷の外堀通りで、『おいくらですか?』と声をかけてくれた若者がいたんだよ。それが池田先生だった。
後ろに、牛乳瓶の底みたいな分厚いめがねをかけた戸田先生もいたんだよ。
≪ナレーション≫ 当時、池田先生は二十三、四歳。戸田城聖のもとで働き始めてまだ三年ほどである。
≪植木屋≫ あの凛々しい青年にまた会いたい、と思ってね、しばらく市ヶ谷に通ったんだよ。夏の暑い日、また池田先生と会ったんだ。
『植木屋さん、お久しぶりでした。お変わりございませんか?』と声をかけてくれてね。リヤカーにあった観葉植物を『全部頂きますよ』って八鉢も買って、『お体に気をつけてくださいね』と丁寧に頭を下げてくれた。
俺は今でも、あの時の温かな言葉が忘れられないんだよ。
俺は 池田先生が好きなんだ。信心していないけど一番尊敬してる。先生の御恩は一生忘れないよ。
うそばかり書く週刊誌とか、先生のことを悪く言ってる奴らは、しゃくにさわってしょうがない。
≪婦人部長≫ そうだったんですか。先生との出会いがあったんですね。実は、この南京桃は、池田先生と奥様に、お届けするつもりなんです。
≪植木屋≫ うれしいなあ。池田先生が始めて買ってくれたのも、この南京桃だったんだよ。
ウ~ン。うれしくて、涙がでるよ。(ポロポロポロ)
俺は忘れないよ。だから池田先生も覚えてくださっている。
このジャスミンを一鉢、一緒に届けてくれないかな。この香りが好きで、いつも積んでいるんだ。植木屋からだって言って、よろしく伝えてよ。
≪婦人部長≫ でしたら先生にお手紙を書いてみてはどうでしょう。
≪植木屋≫ いいのかい。それじゃあ、、
≪手紙の朗読≫
「拝啓 池田先生 終戦直後、市ヶ谷ビルに居られましたるころ、戸田先生、池田先生始め……親身も及ぬ程、御世話になり……私の様な世の中の底辺をはいつづけて居る者に対し暖かい御心遣ひ……誠に有難う御座いました。この世の中で一番尊敬して居ります。」
「今年七十七才になりました。残り少い人生ですが、自分程幸福な人間は少ないと、今懐かしい池田先生をおもいながら、……御便りをさせて戴いて居ります。今日程、嬉しい日は御座いません。小生は本当に幸福者です。」
≪ナレーション≫ 手紙を受け取った、池田先生は、島村に対してすぐ、書籍と、写真集を贈ったのであります。
≪植木屋≫ 二冊も、なんて、申し訳ないよ。
≪婦人部長≫ 写真集の表紙に、池田先生の自筆で、歌が綴られているんです。「宝の木(たからのき)」と書いて、「うえき」とふりがなが、振られているんですよ。
島村 大兄
崇高な あの日の姿忘れまじ
世界一なる 宝木屋(うえきや)万歳
鉢植え・御手紙、感謝 合掌
三月二十八日 大作
≪ナレーション≫ 島村は一文字ずつ確かめ、声に出した。『あの日の姿忘れまじ』まで読むと、島村は声を詰まらせた。婦人部長も胸に迫るものがあったのであります。
≪宝木屋(うえきや)≫ リヤカーを引いて半世紀近く、先生との出会いを一日も忘れず生きてきたよ。やっぱり俺の思っていたとおりの先生だった。
池田先生に『ありがとう』と言えたことを感謝してるよ。みんな同じ人間で、位(くらい)なんてないけど、あえてつけるとすれば、池田先生は日本一、いや世界一だな。
≪ナレーション≫ 本日は、、『月刊誌「潮」2012年5月号 民衆こそ王者―池田大作とその時代』より、『宝の木と書く、うえき屋のおじさんのお話』を、 地区の オール スター キャストで、お送りいたしました。
以上で寸劇人間革命のコーナーを、終わります。

19)「植木屋のおじさん」のお話


SBSH1675_2015032614343572c.jpg


20) 「世界広布新時代」のお話

≪ナレーションA≫ 平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。
平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない。
1960年(昭和35年)10月2日。山本伸一、32歳。
彼は今、胸中(きょうちゅう)に平和への誓いの火を燃やしながら、世界へと旅立とうとしていた。それは、創価学会第3代会長に就任してから、わずか五ヶ月後のことであったのであります。
≪ナレーションB≫ 初めての海外訪問の10日目、カナダ・トロント空港でのエピソードであります。
カナダにはまだ学会員はいないとの事であった。
ところが、一人の若い女性が、空港に、一行を迎えに来ていたのであります。
≪泉谷照子≫ あのー。創価学会の方でしょうか。
≪山本伸一≫ はい、そうです。あなたは学会員ですか。
≪泉谷照子≫ いいえ、違います。私は、学会員では、ございません。私の母が日本で学会に入っておりまして、母からお迎えに行くように言われてまいりました。
≪山本伸一≫ そうですか。わざわざお迎えいただき、ありがとうございます。
私が会長の山本伸一です。あなたのお名前は?
≪泉谷照子≫ はい、泉谷照子(いずみやてるこ)と申します。
≪山本伸一≫ それで、お母さんはどこの支部の方ですか。
≪泉谷照子≫ 確か蒲田支部と聞いていました。
≪山本伸一≫ 私たちのことを気遣(きづか)って、娘さんに迎えに行くように伝えてくるなんて、お母さんの人柄(ひとがら)がしのばれます。深く感謝いたします。
≪ナレーションB≫ 泉谷は、伸一の質問に、明るく、にこやかに答えたのであります。
彼女の母親は、結婚してカナダに渡った娘のことが気がかりで、手紙で入会を勧(すす)めていたのであります。
しかし、毎回、送られてくる聖教新聞も、目を通す気にはなれなかったのであります。
山本伸一は、泉谷の家庭の様子などを尋ねながら、人生にとって、なぜ信仰が大切かを述べ、仏法とは生命の法則であることを語っていった。
そこには、無理に入会を迫(せま)る強引(ごういん)な態度もなかった。
彼女は、これまで自分が学会に対して、いだいていた印象とは、どこか違っていたように思えたのであります。
≪山本伸一≫ もし、何かあったらお題目を唱えることです。
これが、私たちの滞在(たいざい)するホテルです。もし、聞きたいことでもあれば、訪ねてください。また、日本に帰ったらお母さんに、娘さんはお元気であったとお伝えします。
≪ナレーションB≫ 彼女は、山本会長という人間からあふれ出る、誠実さや思いやり、確信、そして道理にかなった指導から、母が一心(いっしん)に励(はげ)んできた信仰の世界の真実を、初めて垣間見(かいま み)た気がしたのであります。
伸一との出会いの一年七ヵ月後、泉谷は、自(みずか)ら入会したのであります。
≪ナレーションA≫ 時は流れて、1964年(昭和39年)11月。一時帰国していた泉谷は、学会本部に山本伸一を訪ねたのであります。
山本会長は、自分のことなど当然とっくに忘れているはずだと思っていたのです。しかし、
≪山本伸一≫ トロントでは本当にお世話になり、ありがとうございました。広宣流布のために生き抜くことほど、崇高(すうこう)で、幸福な、充実した人生はありません。
カナダの広宣流布をよろしくお願いしますよ。
≪泉谷照子≫ はい、頑張ります!
≪ナレーションB≫ とっさに、彼女は、そう答えていた。
これが、泉谷が、カナダ広布の大使命に立ち上がった瞬間だったのであります。そして、彼女の奮闘(ふんとう)が始まったのです。
≪ナレーションA≫ 時は流れて、1967年(昭和42年)5月。ニューヨーク会館での勤行会に、泉谷は、一段と成長した姿で、トロントから車で10時間以上もかけてやってきたのです。
≪泉谷照子≫ 先生、今日はメンバー3人と一緒にまいりました。カナダも着実にメンバーが増えています。
≪山本伸一≫ そうですか。あなたがそうして奮闘されていることが、私にとって最大の喜びです。
≪ナレーションB≫ 山本伸一は、健闘(けんとう)を讃(たた)え、固い握手(あくしゅ)を交わした。
7年前に植えた励(はげ)ましの種子(しゅし)が、今、見事に結実(けつじつ)したのであります。
≪ナレーションA≫ 1975年(昭和50年)1月26日。
世界51カ国・地域の代表158人がグアム島に集い、創価学会インターナショナル・SGI が結成されたのであります。
≪山本伸一≫ ともかく地平線の彼方(かなた)に、大聖人の仏法の太陽が、昇(のぼ)り始めました。
皆さんがたは、どうか、自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に妙法という平和の種を蒔(ま)いて、その尊い一生を終わってください。
私もそうします。
≪ナレーションA≫ 本日は小説・新人間革命・第1巻・「錦秋(きんしゅう)」の章などから、「世界広布新時代のお話」を、 地区のオールスターキャストで、お送りいたしました。
以上で寸劇人間革命のコーナーを終わります。

20)「世界広布新時代」のお話


taidann01.jpg


21) 「トインビー対談」のお話

≪ナレーション≫ 時は、昭和47年1972年5月5日、午前10時30分、イギリスはロンドン郊外であります。20世紀を代表する大歴史学者であるアーノルド・トインビー博士との歴史的な対談が、まさに始まろうとしています。時にトインビー博士は83歳。山本伸一は44歳でありました。
今回は、その対談をほんの数分にまとめようという、無謀(むぼう)な試みであります。
≪山本伸一≫ 私は、博士と対話できますことを、仏法の探求者として、また未来を生きる青年の一代表として心から、嬉しく思います
≪トインビー博士≫ 私もまた、来るべき未来の世紀を考えています。未来はどうなるのか?
私はもちろん、あなたさえも、この世から去り、さらに長い時を経た時代に、世の中はどうなっているのか?
このことに、私は大きな関心を寄せています。
やりましょう。21世紀のために語り継ぎましょう!!
≪山本伸一≫ それでは、人間の幸福感について考えてみたいと思います。仏法には「十界論」という生命観があります。この「十界論」は生命を、その幸福感の状態ないし、姿勢について十の種類に分けるものです。苦しみの、大きい方から並べると、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏です。
≪ナレーション≫ 山本伸一は、地獄界から仏界まで、丁寧(ていねい)に説明していった。そしてさらに、方便品にとかれた「十如是」は、生命の運動法則であることを語り、如是相から本末究境等 まで、ひとつひとつを、詳しく説明した。博士は、感動した。
≪トインビー博士≫ オー、ワンダフル。仏法では、極めて素晴らしい心理分析をしていますね。その精密さは、これまで西洋でなされてきた、いかなる心理分析にも勝るものです。
私があなたの説明を、正しく受け止めているとすれば、その ジュー ニョーゼー という、考え方は、「挑戦と応戦」という私自身の学説に、よく似ていると思います。
≪山本伸一≫ 博士の言われる「挑戦と応戦」の考え方は、仏法の説く「生命の因果の法則」の異なった表現であると思います。生命の法則が、何であるか。これを明確に知れば、人生をいかに生きるべきか、活動すべきか、明らかに判断できるのでは、ないでしょうか。仏法は、生命の法を根本にした宗教です。宇宙と生命に内在する、根本の法に、合致(がっち)していくことが、仏教なのです。
≪トインビー博士≫ 仏法についての、お話、よく意味がわかります。それは、私の学説で言う「高等宗教」について考えさせられます。
仏法に説かれる普遍的な生命の法則の方が、キリスト教の「一神教」(いっしんきょう)よりも、「究極の精神的実在」をより誤りなく、説明しきっていると思います。
≪ナレーション≫ こうして、熱のこもった対談が続けられ、ありとあらゆる人類の課題が、話しあわれたのであります。残念ながら、このままやっていると、朝になってしまうので、最後のところを再現いたしましょう。
≪山本伸一≫ 博士、最後に、私個人に、何か忠告があればお願いします。
≪トインビー博士≫ 私は、学問の世界の人間です。
しかしあなたは、極めて重要な組織の責任ある指導者であり、仏法の実践者として行動されている。
行動の人に対して、学者がアドバイスするなど、おこがましい ことです。
ミスター ヤマモトと、私とは、人類が、いかに生きるべきか、完全に、意見が一致した。
あとは、あなたが主張された、中道こそ、今後あなたが、歩むべき道なのです。
人類の未来を、切り開くために戦ってください。
あなたの平和への献身を、やがて世界は、最大に評価するでしょう。
トインビー大学の 最優等生であるあなたは、必ず将来、私以上に、世界中の大学から名誉称号を贈られるでしょう。
これは私の友人の名前です。ミスター ヤマモトに、お会いしていただきたいと思う人たちです。
あなたが、世界に、対話の旋風(せんぷう)を、巻き起こしていくことを、私は強く念願しています。
≪山本伸一≫ 自分は今45歳。それは、師である戸田城聖先生が牢獄を出て、焼け野原に一人立ち、広宣流布を誓った年である。よしやろう!!人類の平和のために、世界に対話の旋風を巻き起こそう!!仏法の人間主義の哲学をもって、世界を、結ばなければならない。
≪ナレーション≫ トインビー博士の予言どうりに、池田先生が世界から受けた、学術、名誉称号の数が320を超えたことは、皆様ご存知のとうりです。
本日は、「小説 新・人間革命 第16巻」「対話」の章から「トインビー対談のお話」を、 地区の オール スター キャスト で、お送りいたしました。
以上で、寸劇人間革命のコーナーを終わります。

21)「トインビー対談」のお話


SBSH1675_2015032614343572c.jpg


22) 第一次ソビエト訪問・コスイギン首相のお話

≪ナレーション≫ 時は昭和49年1974年9月8日。山本伸一は、モスクワ大学の招待を受け、ソ連に向かっていた。
ソ連は、初訪問であります。
しかしこのソ連訪問には、反対する人が、多かったのであります。
≪山本伸一≫ そこに、人間がいるからです。人間に会いに私は行くのです。共産主義の国であろうが、資本主義の国であろうが、そこにいるのは、平和を願う、同じ人間ではないですか。ですから私は、その人間の心と心に橋を架(か)け、結ぶために行くんです。それが平和への、最も確かな道であるというのが私の信念です。
≪ナレーション≫ 訪ソ最終日の9月17日、午前10時。伸一が、クレムリンの会場に入ると、コスイギン首相の姿があった。鋭い眼光、額に刻まれた皺(しわ)、固く結ばれた口元。首相の顔には、ソ連の重責を担ってきた意志の強さが漂っていた。
≪山本伸一≫ 率直に申し上げれば、日本人は、ロシア文学やロシア民謡には親しんでいても、ソ連には親近感をもっておりません。どこか“怖い国”という印象を持っております。
本当に貴国が自分たちの真実を伝え、多くの日本人の理解を得ようと思うならば、『親ソ派』と称される政治家や、限られた団体とだけ交流するのではなく、幅広い交流が必要になります。また政治や経済の分野だけでは、真の友好はありえません。文化の交流こそ、最も大切になってきます。
≪コスイギン首相≫ なるほど。賛成です。山本会長のご意見をもとに、今後の対応を検討させていただきます。
≪ナレーション≫ 人の話に耳を傾け、受け入れようとするコスイギン首相の真摯な態度に、伸一は度量の大きさを感じた。“話ができる人だ”と思った。
≪山本伸一≫ 私ども創価学会は仏法者の団体であり、宗教的信念に立って、世界の平和をめざしております。
私ども創価学会が推進しているのは、国家による政治次元の交流というより、民衆レベルでの、大河のように幅広い文化、教育交流です。
≪コスイギン首相≫ 会長は仏法者として公明党を創立され、創価大学もつくられましたが、あなたの根本的なイデオロギーはなんですか。
≪山本伸一≫ それは、平和主義であり、文化主義であり、教育主義です。その根底は人間主義です。
≪コスイギン首相≫ 山本会長の思想を、私は高く評価します。その思想を、私たちソ連も、実現すべきであると思います。
今、会長は『平和主義』と言われましたが、私たちソ連は、平和を大切にし、戦争を起こさないことを、一切の大前提にしています。
≪山本伸一≫ 今回の訪ソでは、貴国の人民も、指導者も、平和を熱願(ねつがん)していることを痛感いたしました。
ソ連の人びとと同様に、中国の人びとも、平和を熱願しております。中国の首脳は、自分たちから他国を攻めることは絶対にないと言明しておりました。中国はソ連の出方を見ています。率直にお伺(うかが)いしますが、ソ連は中国を攻めますか。
≪コスイギン首相≫ いいえ、ソ連は中国を攻撃するつもりはありません。アジアの集団安全保障のうえでも、中国を孤立化させようとは考えていません。
≪山本伸一≫ そうですか。それをそのまま、中国の首脳部に伝えてもいいですか
≪コスイギン首相≫ どうぞ、ソ連は中国を攻めないと、伝えてくださって結構です。
≪山本伸一≫ それでしたら、ソ連は中国と、仲良くすればいいではないですか。
≪ナレーション≫ 首相は、一瞬、答えに困った顔をしたが、すぐに笑顔(えがお)を浮かべた。
心と心の共鳴が笑顔の花を咲かせた。
伸一は、この会談に確かな手ごたえを感じたのであります。
≪ナレーション≫ 首相は、帰宅後家族に、伸一との会見ついてこう語ったのです。
≪コスイギン首相≫ 今日は非凡で、非情に興味深い日本人に会ってきた。複雑な問題に触れながらも、話がすっきりできて嬉しかった。
≪ナレーション≫ 一(いち)民間人である山本伸一の手によって、歴史の歯車は、音を立てて回転し始めようとしていた。 日ソの新たな友好の道が開かれただけでなく、中ソの対立の溝(みぞ)にも、一つの橋が架けられようとしていたのである。
未来を開け! 開墾(かいこん)の鍬(くわ)を振るえ! 勇敢(ゆうかん)に、恐れなく、命のある限り。こう伸一は、自らに言い聞かせていたのであります。
≪ナレーション≫ 本日は、新人間革命第20巻『懸け橋(かけはし)』の章から、第一次ソビエト訪問・コスイギン首相のお話を、   地区の オール スター キャストでお送りいたしました。以上で寸劇人間革命のコーナーを終わります。

22)第一次ソビエト訪問・コスイギン首相のお話



無題_4

テーマ: 二次創作 | ジャンル: 小説・文学

コメント

コメントの投稿


 管理者にだけ表示を許可する

Page top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。