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ポイント学習・観心本尊抄(現代語訳)

教学試験1級学習用のテキストデータです。
重要ポイントをまとめてみました。
学習の参考にどうぞ。
(誤入力 あったら訂正します)


重要ポイント学習

大段第一 一念三千の典拠を示す
第1章 『摩訶止観』第5巻の文.p7
第2章 『摩訶止観』の前の4巻などには一念三千は明かされていない.p9
第3章 一念三千は前代未聞の優れた教え.p12
第4章 一念三千は有情と非常にわたる.p14

大段第二 (1)観心を明かす
第5章 観心の意味.p18
第6章 十界互具の文を引く.p20
第7章 難信難解を示す.p24
第8章 自身の心に具わる六道.p26
第9章 自身の心に具わる三乗.p29
第10章 凡夫の心に具わる仏界.p32
第11章 教主に関して尋ねる.p36
第12章 経典・論書に関して尋ねる.p41
第13章 経典・論書に関する難問に答える.p45
第14章 教主の難問に答えるに当たり、まず難信難解を示す.p49
第15章 教主に関する難問に答える.p52
第16章 受持即観心を明かす.p58

大段第二 (2)本尊を明かす
第17章 権教・法華経迹門の国土.p68
第18章 本門の国土.p69
第19章 本門の本尊を明かす.p71
第20章 末法に出現する本尊を尋ねる.p74
第21章 一代三段・十巻三段を示す.p75
第22章 迹門熟益三段を示す.p78
第23章 本門脱益三段を示す.p81
第24章 文底下種三段の序分・正宗分を明かす.p83
第25章 法華経で成仏する対象の中心.p86
第26章 本門序分の文を引く.p91
第27章 本門正宗分の文を引く
①寿量品は滅後のための法門.p95
②流通の人と法を明かす.p99
第28章 本門の流通分の文を引く
①別付嘱の文を引く.p101
②総付嘱・〓拾遺嘱を明かす.p106
第29章 地涌の菩薩が出現する時は悪世末法
①地涌の菩薩が出現する時を明かす.p108
②正法・像法時代の教・機根・時について検証.p112
③四菩薩の振る舞い.p114
第30章 仏の予言を明かす
①地涌の菩薩出現の予言.p118
②本門の本尊の建立を明かす.p120
③地涌の菩薩出現の先兆を明かす.p123

大段第三 総結
第31章 総結……125

現代語訳 創価学会教学部編

如来滅後五五百歳始観心本尊抄
如来滅後五五百歳に始む観心の本尊抄
にょらいめつご ごの ごひゃくさいに
 はじむ かんじんの ほんぞんしょう

《一念三千の出処を示す、1、2、3、》
●第1章 『摩訶止観』第5巻の文.p7

天台大師があらわした「摩詞止観(まかしかん)」の第五の巻に次の様にあります。
(一念三千をあらわすのに三千世間と三千如是とあるが同じ事である。
それは開と合のちがいなのである。)

「そもそも生命には、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の
十種の界をそなえている。
その一つの界にまた十種の界を具えているので合して百種の界となる。
この百種の界の一界ごとに、十如是と三世間を合した三十種の世間を具えているので、
百種の界にはすなわち三千種の世間を具えているのである
この三千世間は一念の心に具わっている。もし心がないのならそれまでであるが、
わずかでも心があれば、
すなわち三千世間を具えているのである。 だから名づけて不可思議境となすのである。
意(こころ)はじつにここにあるのである」等と。

《一念三千は情・非情にわたることを明かす4》
●第4章 一念三千は有情と非常にわたる.p14

問うていうには、
百界千如と一念三千とどう違うのでしょうか。

答えていうには、
百界千如は有情界に限られ、一念三千は有情界・非情界にわたっています。

いぶかっていうには、非情界にまで十如是がわたり因果が具わるならば、
草木にも心が有って有情と同じ様に仏道を修行して成仏することができるのでしょうか。

答えていうには、
このことは理解し難いことです。

観門の難信難解とは、百界千如・一念三千であり、
非情界に色心の二法・十如是を具えていると説く点である。
しかしこの点が難信難解であるからと言っても木像や画像においては、
仏教以外の外道でも仏教の各派でもこれを許して本尊としているが、
その義は天台一宗からでているのです。
なぜなら非情の草木の上にも色心の因果を具えているとしなければ、
木画の像を本尊として崇めたてまつることがまったく無意味になるからです。

《略して観心を述べる、5、》
●第5章 観心の意味.p18

問うていうのには、
一念三千の法門の出処が摩詞止観の第五に説かれているということを既に聞いて了解しましたが
観心の意義はどうでしょうか。

答えていうのには、
観心とは自己の心を観察して、自己の生命に具わっている十方界を見る事です。
このことを観心というのです。

《広く観心を述べる、6、7、》

●第7章 難信難解を示す.p24

問うていうのには、
自分や他人の面にあらわれた六根は見ることが出来ます。
他人や自身の生命に具わっているという十界は、いまだ見た事がありません。
どうしてこのことを信じることができるでしょうか。

答えていうのには、法華経法師品には
「信じ難く解し難し」と説かれ、
同じく宝塔品には、
六難九易も挙げて法華経の難信難解が説かれています。

そもそも釈尊の生存中、釈尊の教化をうけた衆生の機根は、過去に下種をうけて宿習が厚いうえ、
釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界(じゆせんがい)の大菩薩・文殊菩薩・弥勒菩薩等が、
法華経をたすけて諫暁したのに、それでもなお信じない者がありました。
即ち、五千人の増上慢が席を去り、
多くの人界、天界の衆生が他の国土へ移されました。
まして仏の入滅後の正法・像法時代はますます難信難解であり、
さらに末法の初めは、なおさら難信難解です。
もしあなたがたやすく信じられるなら、それは正法ではないといってもいいでしょう。

《一念の心に十界がそなわることを明かす、8、9、10、》
●第8章 自身の心に具わる六道.p26

今、しばしば他人の顔を見てみますと、ただ人界ばかりで他の九界は見られません。
自分の顔もまた同じです。
どうして十界を具えていると信じられるでしょうか。

しばしば他人の顔を見てみますと、ある時は平らかに、ある時は貪りの相をあらわし、
ある時は癡(おろ)かさをあらわし、ある時は諂曲(てんごく)です。
瞋(いか)るのは地獄、貪るのは餓鬼、癡かは畜生、諂曲なのは修羅、喜ぶのは天、平らかなのは人です。

このように他人の顔の色法には六道がすべて具わっています。
四聖は冥伏していて現れないけれども、くわしく探し求めれば必ず具わっているのです。

●第9章 自身の心に具わる三乗.p29

問うていうには、
六道については、明確にではないまでも、ほぼ、その説明を聞いて具えているように思います。
しかし、四聖はまったく見えないのはどうしてでしょうか。

答えていうには、
前には人界に六道が具わっていることを疑っていました。
そこで、しいて一つ一つの相似した例をあげて説明したのです。
四聖もまたこれと同じでしょう。
こころみに道理をつけくわえて、万分の一でもこれを述べてみましょう。

すなわち世間の生滅変化の姿は眼前にあります。
これを無常と見ているのですから、どうして人界に二乗界がないといえるでしょうか。
またまったく他をかえりみることのない悪人も、やはり妻子に対しては慈愛の心をもっています。
これは人界に具わっている菩薩界の一分です。
ただ仏界ばかりはあらわれにくいのです。
しかし、すでに九界を具えていることをもって、仏界のあることを信じ、疑ってはなりません。

法華経方便品の文に人界を説いて、
「衆生の生命の中にある仏の智慧を聞かせたいとおもう」とあり、
涅槃経に、
「大乗を学ぶ者は肉眼であったとしても、それは仏眼となづける」等とあります。

末法の凡夫が人間として生まれ、法華経(御本尊)を信ずるのは、人界に仏界を具えているからです。

●第10章 凡夫の心に具わる仏界.p32

問うていうには、
十界互具についての仏の言葉は明確になりました。
しかし、私達の劣等な心に仏法界を具えているということは、とても信ずることが出来ません。
いま、もしこのことを信じないなら、必ず一闡提(いっせんだい)となるでしょう。
願わくは、大慈悲をおこしてこれを信じられるようにし、
阿鼻地獄へ堕ちて苦しむことから救って下さい。

答えていうには、
十界互具の説を立てることは、石の中に火があり、木の中に花があるというように信じ難いけれども、
縁にあって火や花があらわれる人々はこれを信じます。

人界に仏界を具えていることは、水の中に火があり、
火の中に水があるというように最もはなはだ信じ難いことです。
しかし、竜火は水から出現し、竜水は火から生まれるといわれています。
理解出来ないけれども現実の証拠があるからこれを信じてるのです。

すでにあなたは人界に地獄界から菩薩界までの八界が具わっていることを信じました。
それでは人界に仏界が具わっていることをどうして信じられないのでしょうか。
中国古代の堯王(ぎょうおう)や舜王(しゅんのう)らの聖人は、
すべての民に対して偏頗(へんぱ)無く平等な政治を行いました。
これは人界に具わった仏界の一分の顕れです。
不軽菩薩はみる人ごとに仏身を見ました。
悉達太子は人界から仏身を成就しました。
これらの現実の証拠をもって人界に仏界が具わっていることを信ずるべきです。

《受持に約して観心を明かす、11、12、13、14、15、16、》

●第11章 教主に関して尋ねる.p36

問うていうには、
教主釈尊は(これより以下は固く秘しなさい)見思惑・塵沙惑・無明惑の三惑を既に断じ尽くした仏です。
また十方世界の国主であり、一切の菩薩・二乗・人・天らの主君です。
釈尊が行かれるときは、大梵天王は左に、帝釈天王は右にお伴をし、
四衆や八部衆は後ろに従い、金剛神は前を導き、
八万法蔵といわれる一切経を演説して、一切衆生を得脱させるのです。
このように尊い仏陀を、どのようにして私達凡夫の己心に住せさせられましょうか。

これらはみな我が一念に具わる十界なのでしょうか。
己身の三千だというのでしょうか。
たとえ仏の説だといっても、信じることは出来ません。

●第15章 教主に関する難問に答える.p52

さて十界互具を論難した最初の大難を遮っていうならば、無量義経に次のようにあります。
「たとえば国王と夫人とのあいだに新たに王子が生まれたとする。この王子が一日、二日、
あるいは七日と日がたち、または一ヶ月、二ヶ月、あるいは七ヶ月にいたり、
あるいは一歳、二歳、あるいは七歳になり、いまだ国の政治をとることはできないにしても、
すでに国民に尊び敬われ、多くの大王の子供を伴侶とするようになるであろう。
国王とその夫人の愛心はただただ重く、いつもこの王子と語るであろう。
なぜかというと、この王子は幼く小さいからである。
善男子よ、この経を信じ持つ者もまたそのとおりである。

諸仏という国王とこの経という夫人が和合してこの菩薩の子を生じた。
この菩薩はこの経を聞いて、その一句一偈を、あるいは一回転読し、あるいは二転、
あるいは億万恒河沙・無量無数転読するならば、いまだ真理の究極を体得することはできないにしても、
すでに一切の四部の衆や八部衆に尊び仰がれ、諸々の大菩薩を眷属とし、つねに諸仏に護念され、
ひたすら慈愛におおわれるであろう。それは新学だからである」等とあります。

ところが、善無畏三蔵等の新訳の訳者たちは中国に来入した際、天台の一念三千の法門を見聞して、
あるいは自分の持ってきた経々につけくわえたり、
あるいはインドから一念三千の法門を受持してきたなどと主張しました。

天台宗の学者等は、このように天台の法門を盗まれておりながら、
あるいは他宗でも天台と同じように一念三千を説き、自宗に同じであると喜び、
あるいは遠いインドを尊んで近くの中国に出現した天台をあなどり、
あるいは古い天台の法門を捨てて新しい宗派の教義を取り、
というように魔心・愚心が出てきたのです。
しかし、結局は、一念三千の仏種でなければ、有情の成仏も木像・画像の二象の本尊も有名無実です。

●第16章 受持即観心を明かす.p58

問うていうのには、先に人界所具の十界を論難しましたが、いまだその説明を開いていませんが、 どうなのでしょうか。

答えていうのには、
無量義経には、
「いまだ六波羅密の修行をしていなくても、六波羅密は自然に具わってくる」等とあり、
法華経方便品には、
「一切の功徳を具足する道を聞かせていただきたい」等とあり、
涅槃経には
「薩とは具足のことをいう」等とあります。
また竜樹菩薩は「大智度論」に「薩とは六である」等といっています。

中国・唐の均正があらわした「無依無得大乗四論玄義記」には、
「沙とは訳して六という。インドでは六をもって具足の義となすのである」といい、
吉蔵の「法華経硫」には、「沙とは翻訳して具足となす」といい、
天台大師は「法華玄義」に
「沙とは梵語である。中国語では妙と翻訳される」等といっています。

自分勝手に解釈をくわえますと、引用の本文の意をけがすようなものでしょう。
しかし、これらの文の意は、釈尊の因行と果徳の二法は、ことごとく妙法蓮華経の五字に
具わっており、私たちはこの妙法五字を受持すれば、
自然に釈尊の因果の功徳をゆずり与えられるのです。

法華経信解品で、
須菩提、迦旃延、迦葉、目〓連の四人の声聞が説法を聞いて悟りを理解して
「この上ない宝の聚りを、求めないのに自ずから得ることができた」等といっています。
これは私たちの自身の生命のなかの声聞界です。

法華経方便品には
「衆生を私(仏)と等しくして異なることがないようにしたいと、
私(仏)がその昔、願った事は、今はすでに満足した。
一切衆生を教下して、みな仏道に入らせることができたのである」と説かれています。

妙覚の悟りをそなえた釈尊は、
私たちの血肉です。
この仏の因果の功徳は、私たちの骨髄ではないでしょうか。

法華経宝塔品には、

「よくこの経法を守る者は、すなわち私(釈尊)および多宝仏を供養することになる。
またもろもろの集まり来られた化仏のそれぞれの世界を荘厳にし
輝かしく飾っている者を供養することになるのである」等とあります。
この釈迦・多宝十方の諸仏は私たちの仏界であり、妙法を護持する者は、
これらの仏の跡を受け継いで、その功徳を受得するのです。
法師品の
「わずかの間でもこれを聞くならば、すなわち阿耨多羅三藐三菩提を極め尽くす事が出来る」
というのはこれです。

寿量品には
「ところが、私が、じつに成仏してよりこのかた、無量無辺百千万億那由佗劫を
経ているのである」等と説かれています。
私たちの己心の仏界である釈尊は、久遠元初に顕れた三身であり、無始無終の古仏です。

同じく寿量品には、
「私が本菩薩の道を修行して成就したところの寿命は、
今なお未だ尽きてはいない。
未来もまたその寿命は上に説いた五百塵点劫の数に倍するのである」等と説かれています。
これは私たちの己心の菩薩等の九界です。
地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なのです。

たとえば大公は周の武王の臣下であり、
周公旦は幼稚の成王の眷属、武内の大臣は神功皇后の第一の臣であるとともに、
仁徳王子の臣下であったようなものです。
上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩等は、地涌の大菩薩の上主唱道の師たちは、
私たち己心の菩薩です。

妙楽大師は「止観輔行伝弘決」に、
「まさに知るべきである。正報である身も依報の国土も、私たち衆生の一念三千とあらわれる。
故に成仏の時にはこの本地難思境智の妙法にかなって、
一身も一念もともに法界に遍満するのである」と説いています。

《略して本尊を述べる17、18、19、》
●第17章 権教・法華経迹門の国土.p68

いったい、釈尊が寂滅(じゃくめつ)道場で成道して最初に説法した華厳経の華蔵世界から、
沙羅林(しゃらりん)で最後に涅槃経を説くまで一代五十余年の間、
華厳経に説くところの浄土である菩薩世界、
大日如来の住む密厳世界、法華経迹門宝塔品で清浄にされた三土、
涅槃経で説く四見の四土などは皆、
成(じょう)劫・住(じゅう)劫・壊(え)劫・空(くう)劫の四劫を繰り返す無常の国土の上に
変化して示された方便土・十報土であり、
寂光土たる阿弥陀仏の安養・薬師如来の浄瑠璃・大日如来の密厳世界等です。
能変の教主すなわちインド応誕の釈尊が涅槃に入ってしまうならば、
所変の諸仏もまた釈尊の入滅に従って滅尽します。
その国土もまた同様です。

●第18章 本門の国土.p69

いま法華経本門寿量品の説法で説かれた久遠の仏の常住する娑婆世界は
三災におかされることもなく 成・住・壊・空の四劫をぬけでた常住の浄土です。
仏はすでに過去にも滅することはなく、未来に生ずることもない常住不滅の仏であり、
仏の説法を聞いている所化たちも同体で、常住です。
これがすなわち、釈尊の声聞たちの己心の三千具足、三種の世間です。

法華経迹門十四品には、未だこのことを説いていません。
法華経の内においても、時期がまだ熟していなかったからでしょうか。

●第19章 本門の本尊を明かす.p71

この法華経本門の肝心である南無妙法蓮華経の五字については、
釈尊は文殊師利菩薩や薬王菩薩等らさえもこれを付嘱されませんでした。
ましてそれ以外の者に付嘱されるわけがありません。
ただ地涌千界の大菩薩を召し出して、
涌出品から嘱累品までの八品を説いてこれを付嘱されたのです。

その本門の肝心の南無妙法蓮華経の御本尊のありさまは、
久遠の本仏が常住される娑婆世界のうえに宝塔が空中にかかり、
その宝塔の中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏と多宝仏が並び、
釈尊の脇士には上行らの地涌の四菩薩が並び、
文殊菩薩や弥勒菩薩らの迹化の菩薩は本化四菩薩の眷属として末座に居り、
迹化の菩薩、多宝の国土の菩薩等大小の諸菩薩は、
万民が大地にひれふして殿上人をあおぎ見るようにして座し、
十方から集まりやってきた分身の諸仏は大地の上に座っておられます。
これは迹仏・迹土をあらわしているからです。

このような御本尊は釈尊の在世五十余年のあいだにはまったくありませんでした。
法華経八年のあいだにも涌出品から嘱累品までのただ八品に限られてあらわされました。

正法・像法二千年の間には、
小乗教の釈尊は迦葉と阿難を脇士とし、
権大乗教 及び涅槃経・法華経の迹門等の釈尊は
文殊菩薩や普賢菩薩らを脇士(きょうじ)としています。

これらの仏を、正法、像法時代に造り描きましたが、
未だ寿量品の文底に説かれた仏はあらわされていません。

この寿量品の仏は、末法の時代に入ってはじめてあらわされるべきだからでしょうか。

《広く本尊を述べる、20、21、22、23、24》
●第20章 末法に出現する本尊を尋ねる.p74

問うていうには、
正法・像法二千余年の間、正法時代の四依(しえ)の菩薩 及び 像法時代の人師たちは、
阿弥陀や大日などの仏や、
小乗教・権大乗教、爾前経・法華経迹門の釈尊らの寺塔は建立しましたが、
本門寿量品文底下種の大御本尊ならびに四大菩薩については、
インド・中国・日本の三国の王・臣ともに未だ崇重したことがない旨を申されました。

このことはほぼ聞きましたが、前代未聞のため耳目を驚かし、心を迷い惑わすばかりです。
重ねてこれについて説いていただきたい。
詳しく聞きたいと思います。

●第21章 一代三段・十巻三段を示す.p75

答えていうには、
法華経の一部八巻二十八品、それ以前には華厳より般若までの前四昧の爾前経、
それ以後には涅槃経などの、釈尊一代に説かれた諸経を総じてこれをまとめると、
ただ一経となります。

はじめ寂滅道場で説かれた華巌経から般若経に至るまでは序分です。
無量義経・法華経・普賢経の十巻は正宗分です。
涅槃経等は流通分です。

正宗分十巻の中においてまた序分・正宗分・流通分があります。
無量義経と法華経の序品第一は序分です。
方便品第二から分別功徳品第十七の半ばの十九行の偈に至るまでの十五品半は正宗分です。
分別功徳品の現在の四信の段から普賢経に至るまでの十一品半と一巻は流通分です。

●第22章 迹門熟益三段を示す.p78

また法華経と無量義経・普賢経の十巻においても迹門と本門の二経があり、
それぞれ序分・正宗分・流通分を具えています。

まず迹門においては無量義経と法華経の序品第一は序分です。
方便品第二から人記品第九に至るまでの八品は正宗分です。
法師品第十から安楽行品第十四に至るまでの五品は流通分です。

●第23章 本門脱益三段を示す.p81

また法華経の本門十四品の一経に序分・正宗分・流通分があります。
涌出品の前半分を序分とし、
涌出品の後半分と寿量晶の一品と分別功徳品の前半分の一品二半を正宗分とします。
その他は流通分です。

しかし、文底下種の独一本門に比べると、
本門と迹門の一念三千の相違はほとんど竹膜を隔てるようなわずかなものです。

●第24章 文底下種三段の序分・正宗分を明かす.p83

また文底独一本門において序分・正宗分・流通分があります。
過去大通智勝仏の法華経から、
インドの釈尊が説いた華厳経をはじめ法華経迹門の十四品、
涅槃経などの一代五十余年の諸経も、
十方三世の諸仏が説いた無数の経々も
みな寿量品すなわち文底独一本門の南無妙法蓮華経の序分です。

文底下種の一品二半より他は、全て小乗教・邪教・未得道教であり、
真実を覆いかくしている覆相教です。

そのような小乗教・邪教を信ずる衆生の機根を論じますと、
徳が薄く、煩悩の垢は重く、幼稚で、貧しくていやしく、
孤児のように孤独で、禽や獣と同じです。
爾前経や法華経迹門に説かれた「即身成仏」するという円教でさえなお成仏の因とはなりません。

まして大日経などの諸々の小乗教で成仏できるわけがありません。

さらに華厳経や真言宗などの七宗のような論師や人師が立てた宗ではなおのことです。

与えてこれを論じても、
蔵・通・別の三教の範囲を出ず、
奮ってこれをいえば、蔵教や通教と同じです。
たとえその法理は非常に深いといっても、
未だ、いつ下種し、どのように熟し得脱させるかを論じていません。
「かえって小乗教の灰身滅智に同じであり、化導の始終がない」というのがこれです。

たとえば王女であっても畜生の種を懐妊すれば、その子は旃陀羅にも劣っているようなものです。

これらのことはしばらくおいてきましょう。

《文底下種三段の流通を明かす25、26、27、28、》
●第25章 法華経で成仏する対象の中心.p86

法華経の迹門十四品の正宗分である方便品第二から人記品第九までの八品は、
一往これを見てみますと、
釈尊在世の二乗の者をもって正とし、菩薩・凡夫をもって傍としています。
しかし、再往これを考えれば、
凡夫を正とし、仏滅後の正法・像法・末法を正となしています。
正・像・末の三つの時代の中でも末法の始めをもって正の中の正としています。

問うていうには、その証拠はどうですか。

答えていうには、法華経法師品に、
「しかもこの法華経は、信じ行ずるとき釈尊の現在でさえ なお怨(うら)みやねたみが多い。
まして、仏滅後においてはなおさらのことである」と説かれ、

宝塔品には、
「正法を長くこの世にとどめるのである。(中略)また、
法華経の会座に集まり来た分身の諸仏も、このことを知っておられたのである」
等と説かれています。

勧持品・安楽行品などにもこれについて説かれていますから見てみなさい。
迹門はこのように滅後末法のために説かれたのです。

法華経本門について論じますと、
一向に末法の初めをもって正機としています。

すなわち一往これを見るときは、久遠五百塵点劫に仏種を植えられたことをもって下種とし、
その後の大通智勝仏の時や前四味の爾前経、法華経迹門を熱とし、
本門にいたって等覚・妙覚の位に入らせ得脱させました。

しかし再往これを見ますと、本門は迹門とはまったく違って序分・正宗分・流通分ともに
末法の始めをもって詮としています。

釈尊在世の本門と末法の始めの本門は、
同じく一切衆生が即身成仏できる純円の教です。
ただし在世の本門は脱益であり、末法の始めの本門は下種益です。
在世の本門は一品二半であり、末法の本門はただ題目の五字です。

●第26章 本門序分の文を引く.p91

問うていうには、その証文はどうですか。

答えていうには、法華経湧出品に、
「その時に他方の国土からやって来た
ガンジス河の砂の数の八倍を超える多数の大菩薩たちが、
『まさにこの姿婆世界において広く法華経を説くでしょう』と誓った。

その時に仏は、もろもろの大菩薩に告げられた、
『止めよ善男子よ、汝たちがこの法華経を護持することは用いない』」等と説かれています。

ところが一瞬の間に、仏の説く言葉は相違して、
ガンジス河の砂の数の八倍という多くの菩薩たちの、この娑婆世界での弘教を制止されたのです。
進退きわまってしまいました。
もはや凡夫の智恵ではおよびません。

天台智者大師は、
他方の菩薩の弘教を制止した理由と地涌の菩薩を召し出し付嘱した理由を、
それぞれ三つずつ、あわせて六つの解釈をつくって、これを説明されています。

結局、迹化・他方の大菩薩らに仏の内証の寿量品(文底下種の大御本尊)を
授与するわけにはいかないのです。

末法の初めは謗法の国であり悪機であるため、
迹化・他方の菩薩たちの弘教を制止して地涌千界の大菩薩を召し出し、
寿量品の肝心である妙法蓮華経の五字をもって、全世界の衆生に授与させられるのです。

また迹化の大衆は釈尊の初発心の弟子たちではないからです。

●第27章 本門正宗分の文を引く
①寿量品は滅後のための法門.p95

また弥勒菩薩が疑いをおこして答えを求めていったことが涌出品に次のように説かれています。
「   願わくは滅後の人々の為に解説して私たちの疑いを取り除いていただきたい、
そうすれば未来世のもろもろの善男子もこのことを聞けば、また疑いを生じないでしょう」等と。

この経文の意は、
寿量品の法門は仏滅後の衆生のために請われて説かれたということです。

寿量品に、 「   『このよき良薬をいま留めてここにおいておく。
おまえたちはこの薬を取って飲みなさい。病気がなおらないといって心配することはない』
このように子供たちに教え終わって、また他の国へ行って、
使いを遣わして『父は死んだ』と伝えたのである」等と説かれています。

●第27章 本門正宗分の文を引く
②流通の人と法を明かす.p99

問うていうには、
寿量品の「使いを遣わして還って告ぐ」というのはどういう意味でしょうか。

答えていうには、
使いというのは四依の人々のことです。
第四に本門の四依は地涌千界の大菩薩であり、末法の初めにかならず出現するのです。

いまの「遣使還告」とは地涌の菩薩の事であり、
「是好良薬」とは寿量品の肝要である名体宗用教の南無妙法蓮華経、
すなわち三大秘法の大御本尊です。

この良薬を仏はなお迹化の菩薩にさえ授与されませんでした。
まして他方の国土から来た他方の菩薩に授与されるはずはありません。

●第28章 本門の流通分の文を引く
 ①別付嘱の文を引く.p101

法華経神力品には、
「   いまその肝要をいうならば、如来の一切の所有している法、如来の一切の自在の神力、
如来の一切の甚深の事が、みなこの経に宣べ示し説き顕されている』」と。

この経文について天台大師は「法華文句」に
「『その時に仏は上行らに告ぐ』より下は、第三の結要付嘱である」
等と述べています。

《地涌出現の時節を明かす、29、30、》
●第29章 地涌の菩薩が出現する時は悪世末法
①地涌の菩薩が出現する時を明かす.p108

疑っていうには、
正法・像法二千年のあいだに地涌千界の大菩薩が閻浮提に出現してこの経を
流通されるのでしょうか。

答えていうには、そうではありません。

驚いていうには、法華経全体、および法華経本門は仏滅後を本として、まず地涌千界の大菩薩に授与されました。
どうして仏滅後の正法・像法時代に出現してこの経を弘通しないのでしょうか。

答えていうには、それについては宣べません。

重ねて問うていうには、どうして出現せず、弘通しないのでしょうか。

答えていうには、これを宜べることはしません。

また重ねて問うていうには、どうしてでしょうか。

答えていうのには、
これを宣べますと一切世間の人々は、威音王仏の末法の四衆のように、
増上慢をおこして地獄へ堕ちるでしょうし、
また我が弟子の中にもほぼこれを説いたならば、みな誹誘するでしょう。
だからただ黙止するのみです。

求めていうのには、
もし知っていて説かないなら、あなたは慳貪の罪におちるでしょう。

答えていうのには、
進退窮まってしまいました。
それでは試みにほぼこれを説いてみましょう。

法華経法師品には
「まして滅後の後はなおさら怨嫉が多い」と説かれ、

寿量品には「いま留めてここにおく」と説かれ、

分別功徳品には「悪世末法の時」とあり、

薬王品には
「後の五百歳すなわち末法の初めに全世界において広宣流布するであろう」
と説かれています。

さらに涅槃経に
「たとえば七人の子供があるとする。父母は子供に対して平等ではないということはないが、
しかし病気の子には心をひとえに重くかけるようなものである」等と説かれています。

以上の経文を明かな鏡として仏の真意を推しはかってみますと、
釈迦仏の出世は霊鷲山で八年にわたって法を聞いた人々のためではなく、
釈尊滅後の正法・像法・末法の人のためです。
また正法・像法二千年の間の人のためではなく、
末法の始めの私のような者のためです。

涅槃経に説かれる
「しかし病気の者には」というのは、釈尊滅後において法華経を謗る者を指すのです。

寿量品にいう「いま留めてここにおく」というのは、
「このすばらしい色香の薬をよくないと思う」(寿量品)という考えを指しているのです。

●第29章 地涌の菩薩が出現する時は悪世末法
③四菩薩の振る舞い.p114

いま末法の初めに入って、小乗教をもって大乗教を打ち、権教をもって実教を破り、
それは、東と西ともに方向を失い、天と地が逆になったような状態です。
正法・像法時代に正法を弘めた迹化の四依の菩薩はすでに隠れて世に存在しません。

諸天善神はそのような国を捨て去り、守護しません。
この時、地湧の菩薩が初めて世に出現し、
ただ妙法蓮華経の五字の良薬をもって幼稚の衆生に飲ませるのです。
「法華文句記」にいう
「正法をそしることによって悪におちたならば、かならずその因縁によって利益を得る」
というのがこの事です。

我が弟子たちはこのことをよく考えなさい。
地涌千界の菩薩は教主釈尊が初めて悟りを求める心をおこした時以来の弟子です。
しかし、釈尊が成道した寂滅道場にも来なかったし、沙羅双樹林において入滅された時にも
おとずれなかった。
これは不孝の罪というべきでしょう。

法華経迹門の十四品にも来ないで、
本門の薬王品第二十三以下の六品には座を立ってしまいました。

ただ本門の涌出品から嘱累品までの八品のあいだだけ来還したのです。

このような高貴の大菩薩が釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏にたいして
末法に弘通することを約束して妙法五字を受持したのです。
末法の初めに出現されないことがあるでしょうか。
まさに、
この上行らの四菩薩は、折伏を現ずる時には賢王となって愚王を責(せ)め、誡(いまし)め、
摂受を行ずる時は聖僧となって正法を持(たも)ち、広(ひろ)めるのです。

●第30章 仏の言を明かす
①地涌の菩薩出現の予言.p118

問うていうには、仏が未来を予言して記した文はどうでしょうか。

答えていうには、
法華経薬王品に
「後の五百歳に、全世界において広宣流布するであろう」と説かれています。

天台大師は「法華文句」に
「後の五百歳から、末法の未来永劫に妙法が流布するであろう」と記し、
これを解釈して妙薬は「法華文句記」に
「未法の初めは下種益が必ずある」と記しています。

さらに伝教大師は「守護国界章」に
「正法・像法時代はほとんど過ぎ終わって、末法が非常に近づいている」等と述べています。

「末法が非常に近づいている」との釈は伝教自身の時代は三大秘法の南無妙法蓮華経が
正しく流布される時ではない、という意味です。

伝教大師が日本に出現して、末法の始めを記していうには、
「時代をいうならば像法時代の終わり、末法の初めであり、
その地をたずねれば中国・唐国の東で靺羯(まかつ)国の西にあたり、
その時代の人をたずねれば、五濁の盛んな衆生であり、闘諍堅固の時代である。

法華経法師品に、
『如来の現在さえなお怨みやねたみが多い。まして滅度の後の末法にはなおさらである』
と説かれているが、この言葉はまことに深い理由がある」と。

●第30章 仏の予言を明かす
②本門の本尊の建立を明かす.p120

この伝教の釈に「闘諍の時なり」とありますが、
いまの自界叛逆と西海侵逼の二つの難を指すのです。
この時に地涌千界の大菩薩が出現して、
法華経本門の釈尊を脇士とする全世界第一の本尊が、この国に建立されるのです。

インド・中国にいまだこの本尊は建立されませんでした。
日本国の聖徳太子は、四天王寺を建立しましたが、
いまだこの本尊を建立する時が来ていなかったので、阿弥陀仏という多宝仏を本尊としました。

聖武天皇は東大寺を建立しましたが、その本尊は華厳経の教主の盧舎那仏で、
いまだ法華経の実義を顕わしていません。
伝教大師は ほぼ法華経の実義を顕し示しました。
しかし、時がいまだ来ていなかったので、東方の薬師如来を建立して本尊とし、
本門を四菩薩は顕していません。
それは、釈尊が地涌千界の菩薩のために、本門の本尊を譲り与えられたからです。

この地涌の菩薩は仏の命令をうけて近く大地の下にいます。
正法・像法時代にはいまだ出現していません。
末法にもまた出現されなかったならば大妄語の菩薩です。
釈迦・多宝・十方分身の三仏の未来記もまた泡沫と同じになってしまいます。

●第30章 仏の予言を明かす
③地涌の菩薩出現の先兆を明かす.p123

以上のことから考えてみますと、
正法・像法時代になかったような大地震・大彗星等がいま出てきています。
これらは金翅鳥・修羅・竜神などのおこす動変ではありません。
ひとえに四大菩薩を出現させるための兆しでしょう。

天台大師は「法華文句」に
「雨の激しさを見て、その雨を降らせている竜が大きいことを知り、
蓮の花の盛んなのを見て、その池の深いことを知る」等といい、

妙楽は「法華文句記」に
「智人は物事の起こりを知り、蛇は自らのことをよく知っている」等といっています。

天が晴れたならば地はおのずから明らかになります。
法華経を識(し)る者は 世間の法をもおのずから得る事でしょう。

《総結》
●第31章 総結.p125

一念三千を識(し)らない末法の衆生に対して、
仏(久遠元初の御本仏)は大慈悲を起こし、
妙法五字のうちに一念三千の珠をつつんで、
末代幼稚の者の首にかけさせてくださるのです。

本化地涌の四大菩薩が、
この幼稚の衆生を守護されることは、太公(たいこう)・周公(しゅうこう)が文王に仕えてよく助け、
商山の四晧(しこう)が恵帝(けいてい)に仕えたのと異ならないのです。
                            
文永十年四月二十五日

日蓮これを記す
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