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観心本尊抄・現代語訳全文

教学試験1級学習用のテキストデータです。
学習の参考にどうぞ。
(誤入力 あったら訂正します)


現代語訳 創価学会教学部編

G238p
如来滅後五五百歳始観心本尊抄
如来滅後五五百歳に始む観心の本尊抄
にょらいめつご ごの ごひゃくさいに
 はじむ かんじんの ほんぞんしょう

《一念三千の出処を示す、1、2、3、》
●第1章 『摩訶止観』第5巻の文.p7

天台大師があらわした「摩詞止観(まかしかん)」の第五の巻に次の様にあります。
(一念三千をあらわすのに三千世間と三千如是とあるが同じ事である。
それは開と合のちがいなのである。)

「そもそも生命には、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の
十種の界をそなえている。
その一つの界にまた十種の界を具えているので合して百種の界となる。
この百種の界の一界ごとに、十如是と三世間を合した三十種の世間を具えているので、
百種の界にはすなわち三千種の世間を具えているのである
この三千世間は一念の心に具わっている。もし心がないのならそれまでであるが、
わずかでも心があれば、
すなわち三千世間を具えているのである。 だから名づけて不可思議境となすのである。
意(こころ)はじつにここにあるのである」等と。
(ある本には「一界に三種の世間を具えている」とある)

●第2章 『摩訶止観』の前の4巻などには一念三千は明かされていない.p9

問うていうには、
天台の「法華玄義」に一念三千の名称を明かしているでしょうか。

答えていうには、妙薬大師は「明かしていない」と言っています。

問うていうには、
天台の「法華文句」に一念三千の名称を明かしているでしょうか。

答えていうには、妙楽は「明かしていない」と言っている。

問うていうには、その妙薬の解釈はどうでしょうか。

答えていうには、
妙楽は「止観輔行伝弘決(しかんふぎょうでんぐけつ)」に
「並びに未だ一念三千といっていない」等といっています。

問うていうには、
天台の「摩訶止観」の一・二・三・四の巻等に一念一三千の名称を明かしているでしょうか。

答えていうには、その名称はありません。

問うていうには、その証拠がどうですか。

答えていうには、妙薬は「止観輔行伝弘決」に
「ゆえに「摩訶止観」第五巻のまさしく観法を明かすにいたって、
ならびに一念三千をもってその指南としたのである」等といっています。

疑っていうには、「法華玄義」第二には
「又、一つの界に他の九の界をそなえているので百界となり、
一界ごとに十如是をそなえているから、百の界には千如是となる」等とあります。

「法華文句」第一には
「一入(にゅう)に十種(しゅ)の界をそなえているから、一界に十界を互具して百界となる。
十界にそれぞれ十如是があるので、即ち千如是である」等とあります。

天台大師のあらわした「観音玄義」には
「十法界が交互(たがい)にそなえているので百法界となり、
百法界に十如是をそなえて千如是となる。
その千種の如是は冥伏して心にある。目の前に現れていないといっても、
はっきりそなえている」等とあります。
これらの意はどうかとの疑いを設けている。
その答えはないがこれらの意はすべて千如是を明かしており、
一念三千を明かしていないことが文にあって明らかである。

問うていうには、
「摩訶止観」の前の四巻に一念三千の名称を明かしているでしょうか。

答えていうには、
妙薬は「明かしてない」といっています。

問うていうには、
その妙楽の解釈はどうなのでしょうか。

答えていうには、妙楽は「止観輔行伝弘決」の第五の巻に、
「もし「摩訶止観」の第五の巻 正観章(しょうかんしょう) 第七に対すれば、
それまでの一・二・三・四巻等は全く未だ観心の行を論じておらないで、
また二十五法の修行等を明かし、具体的な問題にことよせて理解をおこさせている。
正によく正修(しょうしゅう)のための方便の行とすることができるのである。
この様な訳で、先の六章(第四巻まで)は皆理解の段階に属して正行ではなかった」
等といっています。

また同じく、 「故に、「摩訶止観」のまさしく観法を明かすにいたって、
ならびに一念三千をもってその指南としたのである。

G239p
即ちこれが最終究極の説法である。
だから章安大師は「摩訶止観」の序分の中に
「天台大師の己心の中に行ずる所の法門すなわち一念三千の法門を説かれたのである」
といっているが、まことに深い理由があるのである。
願わくは、たずね読もうとする者は、他のものに心をうばわれてはならない」
等といっています。

●第3章 一念三千は前代未聞の優れた教え.p12

天台智者大師が法を弘めたのは三十年間です。
そのうち二十九年の間は「法華玄義」や「法華文句」等を
種々の義を説いて五時八教や百界千如を明かして、
それ以前の五百余年の間の中国における諸宗の誤りを責め、
さらにインドの大論師さえいまだかつて述べたことのない甚深の奥義・法門を
説きあらわしました。
奉安大師は天台を賛嘆して、
「インドの大論師さえなお天台大師に比べれば比較することができない。
いわんや中国の仏教学者をどうして一々挙げて批評する必要があろうか。
これは決して誇りたかぶっていうのではなくて、
まったく天台の説かれた法相・説く法門自体がそのように優れ勝っているからである」
等といっています。
浅はかなことに、天台の末の学者らは華厳宗や真言宗の元祖の盗人に
一念三千の重宝を盗み取られて、かえって彼らの門家となってしまいました。
章安大師はかねてこのことを知って嘆いていうには、
「この一念三千の法門がもし将来失墜するようなことがあれば実に悲しむべきことである」と。

《一念三千は情・非情にわたることを明かす4》
●第4章 一念三千は有情と非常にわたる.p14

問うていうには、
百界千如と一念三千とどう違うのでしょうか。

答えていうには、
百界千如は有情界に限られ、一念三千は有情界・非情界にわたっています。

いぶかっていうには、非情界にまで十如是がわたり因果が具わるならば、
草木にも心が有って有情と同じ様に仏道を修行して成仏することができるのでしょうか。

答えていうには、
このことは理解し難いことです。
天台の難信難解に二つあります。
一には教門、即ち言葉で説法された面での難信難解、
二には観門、 即ち覚るべき法門の面での難信難解です。
その教門の難信難解とは、釈尊という同じ仏の諸説において、
爾前の諸経では声聞・縁覚の二乗と
一闡提(いっせんだい)の者は未来永久に成仏しないと説き、
また教主釈尊はインドで始めて悟りを成就したと説いたが、
法華経迹門では二乗と闡提(せんだい)の成仏を説き、
また本門では始成正覚を破って久遠実成を説き顕わして、
爾前経の二つの説を打ち破りました。
この様に爾前と法華経では所説がまったく相反するので
一仏が二言となり水と火の様に相入れない説で
誰人がこれを容易に信ずることができるでしょうか。
これは教門の難信難解です。
観門の難信難解とは、百界千如・一念三千であり、
非情界に色心の二法・十如是を具えていると説く点である。
しかしこの点が難信難解であるからと言っても木像や画像においては、
仏教以外の外道でも仏教の各派でもこれを許して本尊としているが、
その義は天台一宗からでているのです。
なぜなら非情の草木の上にも色心の因果を具えているとしなければ、
木画の像を本尊として崇めたてまつることがまったく無意味になるからです。

疑っていうには、
それでは非情の草木や国土のうえにも十如是の因果の二法を具えているということは、
どの文に出ているのですか。

答えていうには、「摩訶止観」の第五の巻に、
「非情の国土世間もまた十種の法すなわち十如是を具えている。
だから悪国土には悪国土の相・性・体・力・作・因・縁・・本末究責等等の十如是があり、
同じく善国土にも二乗の国土にも菩薩の国土にも仏国土にも
それぞれの十如是を具えている」等とあります。

妙楽のあらわした「法華玄義釈籤(ほっけげんぎしゃくせん)第六に
「相は外面に顕われたものだから唯色である。性は内在する性質だから唯心である。
また体は物の本体で色心をかね、力は外に応ずる内在性で、作は外部への活動、
縁は善悪の事態を生ずる助縁であり、
これらの体・力・作・縁は皆色心の二法を兼ね、因と果は唯心、報は唯色である」
等と説いています。
また同じく妙楽の「金〓論(こんぺいろん)」には、
「すなわち一本の草、一本の木、一つの礫(つぶて・小石)、一つの塵等、
それぞれ一つの正因仏性(しょういんぶっしょう)、
一の因果が具わっており縁因(えんいん)仏性・了因(りょういん)仏性も具えている。
すなわち実在する物はことごとく本有常住の三因仏性を具足しており
非情の草木であっても有情と同じく
色心・因果を具足していて成仏するのである」等と説かれています。

《略して観心を述べる、5、》
●第5章 観心の意味.p18

G240p
問うていうのには、
一念三千の法門の出処が摩詞止観の第五に説かれているということを既に聞いて了解しましたが
観心の意義はどうでしょうか。

答えていうのには、
観心とは自己の心を観察して、自己の生命に具わっている十方界を見る事です。
このことを観心というのです。
たとえば他人の眼・耳・鼻・舌・身・意(こころ)の六根を見ることはできますが、
自分自身の六根をみることができなければ、自分自身に具わっている六根を知りません。

明らかな鏡に向かったとき始めて自分の六根を見ることができるように、
たとえ爾前の諸経の中に、処処に六道ならびに四聖を説いているといっても、
法華経ならびに天台大師の述べられた摩詞止観等の明らかな鏡を見なければ
自身の生命に具わっている十界・百界・千如・一念三千を知ることは出来ないのです。

《広く観心を述べる、6、7、》
●第6章 十界互具の文を引く.p20

問うていうのには、
十界互具・一念三千を説く法華経はどのような文があり、
天台の釈にはどのような釈があるのでしょうか。

答えていうのには、法華経第一の巻の方便品に
「衆生の生命の中にある仏の智慧を開かせたいと思う」等とあります。
これは総じて九界の衆生すべてに仏界が具わっていることをあらわしています。
寿量品に
「このように私が成仏してよりこのかた、はなはだ大いに久遠である。
その寿命は無量阿僧祇劫(むりょうあそぎこう)を経ており、常住不滅である。
諸々の善男子よ・私が本(もと)菩薩の道を修行して成就した所の寿命は、
今なお未だ尽きてはいない。
未来もまたその寿命は五百塵点劫(ごひゃくじんでんごう)の数に倍するのである」
等と説かれています。
この経文は仏界に九界が具わっていることをあらわしています。

提婆達多品(だいばだったほん)に、
「提婆達多は、天王如来となる」等とあります。
これは謗法の罪によって地獄へ堕ちた提婆達多すら仏界を具えていることを示しており、
地獄界に仏界が具っていることをあらわしています。

陀羅尼品(だらにほん)には
「十人の羅刹女(らせつにょ)の第一を藍婆といい、(中略)
十羅刹女たちよ、 よく妙法蓮華経をたもった者を守る者は、その福ははかりしれない」等と説かれています。
これは餓鬼界に十界が具わっていることをあらわしています。

捏婆達多品には 「竜女が、等正覚を成じた」と説かれています。
竜女は畜生であるから、これは畜生界に十界が具わっていることをあらわしています。

法師品には
「婆稚阿修羅王(ばじあしゅらおう)が、法華経の一偈一句を聞いて随喜の心を起こすならば
阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得る」等とあり、
これは修羅界に十界が具わっていることを示しています。

方便品に
「若し人が仏を供養する為に、形像を建立するならばこの人は必ず仏道を成就する」等とあります。
これは人界に十界が具わっていることを示しています。

譬喩品に
「大梵天王等の諸天子は、我等も亦舎利弗のように必ず成仏するであろう」等とあり、
これは天界に十界が具わっていることを示しています。

方便品に 「舎利弗は華光如来となる」等とあり、
これは声聞界に十界が具わっていることを示しています。

同じく方便品に、
「縁覚を求める比丘・比丘尼等が、仏に合掌し敬う心を以て具足の道を聞きたいと願った」等とあり、
具足の道とは、一念三千の妙法蓮華経であって
すなわちこれは縁覚界に十界を具えていることを示しています。

神力品に
「地涌千界の大菩薩等は、真実に清浄な大法を得たいと願った」等とあり、
真実に清浄な大法とは事の一念三千の南無妙法蓮華経であって、
これは、即ち菩薩界に十界が具わっていることを示しています。

寿量品には
「或(あるい)は己身(こしん)を説き或は他身(たしん)を説き、或は己身を示し或は他身を示し、
或は己事を示し或は他事を示す」等と説いています。
即ち仏界に十界が具わっていることを示しています。

●第7章 難信難解を示す.p24

問うていうのには、
自分や他人の面にあらわれた六根は見ることが出来ます。
他人や自身の生命に具わっているという十界は、いまだ見た事がありません。
どうしてこのことを信じることができるでしょうか。

答えていうのには、法華経法師品には
「信じ難く解し難し」と説かれ、
同じく宝塔品には、
六難九易も挙げて法華経の難信難解が説かれています。

また、天台大師は「法華文句」に
「法華経は迹門・本門二門ともにその説はことごとく昔に説いた教えと反しているので
信じ難く理解し難いのである。」
と述べ、

G241p
また章安大師は「観心論疏(かんじんろんしょ)」に、
「仏はこの法華経をもって大事となしているのである。どうして理解し易いわけがあろうか」
等といい。

伝教大師は「法華秀句(ほっけしゅうく)」に、
「この法華経は最も信じ難く理解し難いのである。
なぜなら、衆生の意に随って説いた随他意の爾前経と異なって
仏が悟りの真実をそのままに説いた隋自意(ずいじい)の教えであるから」等といっています。

そもそも釈尊の生存中、釈尊の教化をうけた衆生の機根は、過去に下種をうけて宿習が厚いうえ、
釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界(じゆせんがい)の大菩薩・文殊菩薩・弥勒菩薩等が、
法華経をたすけて諫暁したのに、それでもなお信じない者がありました。
即ち、五千人の増上慢が席を去り、
多くの人界、天界の衆生が他の国土へ移されました。
まして仏の入滅後の正法・像法時代はますます難信難解であり、
さらに末法の初めは、なおさら難信難解です。
もしあなたがたやすく信じられるなら、それは正法ではないといってもいいでしょう。

《一念の心に十界がそなわることを明かす、8、9、10、》
●第8章 自身の心に具わる六道.p26

問うていうには、
法華経の文、ならびに天台大師や章安大師らの解釈については疑いありません。
ただし十界互具の説は、火を水であるといい、墨を白いといっている様なものです。
たとえ仏の説いた教えであっても信じられません。

今、しばしば他人の顔を見てみますと、ただ人界ばかりで他の九界は見られません。
自分の顔もまた同じです。
どうして十界を具えていると信じられるでしょうか。

答えていうには、
しばしば他人の顔を見てみますと、ある時は平らかに、ある時は貪りの相をあらわし、
ある時は癡(おろ)かさをあらわし、ある時は諂曲(てんごく)です。
瞋(いか)るのは地獄、貪るのは餓鬼、癡かは畜生、諂曲なのは修羅、喜ぶのは天、平らかなのは人です。

このように他人の顔の色法には六道がすべて具わっています。
四聖は冥伏していて現れないけれども、くわしく探し求めれば必ず具わっているのです。

●第9章 自身の心に具わる三乗.p29

問うていうには、
六道については、明確にではないまでも、ほぼ、その説明を聞いて具えているように思います。
しかし、四聖はまったく見えないのはどうしてでしょうか。

答えていうには、
前には人界に六道が具わっていることを疑っていました。
そこで、しいて一つ一つの相似した例をあげて説明したのです。
四聖もまたこれと同じでしょう。
こころみに道理をつけくわえて、万分の一でもこれを述べてみましょう。

すなわち世間の生滅変化の姿は眼前にあります。
これを無常と見ているのですから、どうして人界に二乗界がないといえるでしょうか。
またまったく他をかえりみることのない悪人も、やはり妻子に対しては慈愛の心をもっています。
これは人界に具わっている菩薩界の一分です。
ただ仏界ばかりはあらわれにくいのです。
しかし、すでに九界を具えていることをもって、仏界のあることを信じ、疑ってはなりません。

法華経方便品の文に人界を説いて、
「衆生の生命の中にある仏の智慧を聞かせたいとおもう」とあり、
涅槃経に、
「大乗を学ぶ者は肉眼であったとしても、それは仏眼となづける」等とあります。

末法の凡夫が人間として生まれ、法華経(御本尊)を信ずるのは、人界に仏界を具えているからです。

●第10章 凡夫の心に具わる仏界.p32

問うていうには、
十界互具についての仏の言葉は明確になりました。
しかし、私達の劣等な心に仏法界を具えているということは、とても信ずることが出来ません。
いま、もしこのことを信じないなら、必ず一闡提(いっせんだい)となるでしょう。
願わくは、大慈悲をおこしてこれを信じられるようにし、
阿鼻地獄へ堕ちて苦しむことから救って下さい。

G242p
答えていうには、
あなたはすでに法華経方便品の「唯一大事因縁」の経文を見聞していながらこれを信じないのだから、
釈尊よりはるかに劣る、
仏滅後に正法をたもって人々のよりどころとなった四依の菩薩や末法の理即の凡夫である私達が、
どうしてあなたの不信を救うことができるでしょうか。

そうではあるけれど、試みに述べてみましょう。
というのは、釈尊にお会いし教化されながら悟ることのできなかった者が、
阿難らによって得道した者があったからです。

そもそも衆生の機根には二種類があります。
一には仏に直接お会いし、法華経によって得道した者、
二には仏にはお会いしなかったけれども、
法華経によって得道した者です。

そのうえ仏教以前の時代に、中国の道士やインドのバラモン外道のなかには、
儒教や四韋陀(しいだ)などの教えをもって縁となし、正しい悟りの境涯に入った者がありました。

また、すぐれた機根の菩薩や凡夫たちのなかには、
華厳・方等・般若など種々の大乗経を聞いた縁によって、
三千塵点劫の昔に大通智勝仏より、
また五百塵点劫の昔に久遠実成の釈尊より法華経の下種をうけたことを
悟った者がたくさんいました。
たとえば独覚の人が、飛び散る花や落ちる葉などを見て悟るようなものです。
これを教化の得道というのです。

過去世に法華経の下種、結縁がない者で、
権教や小乗経に執着する者は、たとえ法華経に会いたてまつっても
小乗経・権経の考え方から出ることができません。
自分の考えをもって正義とするから、かえって法華経をあるいは小乗経と同じだといい、
あるいは華厳経や大日経と同じだといい、
あるいはこれらの経々より劣っているといって法華経を下すのです。
このように主張している諸師は儒教や外道の賢人・聖人よりも劣っている者です。
これらのことは、しばらくおいておきましょう。

十界互具の説を立てることは、石の中に火があり、木の中に花があるというように信じ難いけれども、
縁にあって火や花があらわれる人々はこれを信じます。

人界に仏界を具えていることは、水の中に火があり、
火の中に水があるというように最もはなはだ信じ難いことです。
しかし、竜火は水から出現し、竜水は火から生まれるといわれています。
理解出来ないけれども現実の証拠があるからこれを信じてるのです。

すでにあなたは人界に地獄界から菩薩界までの八界が具わっていることを信じました。
それでは人界に仏界が具わっていることをどうして信じられないのでしょうか。
中国古代の堯王(ぎょうおう)や舜王(しゅんのう)らの聖人は、
すべての民に対して偏頗(へんぱ)無く平等な政治を行いました。
これは人界に具わった仏界の一分の顕れです。
不軽菩薩はみる人ごとに仏身を見ました。
悉達太子は人界から仏身を成就しました。
これらの現実の証拠をもって人界に仏界が具わっていることを信ずるべきです。

《受持に約して観心を明かす、11、12、13、14、15、16、》

●第11章 教主に関して尋ねる.p36

問うていうには、
教主釈尊は(これより以下は固く秘しなさい)見思惑・塵沙惑・無明惑の三惑を既に断じ尽くした仏です。
また十方世界の国主であり、一切の菩薩・二乗・人・天らの主君です。
釈尊が行かれるときは、大梵天王は左に、帝釈天王は右にお伴をし、
四衆や八部衆は後ろに従い、金剛神は前を導き、
八万法蔵といわれる一切経を演説して、一切衆生を得脱させるのです。
このように尊い仏陀を、どのようにして私達凡夫の己心に住せさせられましょうか。
また、法華経迹門および爾前経の意(こころ)をもって論じますと、
教主釈尊はインドに生まれて成道した始成正覚の仏です。
過去にどのような、成道の原因となる修行をしたのかと尋ねてみますと、
あるいは能施太子と生まれて布施を行じ、あるいは儒童菩薩と生まれて仏を供養し、
あるいは尸毘王(しびおう)と生まれて鳩にかわって身を鷹にあたえ、
あるいは薩〓王子(さったおうじ)と生まれて飢えた虎に我が身を施しました。
このような菩薩行をあるいは三祗(ぎ)百劫(こう)、あるいは動踰塵劫(どうゆじんこう)、
あるいは無量阿僧祗劫(むりょうあそぎこう)、あるいは初発心より正覚を成ずるまで、
あるいは三千塵点劫などという長遠のあいだ、
七万五千、七万六千、七万七千等といった多くの仏を供養し、
劫をつみ、修行を満足して、いまの教主釈尊となられたのです。

G243p
このような因位における諸々の修行が、
みな私達の己心に具えている菩薩界の功徳だというのでしょうか。

仏果の位からこれを論じますと、教主釈尊は始成正覚の仏です。
成道してより四十余年の間、蔵・通・別・円の四教を説くたびにそれぞれの仏身を示現し、
爾前経・法華経迹門・涅槃経等を演説して、一切衆生を利益されました。
いわゆる華蔵世界が説かれた華厳経説法の時は、十方台上の盧舎那仏(るしゃなぶつ)とあらわれ、
阿含経の時には、三十四の智慧心をもって見思の惑を断じ成道した仏としてあらわれ、
方等教や般若経の時には諸仏や千仏として、大日経・金剛頂経の時には千二百余尊としてあらわれ、
ならびに法華経迹門の宝塔品では同居土・方便土・実報土・寂光土の四土の仏の色身を示現し、
涅槃経の時には、会座の大衆があるいは一丈六尺の仏身と見たり、あるいは小身・大身とあらわれ、
あるいは盧舎那報身仏とみたり、あるいはその身が虚空と等しい法身仏と見ました。
このように四種の身を示され、さらに八十歳で御入滅の後は仏の身骨をとどめて、
正法・像法・末法の一切衆生を利益されたのです。
法華経本門の意をもってこれを疑ってみますと、教主釈尊は五百塵点劫以前の仏です。
因位もまた同じく長遠です。
それより以来、十方の世界に分身して出現され、一代聖教を演説し、無数の衆生を教化されました。
本門にいおいて明かされた弟子の数を迹門での弟子に比較してみますと、
一滴の水と大海と、一塵と大山とを比べるようなものです。
本門の一菩薩を迹門の十方世界の文殊・観音らの菩薩に並べると、
猿を帝釈天に比較してもその差はなお及びません。

その他、十方世界の、惑いを断じ悟りの果を証得した声聞・縁覚の二乗や、
梵天・帝釈・日天月天・四天の天界、
四輪王の人界、ないし無間大城の大火炎など、これらはみな我が一念に具わる十界なのでしょうか。
己身の三千だというのでしょうか。
たとえ仏の説だといっても、信じることは出来ません。

●第12章 経典・論書に関して尋ねる.p41

以上のことから考えてみますと、爾前の諸経のほうが真実であり、真実を説いています。

華厳経には
「究極の悟りは煩悩という虚妄を離れ、虚空のように清浄でけがれがない」とあり、

仁王経には
「煩悩・無明の根源、本性を窮めつくして、仏界の智慧だけがある」とあり、

金剛般若経には
「悟りにいたければ清浄の善だけがある」と説かれています。

馬鳴菩薩があらわした大乗起信論(だいじょうきしんろん)には
「如来蔵のなかには清浄の功徳だけがある」とあります。

天親菩薩があらわした成唯識論(じょうゆいしきろん)には
「煩悩を断じていない有漏(うろ)の人と、煩悩を断じても劣っている無漏の人とは、
金剛のごとき堅固な禅定が現れれば極円明純浄(ごくえんみょうじゅんじょう)の悟りに入ることが出来る。
余の有漏と劣の無漏は必要ないので、永久に捨てるのである。」等とあります。

爾前の経々と法華経とを比べ考えあわせますと、爾前の経々は数かぎりなく、
説かれた期間もはるかに法華経より長いのです。

ですから、このように互いに反する教えのうちどちらにつくかとなれば、爾前経につくべきです。

馬鳴菩薩は仏の一切の教説を付嘱し伝持した第十一番目の人で、仏の予言にしるされています。
天親菩薩は千部の論をつくった人で、仏の滅後に衆生のよりどころとなった四依の大菩薩です。
それに比べて、天台大師はインドからみれば辺ぴな地の小僧で、一つの論も述べていません。
だれが天台大師を信ずることが出来るでしょうか。

そのうえ、たとえ多いほうの爾前経を捨て少ないほうの法華経につくとしても、
十界互具・一念三千について法華経の文が明らかであれば、少しは、よりどころとなるでしょうが、
法華経のなかのどこに十界互具・百界千如・一念三千を説いた明らかな証文があるのでしょうか。
したがって法華経を開いてみますと、方便品に
「諸法の中の悪を断ずる」等とあり、九界の悪を断ずるところに仏界があるとされています。

G244p
天親菩薩の法華論、堅慧菩薩(けんねぼさつ)の「宝性論」にも、十界互具は説かれておらず、
中国南三北七の諸々の大人師、また日本の七宗の末師のなかにも十界互具の義はありません。
ただ天台一人の間違った考えであり、それを伝教一人が誤り伝えたのです。

ゆえに中国華厳宗第四祖の清涼国師は「天台の誤りである」といい、

中国華厳経の慧苑法師は「三蔵は大乗教・小乗教に通ずるものであるにもかかわらず
天台は小乗教を三蔵と名づけ、
誤り混乱させている」等といっています。

了洪は「天台ひとり、いまだ華厳の真意を理解していない」等といい、

日本の法相宗の得一は「つたないかな智公(天台大師のこと)よ、なんじはいったいだれの弟子か。
三寸にも足らない凡夫の舌で、広く長い仏の舌をもって説かれた三時教説をそしるとは」
等といっています。

また真言宗の弘法大師は弁顕密(べんけんみつ)ニ経論で、
「中国の人師たちはきそって六波羅蜜経の醍醐を盗んで、それぞれ自宗派を醍醐の宗と名づけている」
等といっています。

このように、一念三千の法門は、釈尊一代の権教・実経にもその名称はなく、
正法時代に衆生のよりどころとなった四依の諸論師もその義を著書に載せていません。
像法時代の中国や日本の人師もその義を用いていません。

どうしてこれを信じることが出来るでしょうか。

●第13章 経典・論書に関する難問に答える.p45

答えていうには、
この非難はもっとも厳しいものです。
ただし、爾前(にぜん)の諸経と法華経の違いは、経文にその根源があり明らかです。
すなわち釈尊自身、爾前経は未顕真実(みけんしんじつ)、
法華経は己顕真実(いけんしんじつ)と説かれ、
それを多宝・十方諸仏が証明されていること、
また教えの内容で、爾前経の二乗永不成仏(にじょうようふじょうぶつ)と法華経の二乗成仏、
爾前経の始成正覚と法華経の久遠実成などが、
爾前経と法華経のどちらを信ずべきかをはっきりあらわしています。

つぎに諸論師について、天台大師は摩訶止観に
「天親菩薩や竜樹菩薩は一念三千の法門を心の中でははっきりと知っていた。
しかし、外にたいしては時代に適した法門を立て、それぞれ権教によったのである。
ところが、その後の人師や学者はかたよって解釈し、それを学者達はいいかげんに信じて執着し、
ついには互いに争いを起こし、各派は仏教の一辺にとらわれて
おおいに正しい覚りの道に背いてしまったのである」等といっています。

章安大師は
「インドの大論師でさえなお天台大師に比べればその比ではない。
中国の人師など、わずらわしく語るまでもない。これは決して誇り自慢していっているのではなく、
天台の説く法門自体が優れているからである」等といっています。

天親・竜樹・馬鳴・堅慧らの正法時代の論師たちは一念三千の法門を心の中では知っていましたが、
未だ流布する時が来ていなかったので、これを述べなかったのでしょうか。
像法時代の人師たちにおいては天台大師以前はあるいは一念三千の宝の珠を内心にふくんで
外に説かなかった人もいれば、あるいはまったくこれを知らない人もいました。
天台以後の人師は、
あるいは最初は天台の説を批判しましたが、後に帰伏した者もありますし、
あるいは最後までこれを用いない者もありました。

ただし、先にあげた法華経方便品の
「諸法の中の悪を断ずる」の経文について説明しておかなければなりません。
この方便品の文は、法華経に爾前の経文をのせているのです。
法華経をよく見てみますと、そこにははっきりと十界互具が説かれています。
いわゆる方便品に「衆生の生命の中にある仏の智慧を聞かせたいと思う」等という文がそれです。

天台大師はこの経文をうけて摩訶止観に
「もし衆生の生命の中に仏の智慧がないならば、どうしてそれを聞かせたいと論じるであろうか。
まさに仏の智慧は衆生の生命の奥底にあることを知るべきである」といっています。

さらに章安大師は観心論疏(かんじんろんしょ)に
「衆生にもし仏の智慧がないならば、どうしてそれを聞き悟ることができるであろうか。
もし貧しい女性に自分の蔵が無いならば、どうして示したりできるであろうか」等といっています。

●第14章 教主の難問に答えるに当たり、まず難信難解を示す.p49

ただし、説明することが難しいのは、さきにあげた権教・迹門・本門の教主釈尊が
私たちの己心に住するとは考えられないとの非難です。
このことを仏は遮って、次のようにいわれています。

G245p
法華経法師品に
「已に説き(爾前経)、今説き(無量義経)、
当に説こうとする(涅槃経経々の中で法華経がもっとも信じ難く、理解し難い)」と。

また、その下に出てくる宝塔品の「六難九易」の文がこれです。

天台大師は法華文句に、
「迹門・本門の二門ともにその説はことごとく昔に説いた爾前経と反しているので信じ難く理解し難い。
戦場で鉾(ほこ)にぶつかっていくように難しいことである」といっています。

章安大師は観心論疏(かんじんろんしょ)に
「仏はこの法華経をもって大事としているのである。どうして理解しやすいわけがあろうか」と。

伝教大師は法華秀句に
「この法華経はもっとも信じ難く理解し難い。
なぜならば仏が悟りの真実をそのままに説いた随自意の教えであるから」
等といっています。

いったい仏の生きておられた時代より滅後千八百余年のあいだ、
インド・中国・日本の三国にわたってただ三人だけがはじめてこの正法を覚知しました。
すなわちインドの釈尊、中国の天台智者大師、日本の伝教大師であり、この三人は仏教における聖人です。

問うていうには、
それでは、インドの竜樹菩薩や天親菩薩たちはどうでしょうか。

答えていうには、
これらの聖人たちは、心の中に知っていましたが、外に向かっていわなかった人たちです。
あるいは迹門の一部の教義を述べて、本門と観心については説き示しませんでした。
あるいはこの時代は一念三千の法門を聞く衆生の機根はあっても
説くべき時代ではなかったのでしょうか。
あるいは機も時もともになかったのでしょうか。

天台、伝教以後は一念三千の法門を知った者が多くありました。
それは天台と伝教の二人の聖人の智慧を用いたからです。
すなわち、三論宗(さんろんしゅう)の嘉祥(かじょう)、
南三北七の各宗の百余人、華厳宗の法蔵や精涼たち、
法相宗の玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)や慈恩大師たち、
真言宗の善無畏(ぜんむい)三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵たち、律宗の道宣たちは、
はじめ天台に反逆していましたが、後には天台にまったく帰伏したのでした。

●第15章 教主に関する難問に答える.p52

さて十界互具を論難した最初の大難を遮っていうならば、無量義経に次のようにあります。
「たとえば国王と夫人とのあいだに新たに王子が生まれたとする。この王子が一日、二日、
あるいは七日と日がたち、または一ヶ月、二ヶ月、あるいは七ヶ月にいたり、
あるいは一歳、二歳、あるいは七歳になり、いまだ国の政治をとることはできないにしても、
すでに国民に尊び敬われ、多くの大王の子供を伴侶とするようになるであろう。
国王とその夫人の愛心はただただ重く、いつもこの王子と語るであろう。
なぜかというと、この王子は幼く小さいからである。
善男子よ、この経を信じ持つ者もまたそのとおりである。
諸仏という国王とこの経という夫人が和合してこの菩薩の子を生じた。
この菩薩はこの経を聞いて、その一句一偈を、あるいは一回転読し、あるいは二転、
あるいは億万恒河沙・無量無数転読するならば、いまだ真理の究極を体得することはできないにしても、
すでに一切の四部の衆や八部衆に尊び仰がれ、諸々の大菩薩を眷属とし、つねに諸仏に護念され、
ひたすら慈愛におおわれるであろう。それは新学だからである」等とあります。

普賢経には、
「この大乗経典(妙法蓮華経)は諸仏の宝蔵であり十方三世の諸仏の眼目である。
乃至この大乗経典こそ三世の諸の如来を出生する種である。
乃至汝はただひたすらこの大乗経典(妙法蓮華経)を受持し信行を励んで
仏種を断ち切ってはならない」等とあります。
また同じく普賢経に、
「この方等経(方正平等な教え=法華経のこと・妙法蓮華経)は諸仏の眼である。
諸仏はこの方等経を受持し行じた因によって肉眼の上に天眼・慧眼・法眼・仏眼の
五眼を具えることができた。
すなわち諸仏の智慧は完成したのである。
また仏の法身・報身・応身の三身は方等より生じる。
この経こそ真実絶対の仏法であり、涅槃界に印するのである。
このような海中(広大無辺の中)からよく
法・報・応の三種の仏の清浄な身を生じる。
この三種の身は人界・天界の衆生に利益をもたらす福田である」等とあります。

G246p
さて、釈迦如来一代五十年の説法の顕教と密教、大乗教と小乗教の二教、
華厳宗や真言宗等の諸宗がよりどころとしている経々を一つ一つ考えますと、
あるいは華厳経には十方蓮華台上の毘虞舎那仏が説かれ、
大集経には雲のように多く湧き集まった諸仏如来、
般若経には染浄の千仏が示現したと説かれ、
また大日経や金剛頂経などには千二百余尊が説かれていますが、
ただその近因近果を演説するだけで、久遠の本因本果をあらわしていません。
即身成仏を説いても、三千塵点劫、五百塵点劫の久遠の下種を顕さず、
化導がいつ始まっていつ終わったかについては、まったく述べられていません。
華厳経や大日経等は、一往見てみますと、別円、四蔵等に似て成仏できる教えのようですが、
再往これを考えますと、蔵通の二教に同じで、いまだ別教・円教にもおよびません。
一切の衆生に本来具わっている三種の成仏の因が説かれていませんから、
なにをもって成仏の種子とするのでしょうか。

ところが、善無畏三蔵等の新訳の訳者たちは中国に来入した際、天台の一念三千の法門を見聞して、
あるいは自分の持ってきた経々につけくわえたり、
あるいはインドから一念三千の法門を受持してきたなどと主張しました。

天台宗の学者等は、このように天台の法門を盗まれておりながら、
あるいは他宗でも天台と同じように一念三千を説き、自宗に同じであると喜び、
あるいは遠いインドを尊んで近くの中国に出現した天台をあなどり、
あるいは古い天台の法門を捨てて新しい宗派の教義を取り、
というように魔心・愚心が出てきたのです。
しかし、結局は、一念三千の仏種でなければ、有情の成仏も木像・画像の二象の本尊も有名無実です。

●第16章 受持即観心を明かす.p58

問うていうのには、先に人界所具の十界を論難しましたが、いまだその説明を開いていませんが、 どうなのでしょうか。

答えていうのには、
無量義経には、
「いまだ六波羅密の修行をしていなくても、六波羅密は自然に具わってくる」等とあり、
法華経方便品には、
「一切の功徳を具足する道を聞かせていただきたい」等とあり、
涅槃経には
「薩とは具足のことをいう」等とあります。
また竜樹菩薩は「大智度論」に「薩とは六である」等といっています。

中国・唐の均正があらわした「無依無得大乗四論玄義記」には、
「沙とは訳して六という。インドでは六をもって具足の義となすのである」といい、
吉蔵の「法華経硫」には、「沙とは翻訳して具足となす」といい、
天台大師は「法華玄義」に
「沙とは梵語である。中国語では妙と翻訳される」等といっています。

自分勝手に解釈をくわえますと、引用の本文の意をけがすようなものでしょう。
しかし、これらの文の意は、釈尊の因行と果徳の二法は、ことごとく妙法蓮華経の五字に
具わっており、私たちはこの妙法五字を受持すれば、
自然に釈尊の因果の功徳をゆずり与えられるのです。

法華経信解品で、
須菩提、迦旃延、迦葉、目〓連の四人の声聞が説法を聞いて悟りを理解して
「この上ない宝の聚りを、求めないのに自ずから得ることができた」等といっています。
これは私たちの自身の生命のなかの声聞界です。

法華経方便品には
「衆生を私(仏)と等しくして異なることがないようにしたいと、
私(仏)がその昔、願った事は、今はすでに満足した。
一切衆生を教下して、みな仏道に入らせることができたのである」と説かれています。

妙覚の悟りをそなえた釈尊は、
私たちの血肉です。
この仏の因果の功徳は、私たちの骨髄ではないでしょうか。

法華経宝塔品には、

G247p
「よくこの経法を守る者は、すなわち私(釈尊)および多宝仏を供養することになる。
またもろもろの集まり来られた化仏のそれぞれの世界を荘厳にし
輝かしく飾っている者を供養することになるのである」等とあります。
この釈迦・多宝十方の諸仏は私たちの仏界であり、妙法を護持する者は、
これらの仏の跡を受け継いで、その功徳を受得するのです。
法師品の
「わずかの間でもこれを聞くならば、すなわち阿耨多羅三藐三菩提を極め尽くす事が出来る」
というのはこれです。

寿量品には
「ところが、私が、じつに成仏してよりこのかた、無量無辺百千万億那由佗劫を
経ているのである」等と説かれています。
私たちの己心の仏界である釈尊は、久遠元初に顕れた三身であり、無始無終の古仏です。

同じく寿量品には、
「私が本菩薩の道を修行して成就したところの寿命は、
今なお未だ尽きてはいない。
未来もまたその寿命は上に説いた五百塵点劫の数に倍するのである」等と説かれています。
これは私たちの己心の菩薩等の九界です。
地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なのです。

たとえば大公は周の武王の臣下であり、
周公旦は幼稚の成王の眷属、武内の大臣は神功皇后の第一の臣であるとともに、
仁徳王子の臣下であったようなものです。
上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩等は、地涌の大菩薩の上主唱道の師たちは、
私たち己心の菩薩です。

妙楽大師は「止観輔行伝弘決」に、
「まさに知るべきである。正報である身も依報の国土も、私たち衆生の一念三千とあらわれる。
故に成仏の時にはこの本地難思境智の妙法にかなって、
一身も一念もともに法界に遍満するのである」と説いています。

《略して本尊を述べる17、18、19、》
●第17章 権教・法華経迹門の国土.p68

いったい、釈尊が寂滅(じゃくめつ)道場で成道して最初に説法した華厳経の華蔵世界から、
沙羅林(しゃらりん)で最後に涅槃経を説くまで一代五十余年の間、
華厳経に説くところの浄土である菩薩世界、
大日如来の住む密厳世界、法華経迹門宝塔品で清浄にされた三土、
涅槃経で説く四見の四土などは皆、
成(じょう)劫・住(じゅう)劫・壊(え)劫・空(くう)劫の四劫を繰り返す無常の国土の上に
変化して示された方便土・十報土であり、
寂光土たる阿弥陀仏の安養・薬師如来の浄瑠璃・大日如来の密厳世界等です。
能変の教主すなわちインド応誕の釈尊が涅槃に入ってしまうならば、
所変の諸仏もまた釈尊の入滅に従って滅尽します。
その国土もまた同様です。

●第18章 本門の国土.p69

いま法華経本門寿量品の説法で説かれた久遠の仏の常住する娑婆世界は
三災におかされることもなく 成・住・壊・空の四劫をぬけでた常住の浄土です。
仏はすでに過去にも滅することはなく、未来に生ずることもない常住不滅の仏であり、
仏の説法を聞いている所化たちも同体で、常住です。
これがすなわち、釈尊の声聞たちの己心の三千具足、三種の世間です。

法華経迹門十四品には、未だこのことを説いていません。
法華経の内においても、時期がまだ熟していなかったからでしょうか。

●第19章 本門の本尊を明かす.p71

この法華経本門の肝心である南無妙法蓮華経の五字については、
釈尊は文殊師利菩薩や薬王菩薩等らさえもこれを付嘱されませんでした。
ましてそれ以外の者に付嘱されるわけがありません。
ただ地涌千界の大菩薩を召し出して、
涌出品から嘱累品までの八品を説いてこれを付嘱されたのです。

その本門の肝心の南無妙法蓮華経の御本尊のありさまは、
久遠の本仏が常住される娑婆世界のうえに宝塔が空中にかかり、
その宝塔の中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏と多宝仏が並び、
釈尊の脇士には上行らの地涌の四菩薩が並び、
文殊菩薩や弥勒菩薩らの迹化の菩薩は本化四菩薩の眷属として末座に居り、
迹化の菩薩、多宝の国土の菩薩等大小の諸菩薩は、
万民が大地にひれふして殿上人をあおぎ見るようにして座し、
十方から集まりやってきた分身の諸仏は大地の上に座っておられます。
これは迹仏・迹土をあらわしているからです。

G248p
このような御本尊は釈尊の在世五十余年のあいだにはまったくありませんでした。
法華経八年のあいだにも涌出品から嘱累品までのただ八品に限られてあらわされました。

正法・像法二千年の間には、
小乗教の釈尊は迦葉と阿難を脇士とし、
権大乗教 及び涅槃経・法華経の迹門等の釈尊は
文殊菩薩や普賢菩薩らを脇士(きょうじ)としています。

これらの仏を、正法、像法時代に造り描きましたが、
未だ寿量品の文底に説かれた仏はあらわされていません。

この寿量品の仏は、末法の時代に入ってはじめてあらわされるべきだからでしょうか。

《広く本尊を述べる、20、21、22、23、24》
●第20章 末法に出現する本尊を尋ねる.p74

問うていうには、
正法・像法二千余年の間、正法時代の四依(しえ)の菩薩 及び 像法時代の人師たちは、
阿弥陀や大日などの仏や、
小乗教・権大乗教、爾前経・法華経迹門の釈尊らの寺塔は建立しましたが、
本門寿量品文底下種の大御本尊ならびに四大菩薩については、
インド・中国・日本の三国の王・臣ともに未だ崇重したことがない旨を申されました。

このことはほぼ聞きましたが、前代未聞のため耳目を驚かし、心を迷い惑わすばかりです。
重ねてこれについて説いていただきたい。
詳しく聞きたいと思います。

●第21章 一代三段・十巻三段を示す.p75

答えていうには、
法華経の一部八巻二十八品、それ以前には華厳より般若までの前四昧の爾前経、
それ以後には涅槃経などの、釈尊一代に説かれた諸経を総じてこれをまとめると、
ただ一経となります。

はじめ寂滅道場で説かれた華巌経から般若経に至るまでは序分です。
無量義経・法華経・普賢経の十巻は正宗分です。
涅槃経等は流通分です。

正宗分十巻の中においてまた序分・正宗分・流通分があります。
無量義経と法華経の序品第一は序分です。
方便品第二から分別功徳品第十七の半ばの十九行の偈に至るまでの十五品半は正宗分です。
分別功徳品の現在の四信の段から普賢経に至るまでの十一品半と一巻は流通分です。

●第22章 迹門熟益三段を示す.p78

また法華経と無量義経・普賢経の十巻においても迹門と本門の二経があり、
それぞれ序分・正宗分・流通分を具えています。

まず迹門においては無量義経と法華経の序品第一は序分です。
方便品第二から人記品第九に至るまでの八品は正宗分です。
法師品第十から安楽行品第十四に至るまでの五品は流通分です。

その迹門を説いた教主を論じますと、インドに生まれてはじめて成仏した仏です

本無今有の百界千如を説いて 巳説(巳に説き=爾前経)、今説(今説き=無量義経)、
当説(当に説く=涅槃経)に超過している、仏の悟りを自らの意のままに説いた法門であり、
信じがたく理解しがたい正法です。

その説法を開いた衆生の過去の結縁をたずねてみますと、
三千塵点劫の昔に釈尊が大通智勝仏の第十六王子として法華経を説いて、仏界の種を下し、
その時いらい調機調養して、
華厳経等の前四味をの法を助縁として大通の種子を覚知させ得脱させました。
しかし、これは仏の本意ではなく、ただ毒がたまたま効力を発したようなもので、
一部の者だけでした。

大多数の二乗・凡夫たちは前四味の法門を助縁とし、
しだいに法華経にいたって種子をあらわし、開顕を遂げて成仏した機根の人々です。

また釈尊の在世においてはじめて迹門の正宗分八品を開いた人界・天界の衆生らは、
あるいは一句一偈を聞いて下種とし、あるいは熟し、あるいは得脱しました。
あるいは普賢経・涅槃経にいたって得脱し、
あるいは正法・像法時代および末法の初めに、
小乗教や権大乗教等を助縁として法華経に入って得脱しました。
たとえていえば、釈尊在世に前四味の法門を聞いて助縁として得脱した者と同じです。

●第23章 本門脱益三段を示す.p81

G249p
また法華経の本門十四品の一経に序分・正宗分・流通分があります。
涌出品の前半分を序分とし、
涌出品の後半分と寿量晶の一品と分別功徳品の前半分の一品二半を正宗分とします。
その他は流通分です。

この本門の教主を論じますと、
インドに生れてはじめて成仏した釈尊ではありません。
説かれた法門もまた天と地のような違いがあります。
十界の生命が久遠常住であるうえに、国土世間があらわれています。
しかし、文底下種の独一本門に比べると、
本門と迹門の一念三千の相違はほとんど竹膜を隔てるようなわずかなものです。
また本迹ならびに前四味の爾前経、無量義経、涅槃経等の巳・今・当の三説はことごとく
衆生の機根に随って説いた教えで、信じやすく理解しやすく、
それに対し、
本門は 三説に超過した信じがたく理解しがたい、仏の悟りを自らの意のままに説いた法門です。

●第24章 文底下種三段の序分・正宗分を明かす.p83

また文底独一本門において序分・正宗分・流通分があります。
過去大通智勝仏の法華経から、
インドの釈尊が説いた華厳経をはじめ法華経迹門の十四品、
涅槃経などの一代五十余年の諸経も、
十方三世の諸仏が説いた無数の経々も
みな寿量品すなわち文底独一本門の南無妙法蓮華経の序分です。

文底下種の一品二半より他は、全て小乗教・邪教・未得道教であり、
真実を覆いかくしている覆相教です。

そのような小乗教・邪教を信ずる衆生の機根を論じますと、
徳が薄く、煩悩の垢は重く、幼稚で、貧しくていやしく、
孤児のように孤独で、禽や獣と同じです。
爾前経や法華経迹門に説かれた「即身成仏」するという円教でさえなお成仏の因とはなりません。

まして大日経などの諸々の小乗教で成仏できるわけがありません。

さらに華厳経や真言宗などの七宗のような論師や人師が立てた宗ではなおのことです。

与えてこれを論じても、
蔵・通・別の三教の範囲を出ず、
奮ってこれをいえば、蔵教や通教と同じです。
たとえその法理は非常に深いといっても、
未だ、いつ下種し、どのように熟し得脱させるかを論じていません。
「かえって小乗教の灰身滅智に同じであり、化導の始終がない」というのがこれです。

たとえば王女であっても畜生の種を懐妊すれば、その子は旃陀羅にも劣っているようなものです。

これらのことはしばらくおいてきましょう。

《文底下種三段の流通を明かす25、26、27、28、》
●第25章 法華経で成仏する対象の中心.p86

法華経の迹門十四品の正宗分である方便品第二から人記品第九までの八品は、
一往これを見てみますと、
釈尊在世の二乗の者をもって正とし、菩薩・凡夫をもって傍としています。
しかし、再往これを考えれば、
凡夫を正とし、仏滅後の正法・像法・末法を正となしています。
正・像・末の三つの時代の中でも末法の始めをもって正の中の正としています。

問うていうには、その証拠はどうですか。

答えていうには、法華経法師品に、
「しかもこの法華経は、信じ行ずるとき釈尊の現在でさえ なお怨(うら)みやねたみが多い。
まして、仏滅後においてはなおさらのことである」と説かれ、

宝塔品には、
「正法を長くこの世にとどめるのである。(中略)また、
法華経の会座に集まり来た分身の諸仏も、このことを知っておられたのである」
等と説かれています。

勧持品・安楽行品などにもこれについて説かれていますから見てみなさい。
迹門はこのように滅後末法のために説かれたのです。

法華経本門について論じますと、
一向に末法の初めをもって正機としています。

すなわち一往これを見るときは、久遠五百塵点劫に仏種を植えられたことをもって下種とし、
その後の大通智勝仏の時や前四味の爾前経、法華経迹門を熱とし、
本門にいたって等覚・妙覚の位に入らせ得脱させました。

しかし再往これを見ますと、本門は迹門とはまったく違って序分・正宗分・流通分ともに
末法の始めをもって詮としています。

釈尊在世の本門と末法の始めの本門は、
同じく一切衆生が即身成仏できる純円の教です。
ただし在世の本門は脱益であり、末法の始めの本門は下種益です。
在世の本門は一品二半であり、末法の本門はただ題目の五字です。

●第26章 本門序分の文を引く.p91

問うていうには、その証文はどうですか。

答えていうには、法華経湧出品に、
「その時に他方の国土からやって来た
ガンジス河の砂の数の八倍を超える多数の大菩薩たちが、大衆の中で

G250p
起立し合掌し礼をなして仏に申しあげるには、
『世尊よ、もし私たちに、仏の滅後においてこの娑婆世界にあっておおいに勤め精進して
法華経を護持(ごじ)し読誦(どくじゅ)し書写し供養することを許してくださるならば、
まさにこの姿婆世界において広く法華経を説くでしょう』と誓った。

その時に仏は、もろもろの大菩薩に告げられた、
『止めよ善男子よ、汝たちがこの法華経を護持することは用いない』」等と説かれています。

この経文はその前にその前に説かれた、法師品より安楽行品までの五品の経文と、
水と火のように相入れません。

宝塔品の末には、
「仏は大音声をもってひろく比丘・比丘尼・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)の四衆に告げられた。
『誰かよくこの娑婆国土において広く妙法華経を説く者はいないか』」と説かれています。

たとえ教主が一仏だけであっても、
滅後の弘教を このようにすすめられたならば、
薬王等の大菩薩、梵天・帝釈・日天・月天・四天等は このすすめを重んじるべきなのに、
さらに多宝仏、十方の諸仏も客仏として滅後の弘教を諫めさとされたのです。

もろもろの菩薩たちは、
この懇切丁寧な付属(ふぞく)を聞いて
「わが身命を借しまない」との誓いを立てたのです。
これらはひとえに仏の意に叶おうとするためです。

ところが一瞬の間に、仏の説く言葉は相違して、
ガンジス河の砂の数の八倍という多くの菩薩たちの、この娑婆世界での弘教を制止されたのです。
進退きわまってしまいました。
もはや凡夫の智恵ではおよびません。

天台智者大師は、
他方の菩薩の弘教を制止した理由と地涌の菩薩を召し出し付嘱した理由を、
それぞれ三つずつ、あわせて六つの解釈をつくって、これを説明されています。

結局、迹化・他方の大菩薩らに仏の内証の寿量品(文底下種の大御本尊)を
授与するわけにはいかないのです。

末法の初めは謗法の国であり悪機であるため、
迹化・他方の菩薩たちの弘教を制止して地涌千界の大菩薩を召し出し、
寿量品の肝心である妙法蓮華経の五字をもって、全世界の衆生に授与させられるのです。

また迹化の大衆は釈尊の初発心の弟子たちではないからです。

天台大師は「法華文句」に、
「地涌の菩薩は我が(釈尊の)弟子であるから、
まさに我が(釈尊の)法を弘めるべきである」といい、

妙楽は「法華文句記」に、
「子が父の法を弘めるならば世界の利益がある」と説き、
「法華文句輔正記」に道暹(どうせん)は、
「法が久成の法である故に、久成の人に付属したのである」等と説いています。

●第27章 本門正宗分の文を引く
①寿量品は滅後のための法門.p95

また弥勒菩薩が疑いをおこして答えを求めていったことが涌出品に次のように説かれています。
「私たちは、仏が衆生の機根にしたがって説かれる事、
仏の出るところの言葉は未だかつて嘘偽りがなく、
仏の智慧は一切ことごとく通達されていると信じますが、
もろもろの新しく発心する菩薩が仏の滅後において、
もし地涌の菩薩は釈尊の久遠以来の弟子であるとの言葉を聞いたならば、
あるいは信受しないで法を破るという罪業の因縁を起こすでしょう。
どうか世尊よ、願わくは滅後の人々の為に解説して私たちの疑いを取り除いていただきたい、
そうすれば未来世のもろもろの善男子もこのことを聞けば、また疑いを生じないでしょう」等と。

この経文の意は、
寿量品の法門は仏滅後の衆生のために請われて説かれたということです。

寿量品に、 「毒を飲んだ子供のなかで、あるいは本心を失ってしまった者と、
あるいは本心を失わなかった者があった。(中略)
本心を失わなかった者は、
父の良医が与えた良薬の色香ともすばらしいのを見てすぐにこれを飲んだところ、

G251p
病いはことごとく治ってしまった」等と説かれています。

久遠の昔に成仏の因となる種子を植えられ、大通智勝仏の十六王子に縁を結び、
そして、前四味である爾前経、法華経迹門にいたるまでの一切の菩薩・二乗・人天らが、
法華経本門で得脱したのがそれです。

寿量品には、
「その他の、本心を失ってしまった者は、自分たちの父が帰ってきたのを見て喜び、
病をなおしてほしいと尋ね求めるけれども、父がその薬を与えても飲もうとしない。
理由はどうしてかというと、
毒が深く食い入って本心を失っているために、このよき色香のある薬をよくないと思ったのである。(中略)
父はいま方便をもうけてこの薬を飲ませようと思い
『このよき良薬をいま留めてここにおいておく。
おまえたちはこの薬を取って飲みなさい。病気がなおらないといって心配することはない』
このように子供たちに教え終わって、また他の国へ行って、
使いを遣わして父は死んだと伝えたのである」等と説かれています。

また分別功徳品には、 「悪世未法の時」等と説かれています。

●第27章 本門正宗分の文を引く
②流通の人と法を明かす.p99

問うていうには、
寿量品の「使いを遣わして還って告ぐ」というのはどういう意味でしょうか。

答えていうには、
使いというのは四依の人々のことです。
四依には四種類があります。
第一に小乗の四依は多くは正法時代一千年のうち前半の五百年に出現しました。
第二に大乗の四依は多くは正法時代の後半の五百年に出現しました。
第三に迹門の四依は多くは像法時代一千年に出現し、少しは末法の初めに出現しました。
第四に本門の四依は地涌千界の大菩薩であり、末法の初めにかならず出現するのです。

いまの「遣使還告」とは地涌の菩薩の事であり、
「是好良薬」とは寿量品の肝要である名体宗用教の南無妙法蓮華経、
すなわち三大秘法の大御本尊です。

この良薬を仏はなお迹化の菩薩にさえ授与されませんでした。
まして他方の国土から来た他方の菩薩に授与されるはずはありません。

●第28章 本門の流通分の文を引く
 ①別付嘱の文を引く.p101

法華経神力品には、
「その時、千世界を砕いて塵にしたほどの、地から涌出した地涌の大菩薩たちは
みな仏の前において一心に合掌し、仏の顔をふり仰いで申し上げた、
『世尊よ、私たちは仏の滅後に、世尊の分身が存在する国土や
御入滅された国土においてまさに広く法華経を説くでしょう』」等とあります。

天台はこれについて「法華文句」に
「大地より涌出した本化地湧の菩薩だけが滅後末法の弘教の誓いを立てるのが見られた」等といい、
道暹は、 「付属とは、この経をただ大地より涌出した菩薩にだけ付属したことである。
なぜかというと、付嘱する法久成の法であるから、久成の人である地湧の菩薩に付属したのである」
等といっています。

文殊師利菩薩は東方の金色世界の不動仏の弟子であり、
観音菩薩は西方の世界の無量寿仏(阿弥陀仏)の弟子であり、
薬王菩薩は日月浄明徳仏の弟子であり、
普賢菩薩は宝威徳上王仏の弟子です。
これらの菩薩は、一往、釈尊の説法・教化を助けるために裟婆世界へ来たのであり、

また爾前・迹門の菩薩です。
妙法という本源の法をたもっている人でないので、
末法に法を弘める力がないのでしょう。

法華経神力品には、
「その時に世尊は、一切の大衆の前において大神力をあらわされた。
広く長い舌を出し、空高く梵天までとどかせ、(中略)
十方世界からやって来て、もろもろの宝樹の下の師子の座の上に座っている諸仏も、
また同じように広く長い舌を出された」等とあります。

G252p
釈尊一代に説かれた顕教・密教のニ道にも、
一切の大乗経・小乗経の中にも、釈迦仏と諸仏が並んで座り、
広長舌を梵天にまで届かせた という文は法華経以外にはありません。
阿弥陀経に仏の広長舌が三千大千世界を覆ったとありますが、これは有名無実です。

般若経には広長舌が三千大千世界を覆い、その舌から光を放って般若を説いたというのも、
まったく真実の証明ではありません。
これらの諸経はみな権教を兼ね帯びているために仏の久遠の本地を覆いかくしているからです。

法華経神力品では、
このように十種類の神力をあらわして地涌の菩薩に妙法の五字を付嘱した状況について
つぎのように説かれています。
「その時に仏は上行らの菩薩の大衆に告げられた。
『諸仏の神力はこのようにはかりしれないほど不可思議である。
もし、私がこの神力をもって無量無辺百千万億阿僧祗劫のあいだ、妙法五字を付嘱するために
この法華経の功徳を説こうとしても、なお説きつくすことはできない。
いまその肝要をいうならば、如来の一切の所有している法、如来の一切の自在の神力、
如来の一切の甚深の事が、みなこの経に宣べ示し説き顕されている』」と。

この経文について天台大師は「法華文句」に
「『その時に仏は上行らに告ぐ』より下は、第三の結要付嘱である」
等と述べています。

また伝教大師はこれを解釈して「法華秀句」に、
「また神力品には『肝要を取り上げていうならば、如来の一切の所有の法を(中略)
宣べ示し説き顕されている』と説かれている。
これによって明らかに知ることができる。
仏果の上の一切の所有の法、一切の自在の神カ、
一切の秘要の蔵、一切の甚深の事が 
みな法華経において宣べ示し説き顕されたのであるということを」等と述べています。

この十種の神力は、
妙法蓮華経の五字を上行・安立行・浄行・無辺行らの四大菩薩に授け与えるために顕されました。

前の五神力は釈尊の在世のため、
後の五神力は釈尊の滅後のためです。
しかしながら、一歩立ち入って論ずるならば、全て滅後のためなのです。

ですから、次の下の文に
「仏の入滅した後に、よくこの経をたもつであろうから、
諸仏はみな歓喜して無量の神力をあらわされたのである」(神力品)等とあります。

●第28章 本門の流通分の文を引く
②総付嘱・〓拾遺嘱を明かす.p106

神力品の次の嘱累品に、
「その時に釈迦牟尼仏は法座より起って大神力を顕された。
右の手で無数の菩薩の頭の頂をなで、(中略)今 汝たちに付属する」と説かれています。

すなわち地湧の菩薩を先頭にして迹化・他方の菩薩、
ないし梵天・帝釈・四天王等にこの経を付嘱されたのです。

この付属が終わると
「十方世界から集まり来ていた諸々の分身の諸仏を各々の本土へ還らせ、(中略)
多宝仏の塔も閉じてもとのようにしなさい」(嘱累品)等と説かれています。

つぎの薬王品以下の各品や涅槃経等は、
地湧の菩薩が去り終わった後、迹化や他方の菩薩たちのために重ねてこの経を付属されています。
いわゆる 〓拾遺嘱(くんじゅういぞく)」というのがこれです。


《地涌出現の時節を明かす、29、30、》
●第29章 地涌の菩薩が出現する時は悪世末法
①地涌の菩薩が出現する時を明かす.p108

疑っていうには、
正法・像法二千年のあいだに地涌千界の大菩薩が閻浮提に出現してこの経を
流通されるのでしょうか。

答えていうには、そうではありません。

驚いていうには、

G253p
法華経全体、および法華経本門は仏滅後を本として、まず地涌千界の大菩薩に授与されました。
どうして仏滅後の正法・像法時代に出現してこの経を弘通しないのでしょうか。

答えていうには、それについては宣べません。

重ねて問うていうには、どうして出現せず、弘通しないのでしょうか。

答えていうには、これを宜べることはしません。

また重ねて問うていうには、どうしてでしょうか。

答えていうのには、
これを宣べますと一切世間の人々は、威音王仏の末法の四衆のように、
増上慢をおこして地獄へ堕ちるでしょうし、
また我が弟子の中にもほぼこれを説いたならば、みな誹誘するでしょう。
だからただ黙止するのみです。

求めていうのには、
もし知っていて説かないなら、あなたは慳貪の罪におちるでしょう。

答えていうのには、
進退窮まってしまいました。
それでは試みにほぼこれを説いてみましょう。

法華経法師品には
「まして滅後の後はなおさら怨嫉が多い」と説かれ、

寿量品には「いま留めてここにおく」と説かれ、

分別功徳品には「悪世末法の時」とあり、

薬王品には
「後の五百歳すなわち末法の初めに全世界において広宣流布するであろう」
と説かれています。

さらに涅槃経に
「たとえば七人の子供があるとする。父母は子供に対して平等ではないということはないが、
しかし病気の子には心をひとえに重くかけるようなものである」等と説かれています。

以上の経文を明かな鏡として仏の真意を推しはかってみますと、
釈迦仏の出世は霊鷲山で八年にわたって法を聞いた人々のためではなく、
釈尊滅後の正法・像法・末法の人のためです。
また正法・像法二千年の間の人のためではなく、
末法の始めの私のような者のためです。

涅槃経に説かれる
「しかし病気の者には」というのは、釈尊滅後において法華経を謗る者を指すのです。

寿量品にいう「いま留めてここにおく」というのは、
「このすばらしい色香の薬をよくないと思う」(寿量品)という考えを指しているのです。

●第29章 地涌の菩薩が出現する時は悪世末法
②正法・像法時代の教・機根・時について検証.p112

地涌千界の大菩薩が正法・像法時代に出現しないのはつぎのような理由によるのです。

正法一千年あいだは小乗教・権大乗教が流布する時で、
人々は寿量文底下種の三大秘法を受持する機根ではなく、弘通する時でもなく、
四依の菩薩たちは小乗教・権大乗教をもって縁となし、
釈尊在世に仏種を植えられた衆生を得脱させたのです。
その時代に法華経を説いてもそしるばかりで、
過去に植えられた仏種が成長し調熟しつつあるのを破ってしまうでしょうから、
これを説かなかったのです。
たとえば釈尊在世において前四味の爾前経で化導された衆生のようなものです。

像法時代の中ごろから末にかけて、
観音菩薩は商岳大師として、
薬王菩薩は天台大師と示現して世に出現し、法華経迹門を面にし、
本門を裏として、百界千如、一念三千の法門の義を説き尽くしました。
しかし、
ただ理性として具えていることを論じただけで、
事行の南無妙法蓮華経の五字、
ならびに本門の本尊については 未だひろく外に向かって行ずることはありませんでした。
それは結局、円教を受け入れる機根は一分ありましたが、
円教の弘通される時ではなかったからです。

●第29章 地涌の菩薩が出現する時は悪世末法
③四菩薩の振る舞い.p114

いま末法の初めに入って、小乗教をもって大乗教を打ち、権教をもって実教を破り、
それは、東と西ともに方向を失い、天と地が逆になったような状態です。
正法・像法時代に正法を弘めた迹化の四依の菩薩はすでに隠れて世に存在しません。

諸天善神はそのような国を捨て去り、守護しません。
この時、地湧の菩薩が初めて世に出現し、
ただ妙法蓮華経の五字の良薬をもって幼稚の衆生に飲ませるのです。
「法華文句記」にいう
「正法をそしることによって悪におちたならば、かならずその因縁によって利益を得る」
というのがこの事です。

我が弟子たちはこのことをよく考えなさい。
地涌千界の菩薩は教主釈尊が初めて悟りを求める心をおこした時以来の弟子です。
しかし、釈尊が成道した寂滅道場にも来なかったし、沙羅双樹林において入滅された時にも
おとずれなかった。
これは不孝の罪というべきでしょう。

法華経迹門の十四品にも来ないで、
本門の薬王品第二十三以下の六品には座を立ってしまいました。

ただ本門の涌出品から嘱累品までの八品のあいだだけ来還したのです。

G254p
このような高貴の大菩薩が釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏にたいして
末法に弘通することを約束して妙法五字を受持したのです。
末法の初めに出現されないことがあるでしょうか。
まさに、
この上行らの四菩薩は、折伏を現ずる時には賢王となって愚王を責(せ)め、誡(いまし)め、
摂受を行ずる時は聖僧となって正法を持(たも)ち、広(ひろ)めるのです。

●第30章 仏の言を明かす
①地涌の菩薩出現の予言.p118

問うていうには、仏が未来を予言して記した文はどうでしょうか。

答えていうには、
法華経薬王品に
「後の五百歳に、全世界において広宣流布するであろう」と説かれています。

天台大師は「法華文句」に
「後の五百歳から、末法の未来永劫に妙法が流布するであろう」と記し、
これを解釈して妙薬は「法華文句記」に
「未法の初めは下種益が必ずある」と記しています。

さらに伝教大師は「守護国界章」に
「正法・像法時代はほとんど過ぎ終わって、末法が非常に近づいている」等と述べています。

「末法が非常に近づいている」との釈は伝教自身の時代は三大秘法の南無妙法蓮華経が
正しく流布される時ではない、という意味です。

伝教大師が日本に出現して、末法の始めを記していうには、
「時代をいうならば像法時代の終わり、末法の初めであり、
その地をたずねれば中国・唐国の東で靺羯(まかつ)国の西にあたり、
その時代の人をたずねれば、五濁の盛んな衆生であり、闘諍堅固の時代である。

法華経法師品に、
『如来の現在さえなお怨みやねたみが多い。まして滅度の後の末法にはなおさらである』
と説かれているが、この言葉はまことに深い理由がある」と。

●第30章 仏の予言を明かす
②本門の本尊の建立を明かす.p120

この伝教の釈に「闘諍の時なり」とありますが、
いまの自界叛逆と西海侵逼の二つの難を指すのです。
この時に地涌千界の大菩薩が出現して、
法華経本門の釈尊を脇士とする全世界第一の本尊が、この国に建立されるのです。

インド・中国にいまだこの本尊は建立されませんでした。
日本国の聖徳太子は、四天王寺を建立しましたが、
いまだこの本尊を建立する時が来ていなかったので、阿弥陀仏という多宝仏を本尊としました。

聖武天皇は東大寺を建立しましたが、その本尊は華厳経の教主の盧舎那仏で、
いまだ法華経の実義を顕わしていません。
伝教大師は ほぼ法華経の実義を顕し示しました。
しかし、時がいまだ来ていなかったので、東方の薬師如来を建立して本尊とし、
本門を四菩薩は顕していません。
それは、釈尊が地涌千界の菩薩のために、本門の本尊を譲り与えられたからです。

この地涌の菩薩は仏の命令をうけて近く大地の下にいます。
正法・像法時代にはいまだ出現していません。
末法にもまた出現されなかったならば大妄語の菩薩です。
釈迦・多宝・十方分身の三仏の未来記もまた泡沫と同じになってしまいます。

●第30章 仏の予言を明かす
③地涌の菩薩出現の先兆を明かす.p123

以上のことから考えてみますと、
正法・像法時代になかったような大地震・大彗星等がいま出てきています。
これらは金翅鳥・修羅・竜神などのおこす動変ではありません。
ひとえに四大菩薩を出現させるための兆しでしょう。

天台大師は「法華文句」に
「雨の激しさを見て、その雨を降らせている竜が大きいことを知り、
蓮の花の盛んなのを見て、その池の深いことを知る」等といい、

妙楽は「法華文句記」に
「智人は物事の起こりを知り、蛇は自らのことをよく知っている」等といっています。

天が晴れたならば地はおのずから明らかになります。
法華経を識(し)る者は 世間の法をもおのずから得る事でしょう。

《総結》
●第31章 総結.p125

一念三千を識(し)らない末法の衆生に対して、
仏(久遠元初の御本仏)は大慈悲を起こし、
妙法五字のうちに一念三千の珠をつつんで、
末代幼稚の者の首にかけさせてくださるのです。

G255p
本化地涌の四大菩薩が、
この幼稚の衆生を守護されることは、太公(たいこう)・周公(しゅうこう)が文王に仕えてよく助け、
商山の四晧(しこう)が恵帝(けいてい)に仕えたのと異ならないのです。
                            
文永十年四月二十五日

日蓮これを記す

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