スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

創立記念日,11.18にまつわるお話ショート版


我いま仏の 旨をうけ
 妙法流布の 大願を
高くかかげて 独り立つ
 味方は少なし 敵多し

誰をか頼りに 闘わん
 丈夫の心 猛けれど
広き戦野は 風叫ぶ
 捨つるは己が 命のみ

捨つる命は 惜しまねど
 旗持つ若人 何処にか
富士の高嶺を 知らざるか
 競うて来たれ 速やかに

sakura01.jpg



≪ナレーションA≫ 時は、昭和5年1930年11月18日。
初代会長・牧口常三郎先生の30年に及ぶ研究・思索・実践の結晶として「創価 教育学 体系 第一巻」が発刊されました。

そうです。本日は創価学会の創立記念日・11.18のお話であります。

≪ナレーションB≫ 時は流れて、昭和18年1943年6月。学会の幹部は総本山に登山を命ぜられ、なんと、「学会も『神札』を受けるように」と、話されたのであります。

≪牧口常三郎≫  承服(しょうふく)いたしかねます。神札は、絶対に受けません。

≪ナレーションB≫ 牧口会長は、こう言い切って、総本山を、後にしたのであります。

≪牧口常三郎≫ 私が嘆くのは、一宗(いっしゅう)が滅びることではない。一国が眼前でみすみす滅び去ることだ。宗祖日蓮大聖人の悲しみを私はひたすら恐れるのだ。

今こそ国家諫暁(かんぎょう)の秋(とき)ではないか。
宗門は、いったい、何を恐れているのだろう?
戸田君、君はどう考える?

≪戸田城聖≫ 先生、戸田は命をかけて戦います。
何がどうなろうと、戸田は、どこまでも先生の、お供をさせていただきます。

≪ナレーションB≫ 牧口は、一、二度うなずいて、はじめてニッコリと笑いかけた。
そして、この日から十日とたたぬうちに、二人は逮捕されたのである。

権力の弾圧に恐れをなした宗門は、あわてて創価学会の総本山への登山を禁止し、信徒除名処分としたのです。

逮捕されてから一年四ヶ月。
昭和19年11月18日。牧口会長は東京拘置所で逝去したのであった。
奇(く)しくも、創価教育学体系の出版から、ちょうど14年の歳月が、流れていたのであります。

≪ナレーションA≫ それから一年、昭和20年11月18日。牧口会長の一周忌が営まれることになった。
集まったのは、親族のほかに、わずかに二十数名の門下の弟子であった。

≪戸田城聖≫ 忘れもしない今年一月八日、私は取り調べの判事(はんじ)から、突然「牧口は死んだよ」と聞かされたのであります。
私は独房(どくぼう)に帰って、ただ涙にかきくれました。

この世に、これほどの悲しみがあろうとは、思いもかけないことでありました。

先生は、死して、獄門(ごくもん)を出られた。
不肖(ふしょう)の弟子の私は、生きて獄門を出た。私がなにを、なさねば、ならぬかは、それは自明(じめい)の理であります。

話に聞いた地湧(じゆ)の菩薩は、どこにいるのでもない。実に、われわれなのであります。
私は、この自覚に立って、今、はっきりと叫ぶものであります。

広宣流布は、誰がやらなくても、この戸田が必ずいたします。

先生―先生の真(しん)の弟子として、立派に妙法流布にこの身を捧(ささ)げ、先生のもとにまいります。今日よりは、安らかにお休みになってください。

≪ナレーションA≫ 法要の帰り道、戸田は未来への決意を心に秘めて、自作の詩を、一人、静かに歌ったのであります。

≪同志の歌≫(ゆっくりと朗読)

我(われ)いま仏の 旨(むね)をうけ
 妙法流布(るふ)の 大願を
高くかかげて 独(ひと)り立つ
 味方は少なし 敵多し

誰(だれ)をか頼(たよ)りに 闘(たたか)わん
 丈夫(じょうぶ)の心 猛(たけ)けれど
広き戦野(せんや)は 風叫(さけ)ぶ
 捨(す)つるは己(おの)が 命のみ

捨つる命は 惜(お)しまねど
 旗(はた)持つ若人(わこうど) 何処(いずこ)にか
富士の高嶺(たかね)を 知らざるか
 競(きそ)うて来たれ 速(すみ)やかに

≪ナレーションB≫ 
本日は、小説「人間革命」第1巻「一人立つ」の章、などから、『創立記念日,11.18にまつわるお話』を、黎明地区のオール スター キャストで、お送りいたしました。

以上で寸劇人間革命のコーナーを終わります。



この寸劇人間革命を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

この寸劇人間革命の分量はおおよそ、20文字×100行です。

原稿印刷用に、空白行の少ないテキストデータを準備いたしました。
ぜひ、座談会でご活用ください。

この11.18をテーマにした寸劇人間革命はいろいろと、作ってみました。

その寸劇を読んでみたい方は、ここをクリック してください。

こっちにもあります。ここをクリック してください。


最後に「創価学会の歴史と確信」(戸田城聖著1951)の一部を収録しました。
寸劇の内容を説明する際の参考にしてください。






≪ナレーションA≫ 時は、昭和5年1930年11月18日。初代会長・牧口常三郎先生の30年に及ぶ研究・思索・実践の結晶として「創価 教育学 体系 第一巻」が発刊されました。
そうです。本日は創価学会の創立記念日・11.18のお話であります。
≪ナレーションB≫ 時は流れて、昭和18年1943年6月。学会の幹部は総本山に登山を命ぜられ、なんと、「学会も『神札』を受けるように」と、話されたのであります。
≪牧口常三郎≫  承服(しょうふく)いたしかねます。神札は、絶対に受けません。
≪ナレーションB≫ 牧口会長は、こう言い切って、総本山を、後にしたのであります。
≪牧口常三郎≫ 私が嘆くのは、一宗(いっしゅう)が滅びることではない。一国が眼前でみすみす滅び去ることだ。宗祖日蓮大聖人の悲しみを私はひたすら恐れるのだ。
今こそ国家諫暁(かんぎょう)の秋(とき)ではないか。
宗門は、いったい、何を恐れているのだろう?
戸田君、君はどう考える?
≪戸田城聖≫ 先生、戸田は命をかけて戦います。
何がどうなろうと、戸田は、どこまでも先生の、お供をさせていただきます。
≪ナレーションB≫ 牧口は、一、二度うなずいて、はじめてニッコリと笑いかけた。
そして、この日から十日とたたぬうちに、二人は逮捕されたのである。
権力の弾圧に恐れをなした宗門は、あわてて創価学会の総本山への登山を禁止し、信徒除名処分としたのです。
逮捕されてから一年四ヶ月。
昭和19年11月18日。牧口会長は東京拘置所で逝去したのであった。
奇(く)しくも、創価教育学体系の出版から、ちょうど14年の歳月が、流れていたのであります。
≪ナレーションA≫ それから一年、昭和20年11月18日、牧口会長の一周忌が営まれることになった。
集まったのは、親族のほかに、わずかに二十数名の門下の弟子であった。
≪戸田城聖≫ 忘れもしない今年一月八日、私は取り調べの判事(はんじ)から、突然「牧口は死んだよ」と聞かされたのであります。
私は独房(どくぼう)に帰って、ただ涙にかきくれました。
この世に、これほどの悲しみがあろうとは、思いもかけないことでありました。
先生は、死して、獄門(ごくもん)を出られた。
不肖(ふしょう)の弟子の私は、生きて獄門を出た。私がなにを、なさねば、ならぬかは、それは自明(じめい)の理であります。
話に聞いた地湧(じゆ)の菩薩は、どこにいるのでもない。実に、われわれなのであります。
私は、この自覚に立って、今、はっきりと叫ぶものであります。
広宣流布は、誰がやらなくても、この戸田が必ずいたします。
先生―先生の真(しん)の弟子として、立派に妙法流布にこの身を捧(ささ)げ、先生のもとにまいります。今日よりは、安らかにお休みになってください。
≪ナレーションA≫ 法要の帰り道、戸田は未来への決意を心に秘めて、自作の詩を、一人、静かに歌ったのであります。

≪同志の歌≫(ゆっくりと朗読)

我(われ)いま仏の 旨(むね)をうけ
 妙法流布(るふ)の 大願を
高くかかげて 独(ひと)り立つ
 味方は少なし 敵多し

誰(だれ)をか頼(たよ)りに 闘(たたか)わん
 丈夫(じょうぶ)の心 猛(たけ)けれど
広き戦野(せんや)は 風叫(さけ)ぶ
 捨(す)つるは己(おの)が 命のみ

捨つる命は 惜(お)しまねど
 旗(はた)持つ若人(わこうど) 何処(いずこ)にか
富士の高嶺(たかね)を 知らざるか
 競(きそ)うて来たれ 速(すみ)やかに

≪ナレーションB≫ 
本日は、小説「人間革命」第1巻「一人立つ」の章、などから、『創立記念日,11.18にまつわるお話』を、黎明地区のオール スター キャストで、お送りいたしました。
以上で寸劇人間革命のコーナーを終わります。



最後に「創価学会の歴史と確信」(戸田城聖著1951)の一部を収録しました。
寸劇の内容を説明する際の参考にしてください。


「創価学会の歴史と確信」から一部抜粋

創価学会の歴史と確信(上)(大白蓮華16号 昭和二十六年七月十日)

創価学会が、初代会長牧口(まきぐち)常三郎(つねさぶろう)先生に率(ひき)いられて、大法(だいほう)弘通(ぐつう)のために立たれたときは、罰(ばち)ということを正宗信者が忘れていたときである。牧口先生は罰論をもって大法を弘通せんとし、内外にこれを説いて、あらゆる難にあったのである。罰論を説くのは、日蓮正宗の教義に背(そむ)くものとして攻撃した僧侶すらあったのである。
牧口先生は、敢然として法罰の恐ろしさ、法罰厳然たるを説いてゆずらずして、ご一生を終わったのである。
「御本尊様は偉大な力がおありになる。罰なくして大利益があるわけがない。子をしかる力のない父が、子に幸福を与えられない。御本尊様をじっと拝んでみよ。『若(も)し悩乱(のうらん)せん者は頭(こうべ)七分に破れん』との御本尊様のおおせが聞こえないか。御本尊様が罰をおおせではないか」とは先生の持論で、私も先生の持論は正しいと思う。これに反対する者は、大御本尊の威力を信じない者であり、これこそ、釈迦仏法のやさしい慈悲のすがたのみをあこがれる文上仏法のやからで、日蓮正宗の正流ではない。
私もかさねてこれをいうが、御本尊の向かって右の御かたらわに「若し悩乱せん者は頭七分に破れん」としたためられている。これが、罰論でなくてなんであろう。向かって左の御かたらわを拝せば「供養すること有らん者は福十号に過ぎん」と、これはご利益をくださるとの御おおせではないか。
利益と罰は、われわれ日常の真実の生活であり、価値生活の全体である。この尊いことを忘れておって、牧口先生がこれを説くや、おどろきあわてた連中のすがたは、いま思い出してもこっけいのきわみである。そして、いまごろになって、むかしから知っていたような顔をしている悪侶もあるのにはおどろくのである。今日にいたって、なお、これを思い出さない愚侶(ぐりょ)もいるのには、おどろくというより無知を悲しむものである。
聖人御難事に大聖人の御おおせにいわく、
「過去現在の末法の法華経の行者を軽賤(きょうせん)する王臣万民始めは事なきようにて終(つい)にはほろびざるは候はず」(御書全集1190ページ)と。
大法に背く者に厳然と罰ありとの御聖訓(せいくん)ではないか。だれが、これを否定いたしましょうぞ。否定することは謗法(ほうぼう)であり、悪人、愚人の証明となるではないか。
また、大聖人の御おおせには、
「大田の親昌(ちかまさ)・長崎次郎兵衛の尉(じょう)時綱(ときつな)・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるるか、罰は総罰・別罰・顕罰・冥(みょう)罰・四候、日本国の大疫病(えきびょう)と大けかち(飢渇)と どし(同士)う(討)ちと他国よりせめらるるは総ばち(罰)なり、やくびょう(疫病)は冥罰なり、大田等は現罰なり別ばちなり、各々獅子王の心を取り出だして・いかに人をどすともをづる事なかれ」(御書全集1190ページ)と。
牧口先生は、この御抄のお心を心として、おどしてもおじず、おどろかず、法罰を説いて内外の難をこうむったのである。
時あたかも、わが国は太平洋戦争に直面し、国をあげて修羅(しゅら)のちまたに突入したのである。牧口会長は、この大戦争の間に、強く大聖人の御精神を奉戴(ほうたい)して、国家の悪思想たる天照大神を拝むということに対立したのであった。
時の軍部は、蒙古(もうこ)襲来(しゅうらい)のとき、神風が天照大神によって吹いたという歴史にだまされていたのであった。国家が謗法(ほうぼう)の行為をなすことを知らず、大聖人の教えを聞こうとせず、語ろうともせず、かつ、御本仏大聖人の祈りによって神風が吹いたことは、知らなかったのである。米国はデューイの哲学により、日本の軍部は低級な邪義である神道論によって、一国の精神統一を図(はか)った。勝敗は物量だけの問題でなく、すでにこのことによって定まっていたのである。かれらが敗戦とともに、狂人的になることは、どうすることもできないことであった。
高級な仏教哲学は、敗戦すべきことを教えていたのであるが、そのたいせつな教理である大聖人の御遺文(いぶん)すら焼き捨てようとかかったのである。軍部の偉大な権力は狂人に刃物(はもの)で、民衆はおどされるままにふるえあがって、バカのように天照大神の神棚を作って拝んだのである。このとき、牧口会長は、天照大神の神札を拝むことは、正宗の精神に反すると、きびしく会員に命ぜられたのである。
日本の国は、軍部にひきずられて妙な考え方になっていた。国内が思想的に乱れるのを恐れ、宗教の統一を図ろうとくわだてた。天照大神を拝んで神風を吹かしてもらうと言い出したのである。天照大神を拝まないものは国賊(こくぞく)であり、反戦思想であるとしていた。日本始まって以来、初めて国をあげて天照大神への信心である。
 天照大神とて、法華経守護の神である。法華経に祈ってこそ天照大神も功力(くりき)をあらわすのである。しかるに、文底(もんてい)独一(どくいち)の法華経を拝まず、天照大神だけを祈るがゆえに、天照大神の札には魔が住んで、祈りは宿らず、一国を狂人としたのである。
 しかも、御開山日興上人の御遺文(いぶん)にいわく、「檀那(だんな)の社参物詣(ものもうで)を禁ず可(べ)し」(御書全集1617ページ)とおおせある。この精神にもとづいて牧口会長は、「国を救うは日蓮大聖人のご真意たる大御本尊の流布(るふ)以外はない。天照大神を祈って、なんで国を救えるものか」と強く強く言いだされたのである。
 当時、御本山においても、牧口会長の、宗祖および御開山のおきてに忠順に、どこまでも、一国も一家も個人も、大聖の教義に背けば罰があたるとの態度に恐れたのである。信者が忠順に神棚をまつらなければ、軍部からどんな迫害がくるかと、御本山すら恐れだしたようである。
 昭和十八年六月に学会の幹部は登山を命ぜられ、「神札」を一応は受けるように会員に命ずるようにしてはどうかと、二上人立ち合いのうえ渡辺慈海(じかい)師より申しわたされた。
 御開山上人の御遺文にいわく、
「時の貫首(かんず)為(た)りと雖(いえど)も仏法に相違して己義(こぎ)を構(かま)えば之(これ)を用う可からざる事」(御書全集1618ページ)
 この精神においてか、牧口会長は、神札は絶対に受けませんと申しあげて、下山したのであった。しこうして、その途中、私に述懐(じゅっかい)して言わるるには、
「一宗が滅びることではない、一国が滅びることを、嘆くのである。宗祖聖人のお悲しみを、恐れるのである。いまこそ、国家諫暁(かんぎょう)の時ではないか。なにを恐れているのか知らん」と。
 まことに大聖人の御金言は恐るべく、権力は恐るべきものではない。牧口会長の烈々たるこの気迫ありといえども、狂人の軍部は、ついに罪なくして罪人として、ただ天照大神をまつらぬという“とが”で、学会の幹部二十一名が投獄されたのである。このとき、信者一同のおどろき、あわてかた、御本山一統のあわてぶり、あとで聞くもおかしく、みるも恥ずかしきしだいであった。牧口、戸田の一門は登山を禁ぜられ、世をあげて国賊の家とののしられたのは、時とはいえ、こっけいなものである。
 また、投獄せられた者どもも、あわれであった。事業のつぶれる者、借金取りにせめられる者、収入の道なく食えなくなる者等続出して、あとに残った家族も、悲嘆にくれたのである。このゆえに、まず家族が退転しだした。疑いだした。これは確信なく、教学に暗いゆえであった。投獄せられた者も、だんだんと退転してきた。いくじのない者どもである。勇なく、信が弱く、大聖人を御本仏と知らぬ悲しさである。
 名誉ある法難にあい、御仏のおめがねにかないながら、名誉ある位置を自覚しない者どもは退転したのである。大幹部たる野島辰次、稲葉伊之助、寺坂陽三、有村勝次、木下鹿次をはじめ、二十一名のうち十九名まで退転したのである。
 会長牧口常三郎、理事長戸田城聖、理事矢島周平の三人だけが、ようやくその位置に踏みとどまったのである。いかに正法を信ずることは、難(かた)いものであろうか。会長牧口常三郎先生は、昭和十九年十一月十八日、この名誉の位置を誇りながら栄養失調のため、ついに牢死したのであった。
 私は牧口会長の死を知らなかった。昭和十八年の秋、警視庁で別れを告げたきり、たがいに三畳一間の独房に別れ別れの生活であったからである。二十歳の年より師弟の縁を結び、親子もすぎた深い仲である。
 毎日、独房のなかで、「私はまだ若い。先生は七十五歳でいらせられる。どうか、罪は私一人に集まって、先生は一日も早く帰られますように」と大御本尊に祈ったのである。
 牧口先生の先業(せんごう)の法華経誹謗(ひぼう)の罪は深く、仏勅のほどはきびしかったのでありましょう。昭和二十年一月八日、投獄以来一年有半に、「牧口は死んだよ」と、ただ一声を聞いたのであった。独房へ帰った私は、ただ涙に泣きぬれたのであった。
 ちょうど、牧口先生の亡くなったころ、私は二百万べんの題目も近くなって、不可思議の境涯を、御本仏の慈悲によって体得したのであった。その後、取り調べと唱題と、読めなかった法華経が読めるようになった法悦(ほうえつ)とで毎日暮らしたのであった。
 その取り調べにたいして、同志が、みな退転しつつあることを知ったのであった。歯をかみしめるようななさけなさ。心のなかからこみあげてくる大御本尊のありがたさ。私は一生の命を御仏にささげる決意をしたのであった。敗戦末期の様相は牢獄のなかまでひびいてくる。食えないで苦しんでいる妻子のすがたが目にうつる。私は、ただ大御本尊様を拝んで聞こえねど聞こえねばならぬ生命の力を知ったがゆえに、二千べんの唱題のあとには、おのおのに百ぺんの題目を回向(えこう)しつつ、さけんだのである。
「大御本尊様、私と妻と子との命を納受したまえ。妻や子よ、なんじらは国外の兵の銃剣にたおれるかもしれない。国外の兵に屈辱(くつじょく)されるかもしれない。しかし、妙法の信者戸田城聖の妻として、また子と名のり、縁ある者として、霊鷲山会(りょうじゅうせんえ)に詣(もう)でて、大聖人にお目通りせよ。かならず厚くおもてなしをうけるであろう」
 毎日、唱題と祈念と法悦の日はつづけられるとともに、不思議や、数馬判事の私を憎むこと、山より高く、海よりも深き実情であった。法罰は厳然として、彼は天台の一念三千の法門の取り調べになるや、重大な神経衰弱(すいじゃく)におちいり、十二月十八日より三月八日まで一行の調書もできず、裁判官を廃業してしまったのである。
 牧口先生をいじめ、軽蔑(けいべつ)し、私を憎み、あなどり、同志をうらぎらせた彼は、裁判官として死刑の宣告をうけたのである。その後の消息は知るよしもないが、阿弥陀(あみだ)教(きょう)の信者の立場で私ども同志を裁いた彼は、無間(むけん)地獄まちがいなしと信ずるものである。不思議は種々につづいたが、結局、七月三日に、私はふたたび娑婆(しゃば)へ解放されたのであった。
帰ったときの憤(いきどお)りは、御仏にあらずんば知るあたわざるものがあった。
創価学会のすがたはあとかたなく、目にうつる人々は御本尊を疑い、牧口先生を恨み、私を憎んでいるのである。
狂人的警察官、不良の官吏(かんり)、斎木という特高の巡査になぐられ、いじめられ、ついに死を覚悟して、取調べのすきをうかがって二階から飛び降りたほど苦しんだ稲場伊之助氏などは、四か年の刑をおそれて畜生界のすがたであった。
そのほかの幹部は、一人となく退転し、強く広宣流布を誓った自分ながら、空爆のあとの焼け野原に立って孤独を感ずるのみであった。いま、蘇生した矢島周平君すら、手のほどこすところなく、病(や)めるウサギのごとく穴居(けっきょ)しているのであった。
私は、まず大法流布に自重して時を待った。そしてまず、法華経の哲学を説いたのであった。これがまた大謗法(だいほうぼう)になることは、後(のち)において実証せられたのであるが、自分としては再建の第一歩であったのである。そのとき、まず、創価学会員のうち柏原ヤス、和泉美代夫人、矢島周平、原島宏治、小泉隆、辻武寿の諸氏が、昭和二十一年の二、三月ごろまでに駆けつけたのであった。
それ以後、日蓮正宗の教義および大御本尊の偉大な法力・仏力を再教育し、いかなる難に出あうとも、退転することなき強き信念を植えつけ、信心の正しきありかたを教え、折伏こそ大聖人の御意志であることを知らしめたのである。
昭和二十一年の秋には、創価学会の再建はひとまず緒(しょ)についたかたちとなったが、いまだ人材はそろわず、信力弱く、学力は低く、とうてい一国広宣流布の大旗は掲げられなかったのである。ゆえに、折伏行を第一義の訓練にはいり、初信者をただお寺へ案内するだけの弱い折伏のすがたであった。第四回の総会に私がいいましたごとくである。いま一度、そのときのことばを引用するが、いまだ大確信のこもったものでないことは、読者にはよくわかることと思う。

日蓮大聖人様から六百年余年、法燈連綿(ほうとうれんめん)と正しくつづいた宗教が日蓮正宗である。もっとも完全無欠な仏法が正宗なのである。この仏法こそ、私達を真に幸福にみちびいてくれる宗教であることを、私たちは日夜身をもって体験しているのである。
世界の文化がいくら発達しても、国と国とのもつ間柄(あいだがら)が道徳を無視して、実力と権力闘争の世界では、けっして人類の真の幸福はない。不幸にして原子爆弾による戦争が起こったならば、世界の民族は崩壊(ほうかい)の道をたどる以外にない。このときに日本国に厳然として存在している人類の破滅(はめつ)を阻止(そし)しうる偉大な宗教が、日蓮大聖人によって与えられているのであると確信する。
毎朝、御観念文に拝するごとく、主師親の三徳をそなえられていらっしゃる大聖人を、われわれごとき者が拝することのできるのは、真にもったいないしだいである。われわれは大聖人の家来(けらい)であり、子であり、弟子なのである。そして宇宙の仏様であらせられる大聖人の家来、子、弟子となれることは人生の大因縁(だいいんねん)なのである。しかも開示悟入(かいじごにゅう)の大聖人の因縁である。大聖人の御出世は、、われわれのごとき無知な悪人に大御本尊を拝ましてやるという一大因縁なのである。ゆえに、大聖人の教えに随順して、世に最高唯一の大御本尊様を子として、弟子として、家来として拝することは無上の大果報である。
ゆえに、世人に先立ってこの因縁を知りえたわれわれは、御本尊様の功徳を悩める衆生につたえる使命をもっている。われも拝み、人にも拝ませるようにつとめ、善(よ)きにつけ、悪(あ)しきにつけ、世の中がいかになろうとも、世界人類の幸福のために、自分も拝み、他にも拝ませなければならない。私たちは無知な人々をみちびく車屋である。迷っている人があれば、車に乗せて大御本尊様の御もとへ案内していくのが、学会の唯一(ゆいいつ)の使命である。宝の山にはいって宝をとるかとらないかは、その人の信心の結果であって、ただ宝の山たる大御本尊様へ案内するのがわれわれ学会の尊い使命なのである。
宗教によって名誉を欲するのではない。まして新興の宗教屋のごとき金もうけを目的とするもでないことなど、いまさら申しあげるまでもない。ただ目前のご利益をのぞみ、真の大聖人の功徳を知りえないならば、まことに不覚といわなければならない。
最近にいたって、百人にもおよぶ指導員ができて、ともに同志として広宣流布に邁進(まいしん)できることになったのは、まことによろこばしく思っているしだいである。

以上のように、学会活動は消極的であったことは、いなまれないのである。
しかるに、日本の国は滅びている。日本の民衆は、悩みに悩んでいる。学会は当然、立たなければならないのである。
学会再発足のとき、立正佼成会も同じく小さな教団として、やっと息をついていたのは、自分たちのよく知っているところである。しかるに、七か年の時を経過して、かれは大なる教団となって邪宗の臭気を世にばらまいている。大聖人の真の仏法を捧持して邪宗ののさばるにまかせているのは、だれの罪かと私は自問した。「これは創価学会を率(ひき)いるものの罪である」と自答せざるをえないのである。
また自分は、文底独一の教理を説いていると深く信じているが、教本には文上の法華経を用いている。
この二つの罪は、御本仏の許すべからざるものである。私は大難をうけたのである。立つべき秋(とき)に立たず、つくべき位置につかず、釈迦文上の法華経をもてあそぶ者として、大謗法(ほうぼう)の罪に私は問われたのである。ありがたや、死して無間地獄うたがいなき身が、御本尊の功徳はありがたく、現世に気づくことができたのである。
私は、悩みに悩みとおしたのである。理事長の位置を矢島周平氏にゆずり、敢然と悩みのなかに突入したのであった。「転重(てんじゅう)軽受(きょうじゅ)法門」のありがたさ、「兄弟抄」の三障四魔のおことばのありがたさに、泣きぬれたのであった。
兄弟抄の御おおせには、
「其(そ)の上摩訶止観(まかしかん)の第五の巻の一念三千は今一重立ち入たる法門ぞかし、此(こ)の法門を申すには必ず魔出来(しゅったい)すべし魔競(きそ)はずは正法と知るべからず、第五の巻に云(いわ)く『行解(ぎょうげ)既(すで)に勤めぬれば三障(しょう)四魔(ま)紛然(ふんぜん)として競い起る乃至(ないし)随(したが)う可(べか)らず畏(おそ)る可らず之(これ)に随えば将(まさ)に人をして悪道に向わしむ之を畏(おそ)れば正法を修することを妨(さまた)ぐ』等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹(つつし)んで習い伝えて未来の資糧とせよ」(御書全集1087ページ)と。
以上の二つの法門を身に読ましていただいた私は、このたびは路上において、「霊山(りょうぜん)一会(いちえ)の大衆儼然(げんねん)として未だ散らず」して、私の身の中に、永遠のすがたでましますことと、拝んだのであった。
 私は歓喜にもえたのである。私は証のありしだい敢然立つことを決意したのである。

戸田城聖全集第3巻(聖教新聞社、昭和58年2月11日)より引用しました。


創価学会の歴史と確信(下)(大白蓮華17号 昭和二十六年八月十日)

私は、創価学会の理事長を、学会創立以来つとめてきたのである。私と故会長とは、影の形に添(そ)うごとくで、私自身が生まれてきたのは、学会の理事長になるためのようであり、故牧口会長と生死をともにするためであったと考えられる。
 それであるのにもかかわらず、私は創価学会の会長になることは、ほんとうにいやでいやでならなかったのであった。先生に万一のことがあったとき、会長の位置が当然、私にくることをおそれたのである。
(中略)
 かかる二代会長の養成の失敗は、私自身以外に会長たりうる者がないためなのか、はたまた私自身が自覚せねばならぬ宿業(しゅくごう)のゆえか、またまた不思議を感ずる以外はないのである。昭和二十年、名誉の出獄の後、創価学会の再建運動にかかり、ついに今日にみるがごとき大幹部、および青年同志の集いとなったのであるが、私はいまだ会長たる自覚に立たず、理事長のイスにしがみつき、会長がどこからかあらわれぬかと、頼めぬ頼みを唯一の空頼(そらだの)みとしていたのであった。いくどとなく会長たるべく、和泉筆頭理事、柏原ヤス理事などよりすすめられたのであったが、私は固辞してうけなかったのは前述の理由であった。
なぜ、こんなに、私は会長たることをいやがったのであろうか。私自身、理解のできない境地であった。いまにしてこれを考えると、もっともなことであるとも思われる。創価学会の使命は、じつに重大であって、創価学会の誕生には深い深い意義があったのである。ゆえに、絶対の確信ある者でなければ、その位置にはつけないので、私にその確信なく、なんとなく恐れをいだいたものにちがいない。
 牧口会長のあの確信を想起せよ。絶対の確信に立たれていたではないか。あの太平洋戦争のころ、腰抜け坊主が国家に迎合しようとしているとき、一国の隆昌(りゅうしょう)のためには国家諌暁(かんぎょう)よりないとして、「日蓮正宗をつぶしても国家諌暁をなして日本民衆を救い、宗祖の志をつがなくてはならぬ」と厳然たる命令をくだされたことを思い出すなら、先生の確信のほどがしのばれるのである。
 いまの私は不肖(ふしょう)にして、いまだ絶対の確信はなしといえども、大聖人が御出現のおすがたをつくづく拝したてまつり、一大信心に立って、この愚鈍の身をただ御本尊に捧げたてまつるという一法のみによって、会長の位置につかんと決意したのである。この決意の根本は前に述べたごとく、深い大御本尊のご慈悲をうけたことによる以外に、なにもないのである。この決意をもらすや、理事長矢島周平氏はじめ和泉、森田、馬場、柏原、原島、小泉、辻などの幹部、および青年部諸氏の会長推戴(すいたい)の運動となって、五月三日、私は会長に就任したのであった。
 私は学会の総意を大聖人の御命令と確信し、矢島理事長の辞任とともに、会の組織をあらため、折伏の大行進の命を発したのである。
 ここにおいて、学会は発迹(ほっしゃく)顕本(けんぽん)したのである。顧(かえり)みれば、昭和十八年の春ごろから、故会長が、学会は「発迹顕本しなくてはならぬ」と口グセにおおせになっておられた。
 われわれは、学会が「発迹顕本」するということは、どんなことかと、迷ったのであった。故会長は、学会が発迹顕本しなくてはならんと、この発迹顕本の実事をあらわさないことは、われわれが悪いようにいうのであった。みなは私同様、ただとまどうだけで、どうすることもできなかった。
 昭和二十年七月、出獄の日を期して、私はまず故会長に、かく、こたえることができるようになったのであった。
「われわれの生命は永遠である。無始無終である。われわれは末法に七文字の法華経を流布(るふ)すべき大任をおびて、出現したことを自覚いたしました。この境地にまかせてわれわれの位を判ずるならば、われわれは地涌(じゆ)の菩薩(ぼさつ)であります」と。
 この自覚は会員諸氏のなかに浸透(しんとう)してきたのであったが、いまだ学会自体の発迹顕本とはいいえないので、ただ各人の自覚の問題に属することにすぎない。
 しかるに、こんどは学会総体に偉大な自覚が生じ、偉大なる確信に立って活動を開始し、次のごとく、牧口会長にこたえることができたのである。
 「教相面すなわち外用(げゆう)のすがたにおいては、われわれは地涌(じゆ)の菩薩(ぼさつ)であるが、その信心においては、日蓮大聖人の眷属(けんぞく)であり、末弟子(まつでし)である。三世十方の仏菩薩の前であろうと、地獄の底に暮らそうと、声高らかに大御本尊に七文字の法華経を読誦(どくじゅ)したてまつり、胸にかけたる大御本尊を唯一(ゆいいつ)の誇りとする。しこうして、日蓮大聖人のお教えを身をもってうけたまわり、忠順に自行(じぎょう)化他(けた)にわたる七文字の法華経を身をもって読みたてまつり、いっさいの邪教を破って、かならずや東洋への広宣流布の使徒として、私どもは、故会長の意志をついで、大御本尊の御前(おんまえ)において死なんのみであります」
 この確信が学会の中心思想で、いまや学会に瀰漫(びまん)しつつある。これこそ発迹顕本であるまいか。この確信に立ち、学会においては、広宣流布大願の「曼荼羅(まんだら)」を、六十四世水谷日昇上人にお願い申し上げ、法主(ほっす)上人におかせられては、学会の決意を嘉(よ)みせられて、広宣流布大願の大御本尊のお下げわたしをいただいたのである。
 七月十八日、入仏式をいとなみ、七月二十二日、学会全体の奉戴式(ほうたいしき)が九段一口坂の家政女学院の講堂に、法主上人、堀御隠尊(ごいんそん)猊下(げいか)、堀米尊能師(そんのうし)ほか数名の御尊師のご臨席をあおぎ、学会精鋭は
集いよって壮大にいとなまれたのである。
 発迹顕本せる学会は大聖人のお声のままに大大活動にはいったのであるが、前途の多難はまた覚悟(かくご)のうえであるが、われわれがいかに位が高いかを確信すれば、もののかずではないのである。すなわち、われら学会人の位は、大聖人より次のごとく評されている。
「此の人は但(ただ)四味三教の極位(ごくい)並びに爾前(にぜん)の円人に超過(ちょうか)するのみに非(あら)ず将(は)た又(また)真言等の諸宗の元祖・畏(い)・厳(ごん)・恩(おん)・蔵(ぞう)・宣(せん)・摩(ま)・導(どう)等に勝出(しょうしゅつ)すること百千万億倍なり、請(こ)う国中の諸人我が末弟等を軽(かろん)ずる事勿(なか)れ進んで過去を尋(たず)ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩(だいぼさつ)なり豈(あに)熈連(きれん)一恒(いちごう)の者に非(あら)ずや退(しりぞ)いて未来を論ずれば八十年の布施(ふせ)に超過(ちょうか)して五十の功徳(くどく)を備(そな)う可し天子の襁褓(むつき)に纒(まとわ)れ大竜の始めて生ずるが如(ごと)し蔑如(べつじょ)すること勿(なか)れ蔑如すること勿れ」(四信五品抄 御書全集342ページ)と。
この御真文(しんもん)を拝しえた学会人は、偉大な自覚に立ち、東洋への広宣流布を大願としたのである。
 しかも、立宗七百年を迎うるにあたり、一大決意のうえ、実践運動にとりかかった会員は勇気に満ちみち、一糸乱れざる統帥(とうすい)のもとに、厳たる組織のうえに、足並みそろえて大折伏に行進しだしたのである。創価学会のごとき団体が、過去七百年の間に、どこにあったであろうか。各理事、各部長の勇敢なる闘争心、つづく負けじ魂の各会員、講義に、折伏に、火の玉のごとき状態である。
 時は、まさに来(きた)れり。大折伏の時はまさに来れり。
一国広宣流布の時は、まさに来れり。いな、いな、東洋への流布の時が来たのである。
(中略)
 日興上人の御おおせには、「未(いま)だ広宣流布せざる間は身命(しんみょう)を捨て随力(ずいりき)弘通を致す可き事」(御書全集1618ページ)と。
されば日蓮大聖人の末弟(まってい)をもって任じ、かつ前述のごとく位高き位置にあることを自覚した大菩薩たちは、まず「本尊」の流布を、身命を捨ててなさなければならぬことは決定的である。
 一国に大御本尊が流布したなら、自然に当然の帰結として戒壇の建立ができるので、戒壇建立ばかり口にして折伏もせず、正法の流布に身命を捨てえない坊主は、じつに困ったものである。この考えにまかせて、学会人は身命を捧げての折伏行をなしていることは、申すまでもないことである。
 しこうして、広宣流布は日本一国のものでないことを、学会人は確信するので、全東洋へ大聖人の仏法は広宣流布することを信じてやまず、かつ、これにむかって、大闘争を、活動を開始したのである。
 この東洋への広宣流布は、御本仏を絶対に信じまいらせて、はじめて生ずるもので、一大信心のうえに立たなくては、たんなる空論とより聞こえないであろう。
 顕仏未来記(けんぶつみらいき)に、大聖人の御おおせには、
「仏法必ず東土の日本より出(い)づべきなり」(御書全集508ページ)と。
これは、大聖人の仏法が未来の仏法であるとの金言であらせられる。
 また、諌暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)にいわく、
「天竺(てんじく)国をば月氏(がっし)国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑(ふそう)国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相(そう)なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相(ずいそう)なり、月は光あきらかならず在世は但(ただ)八年なり、日は光明・月に勝(まさ)れり五五百歳の長き闇(やみ)を照(てら)すべき瑞相なり、」(御書全集588ページ)と。
 また顕仏未来記にいわく、
「但(ただ)し五天竺(てんじく)並びに漢土(かんど)等にも法華経の行者之(これ)有るか如何(いかん)、答えて云(いわ)く四天下(てんげ)の中に全(まった)く二の日無し四海の内豈(あに)両主有らんや、疑つて云く何を以て汝(なんじ)之を知る、答えて云く月は西より出でて東を照(てら)し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是(か)くの如(ごと)し正像(しょうぞう)には西より東に向い末法には東より西に往(ゆ)く」(御書全集508ページ)と。
以上の御抄に拝するがごとく、インドの仏教が東へ東へとわたったように、インド、中国へとわたるのである。今日末法に、大聖人の仏法が完全に日本に建立せられた以上は、この日本に建立せられた末法の仏法は、大聖人を御本仏とあおいで、朝鮮へ、中国へ、インドへと、西へむかって発展し、全東洋の民衆を救うので、創価学会は絶対にこれを信ずるとともに、この信念にむかって、活動を開始してきたのである。
全東洋へと大聖人の仏法の進出するときは、日本一国の広宣流布は問題でなく、かならず到達することで、戒壇の建立も、そのときは当然のこととして現出するもので、一国民衆の尊崇(そんすう)をうけるものであることはいうまでもない。
 わが学会は、かかるめでたきときに際会(さいかい)したのであるから、不自借身命(ふじしゃくしんみょう)の大願をたてて、ここに大折伏を強行するの一大確信に立ち、生きたよろこびを感じて、成仏(じょうぶつ)の道を直行するは、なんたる幸福であろうか。
 かかる大事のときなれば、四菩薩ご出現はまた絶対に疑うべきでなく、ご棟梁(とうりょう)として日目上人様がご出生か。仏智にあらずば、これを知るあたわずとはいえども、末の末の末弟たる学会員は、ご老齢の身をひっさげて大折伏の途上、お倒れあそばした日目上人のご命を命として、宗開両祖にむくいたてまつらんとしなければ、成仏はかないがたしと知らなければならない。
 されば御僧侶(ごそうりょ)を尊び、悪侶(あくりょ)はいましめ、悪坊主を破り、宗団を外敵より守って、僧俗一体たらんと願い、日蓮正宗教団を命がけで守らなくてはならぬ。願わくは御僧侶におかれては、学会のこの確信をめでられ、悪侶をのぞいて教団を清め、われわれ学会人の闘争の指揮をとって外敵を伏し、宗開両祖にむくいんことを、こいねがわれんことを。
 楠正成(くすのきまさしげ)が尽忠(じんちゅう)の志(こころざし)あるにかかわらず、愚昧(ぐまい)の大宮人(おおみやびと)藤原清忠(ふじわらのきよただ)あって湊河原(みなとがわら)に死出の旅路にたったことは、あまりに有名であるが、ただ願わくは賢明な僧侶あられて、創価学会の同志を湊河原に死なせず、藤原藤房、末房の賢慮(けんりょ)を用い、玉輦(ぎょくれん)を兵庫の道にむかえたてまつりし正成のよろこびをなさしめんことを切望するものである。
 この僧俗一致の立場にあって、愚迷は僧侶を尊び、僧侶は信者を愛し、たがいに嫉妬(しっと)することなく、大聖人のお教えを奉じ、遠くは東洋三国に、本尊の流布せられん日を、大御本尊に祈るものである。

戸田城聖全集第3巻(聖教新聞社、昭和58年2月11日)より引用しました。
(参照した戸田城聖全集第3巻には『藤原忠清(ふじわらのただきよ)あって湊河原(みなとがわら)に死出の旅路にたったことは、』とありましたが、藤原清忠が正しい名前ですので、修正しました。)
(学会員、学会人。二つの表現がありますが、原文のとおりに引用しました。)





関連記事

テーマ: 二次創作 | ジャンル: 小説・文学

コメント

コメントの投稿


 管理者にだけ表示を許可する

Page top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。