学会歌 「田原坂」にまつわるエピソード

その傷ついて帰った、我が子を匿(かくま)って、傷を癒(いや)してやる。
そして、立派に大きく育てて、天下を取るために、ふたたび世に、送り出そうとする。
その母の心境が、この歌だと考えてみてはどうかね。
婦人部のみんなも、子供を立派に育てて、広宣流布の庭に、送り出すんだよ。

婦人部のために作った寸劇人間革命です。
P1010582_2.jpg

≪ナレーション≫ それでは寸劇人間革命のコーナーです。

本日は、学会歌「田原坂 たばるざか」にまつわるエピソードであります。

≪婦人部説明≫はじめに、歌の意味を説明いたします。
(最後まで照れずにはっきりと読む)


 明治政府軍の大砲や、鉄砲が、雨が降る如く、薩摩(さつま)軍を攻撃してくる。
そんな、悲惨な戦場を「雨はふるふる」と表現しているのです。

「田原坂」とは、激戦となった、地名ですが、伝令となった、三宅伝八郎(みやけでんはちろう)が、必死の思いで、激戦の戦地を駆け抜ける様子を、「越すに越されぬ田原坂」と、歌っています。

つまり、どこまでも広宣流布の激戦を勝ち抜くのだという、その意気込みが、歌われているのであります。

「血刀」の一言で、この歌が悲惨極まりない戦場の歌であることを、リアルに表現しています。

「手綱」の一言で、この若き青年が、自由自在に馬を乗り回して、戦場を駆け抜ける様子が、心に浮かぶのです。

「馬上ゆたかな美少年」とは、イケメンのことではありません。
「馬上」とは、遠くを見渡せることから、リーダーシップ、すなわち指導力を意味します。
「美少年」とは、将来性に溢(あふ)れ、だれからも慕(した)われる、力ある、凛々(りり)しき青年を、意味します。

まさに、私の若いころに、そっくりであります。(笑う)

つまり「馬上ゆたかな美少年」とは、広宣流布のリーダーに成長しゆく、我が青年部のことなのであります。

明治政府軍を「蚤」と、表現しているわけですが、「天下取るまで」とは、広宣流布のことです。

広宣流布の大舞台で活躍するその日まで、決して、つまらぬ失敗で、身を滅ぼすな、との戒(いましめ)を「蚤にくわせてなるものか」と表現しているのです。

以上、長くなりましたが、いよいよ寸劇のスタートであります。


≪ナレーション≫ 時は、昭和33年・西暦1958年の2月11日は夕刻。

 戸田城聖の、病気回復の快気祝いと,誕生日祝いを兼ねた、祝宴(しゅくえん)が、行われたのであります。

戸田は、前年の昭和32年11月に病に倒れ、以来、闘病生活を送っていたのでありました。

戸田は、和服姿のくつろいだ装(よそお)いで部屋に入ってくるなり、「よお~!」と、一同に呼びかけたのであります。

≪戸田城聖≫ 私の闘病中は諸君らには、大変苦労をかけた。
その間の学会の運営は、なんらの支障もなく、ここにあらためて御礼申し上げたい。

私は会長就任以来7年になるが人生を振り返ってみると、7年ごとに難にあっていることになる。

昭和18年の弾圧による投獄、昭和25年の事業の問題、そして今回の病気です。

しかし今度の病気も打ち破ることができた。

かくなるうえは、もう7年、また会長として頑張るつもりだから、ひとつよろしく頼みます。

≪ナレーション≫ そして、乾杯、祝宴がはじまった。

健康を回復した元気な戸田の姿に、宴は喜びに溢(あふ)れた。
やがて、歓喜の歌が、相次ぎ披露されたのです。

婦人部は、皆で、「田原坂 たばるざか」を歌ったのであります。

≪ナレーション≫ 戸田は、一生懸命に歌っているその姿に目を細め、歌に合わせ、拳(こぶし)で軽くテーブルを、トントンと叩(たた)き、さも愉快そうに聴き入っていたのであります。

♪♪CD演奏・合唱♪♪

≪戸田城聖≫ みんな、この歌の意味を知っているかな

 これは、西南(せいなん)の役(えき)の時に伝令(でんれい)となった薩摩軍の一青年・三宅伝八郎(みやけでんはちろう)を歌ったものだと言われている。

西郷隆盛 率いる薩摩軍(さつまぐん)は官軍と熊本の田原坂で激戦となったが、近代的な装備を整(ととの)え、武器弾薬の豊富な官軍の前に、敗北を余儀(よぎ)なくされる。

そして、多くの青年や少年が、命を失ってしまう。

西郷という人物は、立派な面もあったが、結果的には、有能な若い命を散らせてしまった。

私はそれが気にくわんのだよ。

いよいよ敗北が決定的になった時、薩摩の本陣に敗北を伝えにいく伝令を、送ることになった。

それを命ぜられたのが、若干(じゃっかん)20歳の三宅伝八朗だった。

同志は次つぎと討ち死にしていった。

激戦に伝八郎も疲れ果てていた。

しかし、彼は最後の力を振り絞(しぼ)り、敵の囲いを抜けようとする。

死んでいった同志のためにも伝令の使命を果たし、かならず生き抜いて天下を取ろうと心に誓いながら。

その後、伝八郎がどうなったか知らないが、君たち青年部は、生きて生き抜いて、天下を取り、民衆の楽土を作るのだよ。

つまらぬ失敗で、身を滅ぼすようなことがあってはならんのだよ。


≪ナレーション≫ 戸田はそれから、合唱した婦人部たちを見て、言ったのであります。

≪戸田城聖≫ この歌には、また母の心が託(たく)されているように、私には思えるのだ。

男は戦場に行き、まだ、とても手放せないような、小さな子供まで、送り出さなければ、ならなかった。

その中には、戦いに出て行ったまま、帰ってこない子もいただろう。

あるいは傷ついて、帰って来た子供も、いたはずだ。

その傷ついて帰った、我が子を匿(かくま)って、傷を癒(いや)してやる。

そして、立派に大きく育てて、天下を取るために、ふたたび世に、送り出そうとする。

その母の心境が、この歌だと考えてみてはどうかね。

婦人部のみんなも、子供を立派に育てて、広宣流布の庭に、送り出すんだよ。

きっと、送り出すんだぞ。約束だよ。

≪ナレーション≫ 戸田の言葉には力がこもっていた。

そうです。

学会歌「田原坂」は「母の心」を歌ったものだったのであります。

そして、これが、婦人部に対する、最後の指導と、なりました。

3月16日の儀式の33日前、そして逝去の4月2日の、50日前の、お話であります。


≪ナレーション≫ *時は流れて、昭和56年1981年12月15日。

池田先生を迎えて、熊本文化会館の近くの公園に、1500人ものメンバーが集まりました。

「さあ、『田原坂』を、歌おう」池田先生の提案に、大歓声があがったのであります。

さあ皆さんで、もう一度歌いましょう。
 
♪♪CDに合わせて合唱♪♪ 拍手!!

≪ナレーション≫ あの日、その時、それは、雪の秋田指導の3週間前。

いかなる想いで、1500人の田原坂の合唱が行われたのでありましょうか。

それは、嫉妬(しっと)や讒言(ざんげん)による迫害を吹き飛ばす、反転攻勢、開始の歌声だったのであります。


 本日は、『小説人間革命第12巻「後継(こうけい)」の章』などから、学会歌「田原坂」のお話を、旭日地区の オール スター キャストで、お送りいたしました。


以上で寸劇人間革命のコーナーを、終わります。
    


*潮 2012.1月号.民衆こそ王者   

**反転攻勢 1979年会長勇退後、再び先生が広布の指揮を執り始めた こと




最後まで読んでくださってありがとうございます。

「きっと、送り出すんだぞ。約束だよ。」のセリフの中、(約束だよ)の部分は、自分が勝手に付け足したものです。原作にはありません。

蛇足だ。と思われた方には、大変申し訳なく思います。

この寸劇人間革命の分量は、おおよそ20文字×170行です。


参考のためのデータ。そして原稿印刷用の空白行の少ないテキストデータを準備しましたので、是非ご活用ください。

A4用紙、1枚に収まる、20文字×110行のものも準備しました。
こちらも、ご活用ください。



寸劇作成途中で使用したデータです。参考にしてください。

明治10年、西暦1877年、西郷隆盛の率いる薩摩軍と、これを迎え撃つ政府軍との間で死闘が繰り広げられた。
薩摩軍の敗北が決定的になった時、本陣に敗北を伝えに行く伝令となったのが、三宅伝八朗だった。
彼は、最後の力を振り絞り、使命を果たそうと激走する。
その青年を歌った歌である。

 明治政府軍の大砲や、鉄砲が、雨が降る如く、薩摩軍を攻撃してくる。
そんな、悲惨な戦場を「雨はふるふる」と表現しているのです。
「田原坂」とは、激戦となった、地名ですが、伝令となった、三宅伝八郎が、必死の思いで、激戦の戦地を駆け抜ける様子を、「越すに越されぬ田原坂」と、歌っています。
つまり、どこまでも広宣流布の激戦を勝ち抜くのだという、その意気込みが、歌われているのであります。

「血刀」の一言で、この歌が、悲惨極まりない戦場の歌であることを、リアルに表現しています。
「手綱」の一言で、この若き青年が、自由自在に馬を乗り回して、戦場を駆け抜ける様子が、心に浮かぶのです。
そして「血刀」の刀とは、誤った思想、誤った宗教を、破折する、言論・教学の力を意味し、「手綱」とは広宣流布をリードしゆく指導力を意味するのです。

「馬上」とは、遠くを見渡せることから、リーダシップー、すなわち指導力を意味します。
「美少年」とは、将来性に溢れ、だれからも慕われる、力ある、青年を意味します。
つまり「馬上ゆたかな美少年」とは、広宣流布のリーダーに成長しゆく使命を持った、我が青年部のことなのであります。

 明治政府軍を「蚤」と、表現しているわけですが、「天下取るまで」とは、広宣流布のことです。
広宣流布の大舞台で活躍するその日まで、決して、つまらぬ失敗で、身を滅ぼすな、との戒(いましめ)を「蚤にくわせてなるものか」と表現しているのです。

また「蚤」とは、日顕宗や顕正会のような邪宗教の意味もあり、それらからメンバーを守りぬく決意をも、歌っているのです。


田原坂

熊本県民謡

雨はふるふる 人馬はぬれる
越すにこされぬ 田原坂
右手に血刀 左手に手綱
馬上ゆたかな 美少年
天下取るまで 大事な身体
蚤にくわせて なるものか


田原坂(たばるざか)

熊本県民謡

雨はふるふる 人馬(じんば)はぬれる
越(こ)すにこされぬ 田原坂(たばるざか)
右手(めて)に血刀(ちがたな) 左手(ゆんで)に手綱(たずな)
馬上(ばじょう)ゆたかな 美少年(びしょうねん)
天下(てんか)取るまで 大事な身体(からだ)
蚤(のみ)にくわせて なるものか
蚤(のみ)にくわせて なるものか


田原坂は熊本県の地名でこの地にちなんだ民謡であります。

明治10年、西暦1877年、西郷隆盛の率いる薩摩軍が起こした反政府運動で、これを迎え撃つ政府軍との間で死闘が繰り広げられた。
この日本最後の内戦・西南戦争の最大の激戦地であり、その勝敗が決した地が田原坂であったのであります。

薩摩軍の敗北が決定的になった時、本陣に敗北を伝えに行く伝令となったのが、20歳の三宅伝八朗だった。
彼は、最後の力を振り絞り、使命を果たそうと激走する--。
この青年を歌った歌である。

学会では、草創以来、“広宣流布の激戦を勝ち抜く”との心意気をこめて、歌い継がれてきた。





原稿印刷用のテキストデータ・20文字×170行


≪ナレーション≫ それでは寸劇人間革命のコーナーです。
本日は、学会歌「田原坂 たばるざか」にまつわるエピソードであります。
≪婦人部説明≫はじめに、歌の意味を説明いたします。
(最後まで照れずにはっきりと読む)
 明治政府軍の大砲や、鉄砲が、雨が降る如く、薩摩(さつま)軍を攻撃してくる。
そんな、悲惨な戦場を「雨はふるふる」と表現しているのです。
「田原坂」とは、激戦となった、地名ですが、伝令となった、三宅伝八郎(みやけでんはちろう)が、必死の思いで、激戦の戦地を駆け抜ける様子を、「越すに越されぬ田原坂」と、歌っています。
つまり、どこまでも広宣流布の激戦を勝ち抜くのだという、その意気込みが、歌われているのであります。
「血刀」の一言で、この歌が悲惨極まりない戦場の歌であることを、リアルに表現しています。
「手綱」の一言で、この若き青年が、自由自在に馬を乗り回して、戦場を駆け抜ける様子が、心に浮かぶのです。
「馬上ゆたかな美少年」とは、イケメンのことではありません。「馬上」とは、遠くを見渡せることから、リーダーシップ、すなわち指導力を意味します。「美少年」とは、将来性に溢(あふ)れ、だれからも慕(した)われる、力ある、凛々(りり)しき青年を、意味します。まさに、私の若いころに、そっくりであります。(笑う)
つまり「馬上ゆたかな美少年」とは、広宣流布のリーダーに成長しゆく、我が青年部のことなのであります。
明治政府軍を「蚤」と、表現しているわけですが、「天下取るまで」とは、広宣流布のことです。広宣流布の大舞台で活躍するその日まで、決して、つまらぬ失敗で、身を滅ぼすな、との戒(いましめ)を「蚤にくわせてなるものか」と表現しているのです。
以上、長くなりましたが、いよいよ寸劇のスタートであります。

≪ナレーション≫ 時は、昭和33年・西暦1958年の2月11日は夕刻。
 戸田城聖の、病気回復の快気祝いと,誕生日祝いを兼ねた、祝宴(しゅくえん)が、行われたのであります。戸田は、前年の昭和32年11月に病に倒れ、以来、闘病生活を送っていたのでありました。
戸田は、和服姿のくつろいだ装(よそお)いで部屋に入ってくるなり、「よお~!」と、一同に呼びかけたのであります。
≪戸田城聖≫ 私の闘病中は諸君らには、大変苦労をかけた。
その間の学会の運営は、なんらの支障もなく、ここにあらためて御礼申し上げたい。
私は会長就任以来7年になるが人生を振り返ってみると、7年ごとに難にあっていることになる。昭和18年の弾圧による投獄、昭和25年の事業の問題、そして今回の病気です。
しかし今度の病気も打ち破ることができた。かくなるうえは、もう7年、また会長として頑張るつもりだから、ひとつよろしく頼みます。
≪ナレーション≫ そして、乾杯、祝宴がはじまった。
健康を回復した元気な戸田の姿に、宴は喜びに溢(あふ)れた。
やがて、歓喜の歌が、相次ぎ披露されたのです。婦人部は、皆で、「田原坂 たばるざか」を歌ったのであります。
≪ナレーション≫ 戸田は、一生懸命に歌っているその姿に目を細め、歌に合わせ、拳(こぶし)で軽くテーブルを、トントンと叩(たた)き、さも愉快そうに聴き入っていたのであります。
♪♪CD演奏・合唱♪♪

≪戸田城聖≫ みんな、この歌の意味を知っているかな
 これは、西南(せいなん)の役(えき)の時に伝令(でんれい)となった薩摩軍の一青年・三宅伝八郎(みやけでんはちろう)を歌ったものだと言われている。
西郷隆盛 率いる薩摩軍(さつまぐん)は官軍と熊本の田原坂で激戦となったが、近代的な装備を整(ととの)え、武器弾薬の豊富な官軍の前に、敗北を余儀(よぎ)なくされる。そして、多くの青年や少年が、命を失ってしまう。
西郷という人物は、立派な面もあったが、結果的には、有能な若い命を散らせてしまった。私はそれが気にくわんのだよ。
いよいよ敗北が決定的になった時、薩摩の本陣に敗北を伝えにいく伝令を、送ることになった。それを命ぜられたのが、若干(じゃっかん)20歳の三宅伝八朗だった。同志は次つぎと討ち死にしていった。激戦に伝八郎も疲れ果てていた。
しかし、彼は最後の力を振り絞(しぼ)り、敵の囲いを抜けようとする。死んでいった同志のためにも伝令の使命を果たし、かならず生き抜いて天下を取ろうと心に誓いながら。
その後、伝八郎がどうなったか知らないが、君たち青年部は、生きて生き抜いて、天下を取り、民衆の楽土を作るのだよ。つまらぬ失敗で、身を滅ぼすようなことがあってはならんのだよ。

≪ナレーション≫ 戸田はそれから、合唱した婦人部たちを見て、言ったのであります。
≪戸田城聖≫ この歌には、また母の心が託(たく)されているように、私には思えるのだ。
男は戦場に行き、まだ、とても手放せないような、小さな子供まで、送り出さなければ、ならなかった。
その中には、戦いに出て行ったまま、帰ってこない子もいただろう。あるいは傷ついて、帰って来た子供も、いたはずだ。その傷ついて帰った、我が子を匿(かくま)って、傷を癒(いや)してやる。
そして、立派に大きく育てて、天下を取るために、ふたたび世に、送り出そうとする。その母の心境が、この歌だと考えてみてはどうかね。
婦人部のみんなも、子供を立派に育てて、広宣流布の庭に、送り出すんだよ。きっと、送り出すんだぞ。約束だよ。
≪ナレーション≫ 戸田の言葉には力がこもっていた。
そうです。学会歌「田原坂」は「母の心」を歌ったものだったのであります。
そして、これが、婦人部に対する、最後の指導と、なりました。3月16日の儀式の33日前、そして逝去の4月2日の、50日前の、お話であります。
≪ナレーション≫ *時は流れて、昭和56年1981年12月15日。
池田先生を迎えて、熊本文化会館の近くの公園に、1500人ものメンバーが集まりました。
「さあ、『田原坂』を、歌おう」池田先生の提案に、大歓声があがったのであります。

さあ皆さんで、もう一度歌いましょう。
 ♪♪CDに合わせて合唱♪♪ 拍手!!

≪ナレーション≫ あの日、その時、それは、雪の秋田指導の3週間前。
いかなる想いで、1500人の田原坂の合唱が行われたのでありましょうか。
それは、嫉妬(しっと)や讒言(ざんげん)による迫害を吹き飛ばす、反転攻勢、開始の歌声だったのであります。
 本日は、『小説人間革命第12巻「後継(こうけい)」の章』などから、学会歌「田原坂」のお話を、旭日地区の オール スター キャストで、お送りいたしました。
以上で寸劇人間革命のコーナーを、終わります。
    

20文字×110行

≪ナレーションA≫ 時は、昭和33年・1958年の2月11日は夕刻。
戸田城聖の、病気回復の快気祝いと,誕生日祝いを兼ねた、祝宴(しゅくえん)が、行われたのであります。
戸田は、前年の昭和32年11月に病に倒れ、以来、闘病生活を送っていたのでありました。
戸田は、和服姿のくつろいだ装(よそお)いで部屋に入ってくるなり、「よお~!」と、一同に呼びかけたのであります。
≪戸田城聖≫  私は会長就任以来7年になるが人生を振り返ってみると、7年ごとに難にあっていることになる。
昭和18年の弾圧による投獄、昭和25年の事業の問題、そして今回の病気です。しかし今度の病気も打ち破ることができた。かくなるうえは、もう7年、また会長として頑張るつもりだからひとつよろしく頼みます。
≪ナレーションA≫ そして、乾杯、祝宴がはじまった。婦人部は、皆で、「田原坂 たばるざか」を歌ったのであります。
≪ナレーションB≫ 戸田は、一生懸命に歌っているその姿に目を細め、歌に合わせ、拳(こぶし)で軽くテーブルを、トントンと叩(たた)き、さも愉快そうに聴き入っていたのであります。

雨はふるふる 人馬(じんば)はぬれる
越(こ)すにこされぬ 田原坂(たばるざか)
右手(めて)に血刀(ちがたな)
左手(ゆんで)に手綱(たずな)
馬上(ばじょう)ゆたかな 美少年(びしょうねん)
天下(てんか)取るまで 大事な身体(からだ)
蚤(のみ)にくわせて なるものか
蚤(のみ)にくわせて なるものか

≪戸田城聖≫ これは、西南(せいなん)の役(えき)の時に伝令(でんれい)となった薩摩軍の一青年・三宅伝八郎(みやけでんはちろう)を歌ったものだと言われている。
西郷隆盛 率いる薩摩軍(さつまぐん)は官軍と熊本の田原坂で激戦となったが、近代的な装備を整(ととの)え、武器弾薬の豊富な官軍の前に、敗北を余儀(よぎ)なくされる。そして、多くの青年や少年が、命を失ってしまう。
いよいよ敗北が決定的になった時、薩摩の本陣に、伝令を、送ることになった。それを命ぜられたのが、若干(じゃっかん)20歳の三宅伝八朗だった。
同志は次つぎと討ち死にしていった。激戦に伝八郎も疲れ果てていた。
しかし、彼は最後の力を振り絞(しぼ)り、敵の囲いを抜けようとする。死んでいった同志のためにも伝令の使命を果たし、かならず生き抜いて天下を取ろうと心に誓いながら。
その後、伝八郎がどうなったか知らないが、君たち青年部は、生きて生き抜いて、天下を取り、民衆の楽土を作るのだよ。つまらぬ失敗で、身を滅ぼすようなことがあってはならんのだよ。
≪ナレーションB≫ 戸田はそれから、合唱した婦人部たちを見て、言ったのであります。
≪戸田城聖≫ この歌には、また母の心が託(たく)されているように、私には思えるのだ。
男は戦場に行き、まだ、とても手放せないような、小さな子供まで、送り出さなければ、ならなかった。
その中には、戦いに出て行ったまま、帰ってこない子もいただろう。あるいは傷ついて、帰って来た子供も、いたはずだ。
その傷ついて帰った、我が子を匿(かくま)って、傷を癒(いや)してやる。そして、立派に大きく育てて、天下を取るために、ふたたび世に、送り出そうとする。その母の心境が、この歌だと考えてみてはどうかね。
婦人部のみんなも、子供を立派に育てて、広宣流布の庭に、送り出すんだよ。
きっと、送り出すんだよ。約束だよ。
≪ナレーションB≫ 戸田の言葉には力がこもっていた。そうです。学会歌「田原坂」は「母の心」を歌ったものだったのであります。
そして、これが、婦人部に対する、最後の指導と、なりました。
3月16日の儀式の33日前、そして逝去の4月2日の、50日前の、お話であります。

≪ナレーションA≫ 時は流れて、昭和56年1981年12月15日。池田先生を迎えて、熊本文化会館の近くの公園に、1500人ものメンバーが集まりました。「さあ、『田原坂』を、歌おう」池田先生の提案に、大歓声があがったのであります。
 あの日、その時、それは雪の秋田指導の3週間前。
それは、嫉妬(しっと)や讒言(ざんげん)による迫害を吹き飛ばす、反転攻勢 開始の歌声だったのであります。
 本日は、『小説人間革命第12巻「後継(こうけい)」の章』などから、学会歌「田原坂」のお話を、    地区の オール スター キャストで、お送りいたしました。
以上で寸劇人間革命のコーナーを、終わります。


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テーマ: 二次創作 | ジャンル: 小説・文学

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