戸田先生の闘病

先生、ご無理をなさればお体にさわり、命にもかかわります。おやめください。

そんなことができるか!
……そうじゃないか。仏のお使いとして一度、決めたことがやめられるか。
俺は、死んでも行くぞ。
伸一、それがまことの信心ではないか。何を勘違いしているのだ。

……伸一、死んでも俺を、広島に行かせてくれ。
死んだら、あとはみんなで仲よくやってゆけ。
死なずに帰ったなら、新たな決意で新たな組織を創ろう。
あとは、すべて御仏意あるのみではないか。


あなたは信じないかもしれないが、人間の一念によって、病だって克服することができるんです。
まあ、見ていなさい。
3月の総本山の記念式典は、かならず私が指揮を執る。
それが私の最後の使命なんです。
あなたには、この戸田が、身をもって仏法の不可思議なことを教えましょう。

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≪ナレーション≫ それでは寸劇人間革命のコーナーです。
本日は、「戸田先生の闘病」と題しましてお送りいたします。昭和32年1957年11月のお話であります。

戸田は、わが身を顧みることなく、広宣流布に挺身してきた。戦時中の獄中生活でボロボロになった体を十分に癒す暇さえなく、学会の再建に着手し、無理に無理を重ねて、激動の時代を一気に駆け抜けてきたといってよい。

しかし、人々の多くは、彼が病に侵されていることに気づかなかった。

山本伸一は、戸田城聖の体調が、来る日も来る日も気がかりでならなかったのであります。

戸田は、11月20日に広島へ出発することになっていた。
しかし伸一は、戸田の深い疲労を思うと広島行きは一命にもかかわりかねないと、感じたのであります。

≪山本伸一≫ -明日の広島行きは、お止めしなければない。

≪ナレーション≫ めっきりやつれ、弱っている戸田を間近に見て、伸一の心は激しく痛んだ。
伸一は、床に座り、深々と頭を下げた。

≪山本伸一≫ 先生、広島行きは、この際、中止なさってください。お願いいたします。どうか、しばらくの間、ご休養なさってください。

≪戸田城聖≫ ……それはできぬ。行く。行かねばならんのだ。

≪山本伸一≫ 先生、ご無理をなさればお体にさわり、命にもかかわります。おやめください。

≪戸田城聖≫ そんなことができるか!

≪ナレーション≫ 戸田は声を張り上げて立ち上がり、伸一を睨(にら)みすえた。

≪戸田城聖≫ そんなことができるものか。……そうじゃないか。仏のお使いとして一度、決めたことがやめられるか。

俺は、死んでも行くぞ。伸一、それがまことの信心ではないか。何を勘違いしているのだ。

四千人の同志が待っている。
……伸一、死んでも俺を、広島に行かせてくれ。

死んだら、あとはみんなで仲よくやってゆけ。
死なずに帰ったなら、新たな決意で新たな組織を創ろう。
あとは、すべて御仏意あるのみではないか。

≪ナレーション≫ 戸田は生死を賭けていたのである。そうわかった時、伸一は号泣したい思いにかられたのであります。

一夜明けて、いよいよ広島行の二十日になった。
 戸田は、「さァ、行くか」といって立ち上がろうとして、ガクッと、膝(ひざ)から崩れるように倒れた。

 戸田は何度も何度も必死に、起き上がろうとした。妻の幾枝も彼の腕をとったが、それでも立ち上がることができなかった。

全身の極度な衰弱が、すでに彼の歩行を困難にしていたのである。

≪戸田城聖≫ だめか……

≪ナレーション≫ 眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せ、無念そうにこうつぶやくと、観念したように眼を閉じた。

主治医の矢部医師そして、消化器内科の権威であるN大医学部助教授の木田利治医師による、診察がはじまった。

診察をしてみると、腹水が認められ、黄疸(おうだん)を併発し、全身の衰弱が著しかった。
肝硬変症の疑いがあり、しかも、かなり重篤(じゅうとく)な状態にあることがわかったのである。

木田医師は入院を勧めたが、戸田はそれを硬く拒んだ。入院してしまえば広布の指揮は執れないと考えたからである。
 
絶対安静とされ、厳密な食事療法、それに新陳代謝の改善、肝臓庇護、解毒、肝細胞の再生修復のための薬物投与が行われた。
戸田は、彼の広布の行路を閉ざす病魔と戦っていたのであります。

≪二見医師≫ 学会員で医師の二見です。戸田先生のお見舞いに来ました。
戸田先生、お体の具合はいかがですか。

≪戸田城聖≫ 二見君、いまは75万世帯が達成されようという時だ。魔が競い起こるのは当然のことなのだよ。しかし、魔の中でも、こんどの病魔は小邪鬼の部類だ。これぐらいの魔に負けていたのでは広宣流布はとてもできんよ

≪二見医師≫ 先生、あまりお話になりますとお体にさわります。お見舞いの方との面会も、極力さし控えていただきたいと思います。ご病気を克服するうえで、いまがいちばん大切な時でございますから

≪戸田城聖≫ そう深刻な顔をするな。私は、命を延ばす方法を知っているから大丈夫だよ。1月の初登山には行くつもりでいるんだからな。

≪二見医師≫ エッ!。一月の初登山ですか。
ウーン??
木田先生からは、早くても4か月から半年の徹底的な治療と静養が必要だと、伺っています。いくらなんでも、ウーン……

≪ナレーション≫ 1月には登山するという戸田の言葉は、あまりにも性急であるといえた。
しかし、二見は、戸田の確信にあふれた言い方に言葉を失ったのであります。

≪木田医師≫ 木田医師です。
肝硬変症で腹水が出た場合は、自然消滅の可能性は極めて低いのです。それが12月10日ごろには、ほとんど自然消滅した。
これは驚異的な好転です。
正直なところ、奇跡であるとさえ思っています。
(向き直って)
戸田先生、数値もだいぶ正常値に近づいております。このまま静養を、お続けください。

≪戸田城聖≫ そうか。それは、ありがたい。
ところで、食欲がなかったにもかかわらず、お腹が張るのはどうしてですか。

≪木田医師≫ 食欲がなかったのは、肝臓の機能が十分に働いていないために、臓器に様々な影響を与え、消化器系全体の機能が障害されているからです。
また、腹水が溜まるのが肝硬変の症状のひとつですが、その圧迫によってお腹が張り、さらに、食欲も低下します。

≪戸田城聖≫ 肝硬変を治す、絶対確実な治療法というのはあるんですか

≪木田医師≫ 絶対確実という治療法は、現在のところありません。今は安静にし、食事療法をしておりますが、この病気は、患者自身の自然治癒力をどう助けるかが、大事なポイントといえます。

≪戸田城聖≫ そうすると、患者の生命力が決め手ということになりますな。

≪木田医師≫ 生命力? ……そう言ってもよいと思います。

≪戸田城聖≫ 生命力の問題となれば、私には絶対の確信がある。まァ、命を少し延ばすぐらいのことは、私にとっては造作のないことですよ。

≪木田医師≫ はァ? 

≪戸田城聖≫ 更賜寿命(きょうし じゅみょう)といってね、すでに定まっている人間の寿命をも延ばすことが出来るのが仏法の力なんです。

≪木田医師≫ はァ?ウーン。はい?

≪戸田城聖≫ 寿命を延ばすということを、医学的にはどう考えますかね。

≪木田医師≫ 老化という観点から見ますと、動脈硬化などが死を早めることにつながりますから、それらを予防することが寿命を延ばす道ではないかと思います。

≪戸田城聖≫ たしかに医学的には、予防ということが大事になるでしょうが、ふだんから、かなり健康に気をつかってきた人が予期せぬ病気や事故で、突然、早死にしてしまうこともある。

いわば宿命ですな。それをも転換していく方途を教えているのが仏法です。人間の一念の転換によって、自分の宿命のみならず、環境をも変えていく力が、まことの信仰なんですよ。

≪ナレーション≫ 戸田はそれから、来年3月に、総本山大石寺に大講堂が落成し、そこで記念の式典を行うことを述べた。そして、自分はそれまでに病気を治して、元気な姿で出席し、一か月にわたって総本山に滞在すると言い出した。

≪木田医師≫ はァ、3月ですか……。ちょっと、いくらなんでも、そんなに早くは、、、

≪ナレーション≫ このところ驚異的な回復ぶりを示しているとはいえ、重篤な肝硬変症である。木田は、医師としての経験から、まだまだながい静養が必要であると考えていた。
しかし、戸田は、確信に満ちた口調で言ったのであります。

≪戸田城聖≫ あなたは信じないかもしれないが、人間の一念によって、病だって克服することができるんです。まあ、見ていなさい。

3月の総本山の記念式典は、かならず私が指揮を執る。それが私の最後の使命なんです。あなたには、この戸田が、身をもって仏法の不可思議なことを教えましょう。

≪ナレーション≫ 戸田城聖の病状は、日を追って回復に向かっていった。
 この短時月での回復は、医師たちの予測をはるかに超えるものであり、奇跡的な回復ぶりといってよかった。医師たちは、ほっと安堵の息をつくとともに、戸田の生命力の強さに驚嘆せざるをえなかったのであります。

戸田城聖は、聖教新聞に『私の闘病80日』と題する手記を寄せたのであります。

≪戸田城聖≫ 「昭和26年、会長就任以来、まさに7年、振り返って考えるに、そのとき『75万世帯の折伏をなしえなければ私の墓は建てるな。骨は品川の沖に捨てよ』と弟子たちに命じたのであった。しかるに、大御本尊の御威光盛んにして、32年度にもうすでに75万世帯を突破し、比叡山の像法の講堂焼落をしり目に、法華本門の大講堂落慶を目の前にみるにいたった。

 愚人の名誉このうえなきものとしては、私はよろこぶとともに、三障四魔の出来かならずあるべしと、思わざるをえなかった。

はたせるかな、昨年の4月以来、これが病魔、死魔として、いくたびか、わが身に襲いかかった。
『きたな』と思ったので、東奔西走しつつ闘病生活に入ったが、俄然、11月20日、重大な病床となり、ついに立つあたわざる状態にいたった。

 どの医者も、もうだめだという表情である。しかし、いまだ広宣流布への途上にもついておらず、建築でいうならば、ようやく地ならしができた程度にすぎない。土台も、また柱もと考えていけば、この生命は、いま、みすみす捨てられないようである。

医者は『半年で事務がとれれば、上等な経過をたどったことになる』という。
私は医者に言った。『あなたは、医者としての最善の手を尽くして下さい。
私も少少、生命哲学を学ぶもの、生命を延ばすことは少々知っているはずであるから、私も最善を尽くす。よろしく頼む』と。

 心のなかでは、『この最悪な闘病は1か月、正月には初登山をし、3月の大講堂落慶総登山には、自ら総本山にいて、その総指揮をとる』と決めていたのである。

事実、正月には初登山を行い、総本山で、5日間を過ごした。
そして、幸いにも下山後、1月7日の医師の診断により、重症を警告されていた肝臓病の症状が、まったくなくなったことが明らかになったのである。

 昔、旅人が一里塚、一里塚と追うて旅をしたごとく、私も7年、7年と、七里塚を越えては、広宣流布の道へ進もうと思う。」

≪ナレーション≫ 肝硬変症からの危機を脱し、ひとまず病魔を乗り越えた戸田は、快気祝いを行うことを思いついた。
彼が病床に臥している間、懸命に頑張ってくれた首脳幹部を招いて、その労をねぎらいたかったのである。
戸田は、その日を、彼の58歳の誕生日にあたる2月11日とした。

その日、戸田は、和服姿のくつろいだ装(よそお)いで部屋に入ってくるなり、「よお~!」と、一同に呼びかけたのであります。

≪戸田城聖≫  私の闘病中は諸君らには、大変苦労をかけた。その間の学会の運営は、なんらの支障もなく、ここにあらためて御礼申し上げたい。

私は会長就任以来7年になるが人生を振り返ってみると、7年ごとに難にあっていることになる。

昭和18年の弾圧による投獄、昭和25年の事業の問題、そして今回の病気です。
しかし今度の病気も打ち破ることができた。
かくなるうえは、もう7年、また会長として頑張るつもりだからひとつよろしく頼みます。

 ≪ナレーション≫ 障魔の嵐は戸田という広宣流布の指導者を狙って、激しく吹き荒れていたといってよい。
彼は、それらを、ものの見事に跳ねのけ、いま高らかに凱歌の曲を奏でたのである。

厳しい冬は終わり、まばゆい陽光の春が、いよいよ訪れようとしていたのであります。

この2月11日が、3月16日の儀式の33日前、そして逝去の4月2日の、50日前でありますことは、皆様ご存知のとおりであります。

本日は、人間革命第12巻「憂愁」の章、さらに「後継」の章より、「戸田先生の闘病」と題しまして、黎明地区のオールスターキャストでお送りいたしました。

以上で寸劇人間革命のコーナーを終わります。



長い寸劇人間革命を、最後まで読んでいただきありがとうございます。
この寸劇人間革命の分量は、おおよそ、20文字×280行です。

長い寸劇ですので、短く(20文字×140行)作りなおしてみました。
その寸劇人間革命を読んでみたい方は、ここをクリック してください


実際に座談会で上演するためには、原稿の印刷が必要です。
空白行の少ない、テキストデータを準備しましたので、ご活用ください。

原作をかなりいじった作文になっています。
いじりすぎだ、と思われた方には、お詫び申し上げます。

寸劇のテキストデータの後に、人間革命12巻からの「私の闘病80日」の引用を載せました。
印刷用に空白行の少ないテキストデータを準備しました。

≪ナレーション≫ それでは寸劇人間革命のコーナーです。
本日は、「戸田先生の闘病」と題しましてお送りいたします。昭和32年1957年11月のお話であります。
戸田は、わが身を顧みることなく、広宣流布に挺身してきた。戦時中の獄中生活でボロボロになった体を十分に癒す暇さえなく、学会の再建に着手し、無理に無理を重ねて、激動の時代を一気に駆け抜けてきたといってよい。
しかし、人々の多くは、彼が病に侵されていることに気づかなかった。
山本伸一は、戸田城聖の体調が、来る日も来る日も気がかりでならなかったのであります。
戸田は、11月20日に広島へ出発することになっていた。
しかし伸一は、戸田の深い疲労を思うと広島行きは一命にもかかわりかねないと、感じたのであります。
≪山本伸一≫ -明日の広島行きは、お止めしなければない。
≪ナレーション≫ めっきりやつれ、弱っている戸田を間近に見て、伸一の心は激しく痛んだ。
伸一は、床に座り、深々と頭を下げた。
≪山本伸一≫ 先生、広島行きは、この際、中止なさってください。お願いいたします。どうか、しばらくの間、ご休養なさってください。
≪戸田城聖≫ ……それはできぬ。行く。行かねばならんのだ。
≪山本伸一≫ 先生、ご無理をなさればお体にさわり、命にもかかわります。おやめください。
≪戸田城聖≫ そんなことができるか!
≪ナレーション≫ 戸田は声を張り上げて立ち上がり、伸一を睨(にら)みすえた。
≪戸田城聖≫ そんなことができるものか。……そうじゃないか。仏のお使いとして一度、決めたことがやめられるか。
俺は、死んでも行くぞ。伸一、それがまことの信心ではないか。何を勘違いしているのだ。
四千人の同志が待っている。
……伸一、死んでも俺を、広島に行かせてくれ。
死んだら、あとはみんなで仲よくやってゆけ。
死なずに帰ったなら、新たな決意で新たな組織を創ろう。
あとは、すべて御仏意あるのみではないか。
≪ナレーション≫ 戸田は生死を賭けていたのである。そうわかった時、伸一は号泣したい思いにかられたのであります。
一夜明けて、いよいよ広島行の二十日になった。
 戸田は、「さァ、行くか」といって立ち上がろうとして、ガクッと、膝(ひざ)から崩れるように倒れた。
 戸田は何度も何度も必死に、起き上がろうとした。妻の幾枝も彼の腕をとったが、それでも立ち上がることができなかった。
全身の極度な衰弱が、すでに彼の歩行を困難にしていたのである。
≪戸田城聖≫ だめか……
≪ナレーション≫ 眉間に皺を寄せ、無念そうにこうつぶやくと、観念したように眼を閉じた。
主治医の矢部医師そして、消化器内科の権威であるN大医学部助教授の木田利治医師による、診察がはじまった。診察をしてみると、腹水が認められ、黄疸(おうだん)を併発し、全身の衰弱が著しかった。肝硬変症の疑いがあり、しかも、かなり重篤(じゅうとく)な状態にあることがわかったのである。
木田医師は入院を勧めたが、戸田はそれを硬く拒んだ。入院してしまえば広布の指揮は執れないと考えたからである。
 絶対安静とされ、厳密な食事療法、それに新陳代謝の改善、肝臓庇護、解毒、肝細胞の再生修復のための薬物投与が行われた。
戸田は、彼の広布の行路を閉ざす病魔と戦っていたのであります。
≪二見医師≫ 学会員で医師の二見です。戸田先生のお見舞いに来ました。
戸田先生、お体の具合はいかがですか。
≪戸田城聖≫ 二見君、いまは75万世帯が達成されようという時だ。魔が競い起こるのは当然のことなのだよ。しかし、魔の中でも、こんどの病魔は小邪鬼の部類だ。これぐらいの魔に負けていたのでは広宣流布はとてもできんよ
≪二見医師≫ 先生、あまりお話になりますとお体にさわります。お見舞いの方との面会も、極力さし控えていただきたいと思います。ご病気を克服するうえで、いまがいちばん大切な時でございますから
≪戸田城聖≫ そう深刻な顔をするな。私は、命を延ばす方法を知っているから大丈夫だよ。1月の初登山には行くつもりでいるんだからな。
≪二見医師≫ エッ!。一月の初登山ですか。
ウーン??
木田先生からは、早くても4か月から半年の徹底的な治療と静養が必要だと、伺っています。いくらなんでも、ウーン……
≪ナレーション≫ 1月には登山するという戸田の言葉は、あまりにも性急であるといえた。しかし、二見は、戸田の確信にあふれた言い方に言葉を失ったのであります。
≪木田医師≫ 木田医師です。
肝硬変症で腹水が出た場合は、自然消滅の可能性は極めて低いのです。それが12月10日ごろには、ほとんど自然消滅した。
これは驚異的な好転です。
正直なところ、奇跡であるとさえ思っています。(向き直って)
戸田先生、数値もだいぶ正常値に近づいております。このまま静養を、お続けください。
≪戸田城聖≫ そうか。それは、ありがたい。ところで、食欲がなかったにもかかわらず、お腹が張るのはどうしてですか。
≪木田医師≫ 食欲がなかったのは、肝臓の機能が十分に働いていないために、臓器に様々な影響を与え、消化器系全体の機能が障害されているからです。また、腹水が溜まるのが肝硬変の症状のひとつですが、その圧迫によってお腹が張り、さらに、食欲も低下します。
≪戸田城聖≫ 肝硬変を治す、絶対確実な治療法というのはあるんですか
≪木田医師≫ 絶対確実という治療法は、現在のところありません。今は安静にし、食事療法をしておりますが、この病気は、患者自身の自然治癒力をどう助けるかが、大事なポイントといえます。
≪戸田城聖≫ そうすると、患者の生命力が決め手ということになりますな。
≪木田医師≫ 生命力? ……そう言ってもよいと思います。
≪戸田城聖≫ 生命力の問題となれば、私には絶対の確信がある。まァ、命を少し延ばすぐらいのことは、私にとっては造作のないことですよ。
≪木田医師≫ はァ? 
≪戸田城聖≫ 更賜寿命(きょうし じゅみょう)といってね、すでに定まっている人間の寿命をも延ばすことが出来るのが仏法の力なんです。
≪木田医師≫ はァ?ウーン。はい?
≪戸田城聖≫ 寿命を延ばすということを、医学的にはどう考えますかね。
≪木田医師≫ 老化という観点から見ますと、動脈硬化などが死を早めることにつながりますから、それらを予防することが寿命を延ばす道ではないかと思います。
≪戸田城聖≫ たしかに医学的には、予防ということが大事になるでしょうが、ふだんから、かなり健康に気をつかってきた人が予期せぬ病気や事故で、突然、早死にしてしまうこともある。
いわば宿命ですな。それをも転換していく方途を教えているのが仏法です。人間の一念の転換によって、自分の宿命のみならず、環境をも変えていく力が、まことの信仰なんですよ。
≪ナレーション≫ 戸田はそれから、来年3月に、総本山大石寺に大講堂が落成し、そこで記念の式典を行うことを述べた。そして、自分はそれまでに病気を治して、元気な姿で出席し、一か月にわたって総本山に滞在すると言い出した。
≪木田医師≫ はァ、3月ですか……。ちょっと、いくらなんでも、そんなに早くは、、、
≪ナレーション≫ このところ驚異的な回復ぶりを示しているとはいえ、重篤な肝硬変症である。木田は、医師としての経験から、まだまだながい静養が必要であると考えていた。
しかし、戸田は、確信に満ちた口調で言ったのであります。
≪戸田城聖≫ あなたは信じないかもしれないが、人間の一念によって、病だって克服することができるんです。まあ、見ていなさい。
3月の総本山の記念式典は、かならず私が指揮を執る。それが私の最後の使命なんです。あなたには、この戸田が、身をもって仏法の不可思議なことを教えましょう。
≪ナレーション≫ 戸田城聖の病状は、日を追って回復に向かっていった。
 この短時月での回復は、医師たちの予測をはるかに超えるものであり、奇跡的な回復ぶりといってよかった。医師たちは、ほっと安堵の息をつくとともに、戸田の生命力の強さに驚嘆せざるをえなかったのであります。
戸田城聖は、聖教新聞に『私の闘病80日』と題する手記を寄せたのであります。
≪戸田城聖≫ 「昭和26年、会長就任以来、まさに7年、振り返って考えるに、そのとき『75万世帯の折伏をなしえなければ私の墓は建てるな。骨は品川の沖に捨てよ』と弟子たちに命じたのであった。しかるに、大御本尊の御威光盛んにして、32年度にもうすでに75万世帯を突破し、比叡山の像法の講堂焼落をしり目に、法華本門の大講堂落慶を目の前にみるにいたった。
 愚人の名誉このうえなきものとしては、私はよろこぶとともに、三障四魔の出来かならずあるべしと、思わざるをえなかった。はたせるかな、昨年の4月以来、これが病魔、死魔として、いくたびか、わが身に襲いかかった。『きたな』と思ったので、東奔西走しつつ闘病生活に入ったが、俄然、11月20日、重大な病床となり、ついに立つあたわざる状態にいたった。
 どの医者も、もうだめだという表情である。しかし、いまだ広宣流布への途上にもついておらず、建築でいうならば、ようやく地ならしができた程度にすぎない。土台も、また柱もと考えていけば、この生命は、いま、みすみす捨てられないようである。医者は『半年で事務がとれれば、上等な経過をたどったことになる』という。私は医者に言った。『あなたは、医者としての最善の手を尽くして下さい。私も少少、生命哲学を学ぶもの、生命を延ばすことは少々知っているはずであるから、私も最善を尽くす。よろしく頼む』と。
 心のなかでは、『この最悪な闘病は1か月、正月には初登山をし、3月の大講堂落慶総登山には、自ら総本山にいて、その総指揮をとる』と決めていたのである。事実、正月には初登山を行い、総本山で、5日間を過ごした。そして、幸いにも下山後、1月7日の医師の診断により、重症を警告されていた肝臓病の症状が、まったくなくなったことが明らかになったのである。
 昔、旅人が一里塚、一里塚と追うて旅をしたごとく、私も7年、7年と、七里塚を越えては、広宣流布の道へ進もうと思う。」
≪ナレーション≫ 肝硬変症からの危機を脱し、ひとまず病魔を乗り越えた戸田は、快気祝いを行うことを思いついた。彼が病床に臥している間、懸命に頑張ってくれた首脳幹部を招いて、その労をねぎらいたかったのである。戸田は、その日を、彼の58歳の誕生日にあたる2月11日とした。
その日、戸田は、和服姿のくつろいだ装(よそお)いで部屋に入ってくるなり、「よお~!」と、一同に呼びかけたのであります。
≪戸田城聖≫  私の闘病中は諸君らには、大変苦労をかけた。その間の学会の運営は、なんらの支障もなく、ここにあらためて御礼申し上げたい。
私は会長就任以来7年になるが人生を振り返ってみると、7年ごとに難にあっていることになる。
昭和18年の弾圧による投獄、昭和25年の事業の問題、そして今回の病気です。しかし今度の病気も打ち破ることができた。かくなるうえは、もう7年、また会長として頑張るつもりだからひとつよろしく頼みます。
 ≪ナレーション≫ 障魔の嵐は戸田という広宣流布の指導者を狙って、激しく吹き荒れていたといってよい。彼は、それらを、ものの見事に跳ねのけ、いま高らかに凱歌の曲を奏でたのである。厳しい冬は終わり、まばゆい陽光の春が、いよいよ訪れようとしていたのであります。
この2月11日が、3月16日の儀式の33日前、そして逝去の4月2日の、50日前でありますことは、皆様ご存知のとおりであります。
本日は、人間革命第12巻「憂愁」の章、さらに「後継」の章より、「戸田先生の闘病」と題しまして、黎明地区のオールスターキャストでお送りいたしました。
以上で寸劇人間革命のコーナーを終わります。




人間革命12巻からの 引用 参考にしてください。

2月14日付の聖教新聞に戸田城聖は、『私の闘病80日』と題する手記を寄せた。

 病魔となって彼を襲った大難ともいうべき、この闘病体験を、戸田はありのままに全会員に伝えておきたかったのであろう。

 「小事にすら前兆がある。ましてや、大事においてをや……。昭和26年、会長就任以来、まさに7年、振り返って考えるに、そのとき『75万世帯の折伏をなしえなければ私の墓は建てるな。骨は品川の沖に捨てよ』と弟子たちに命じたのであった。しかるに、大御本尊の御威光盛んにして、32年度にもうすでに75万世帯を突破し、比叡山の像法の講堂焼落をしり目に、法華本門の大講堂落慶を目の前にみるにいたった。

 愚人の名誉このうえなきものとしては、私はよろこぶとともに、三障四魔の出来かならずあるべしと、思わざるをえなかった。はたせるかな、昨年の4月以来、これが病魔、死魔として、いくたびか、わが身に襲いかかった。『きたな』と思ったので、東奔西走しつつ闘病生活に入ったが、俄然、11月20日、重大な病床となり、ついに立つあたわざる状態にいたった。

 どの医者も、もうだめだという表情である。しかし、いまだ広宣流布への途上にもついておらず、建築でいうならば、ようやく地ならしができた程度にすぎない。土台も、また柱もと考えていけば、この生命は、いま、みすみす捨てられないようである。医者は『半年で事務がとれれば、上等な経過をたどったことになる』という。私は医者に言った。『あなたは、医者としての最善の手を尽くして下さい。私も少少、生命哲学を学ぶもの、生命を延ばすことは少々知っているはずであるから、私も最善を尽くす。よろしく頼む』と。

 心のなかでは、『この最悪な闘病は1か月、正月には初登山をし、3月の大講堂落慶総登山には、自ら総本山にいて、その総指揮をとる』と決めていたのである。事実、正月には初登山を行い、総本山で、5日間を過ごした。そして、幸いにも下山後、1月7日の医師の診断により、重症を警告されていた肝臓病の症状が、まったくなくなったことが明らかになったのである。残るは糖尿のみであるが、これは、現時点では、直接、生命に急激な危険は伴わないことを知っている」

 戸田は、まず、回復にいたるまでの経過を簡単に記していった。そして、次に医学と信仰の関係について論じている。

彼は、自分自身の体験を通して、日蓮大聖人の仏法の偉大なる力を明らかにしようとしていた。体験こそ万言に勝る証明である。


 「私は医術を排撃はしない。あたかも智慧をうるのには知識の門をくぐるがごとく、健康の道に医術を忘れることは愚かだ。しかし、私は、現代の医学をもって最高とはしていない。ゆえに、ちょうど道路の技師が測量技術をもって道路を測定するように、医学、医術を、健康の道を測定する技術として待遇しているのである。ゆえに、わが身に課せられた病魔、死魔は、妙法によってこれを打ち、その経過は医術によって知らされるようにしてきたのであった。おかげをもって、満57歳の年を終わって、2月11日の58歳の誕生日を選んで、全快祝いをあげることになった。

 昔、旅人が一里塚、一里塚と追うて旅をしたごとく、私も7年、7年と、七里塚を越えては、広宣流布の道へ進もうと思う。いままで通り、同志諸君の協力を望んで病気の経過をあらまし報告する」

 手記ではそのあと、病気をする前まで好んで口にしていたウイスキーも飲みたくなくなり、タバコの量もめっきり減り、しかも、おいしく吸うことができるようになったことを述べ、さらに、次のように記している。

 「また、私にとって、ありがたいことは、糖尿病は、過去15年前の牢獄生活に発したことがはっきりわかったことである。糖尿病のために、私は左の眼の網膜を痛めていたのであるが、これまで、眼科医ではその原因を知ることができなかった。不治なりとされて、私自身もそんなものかと思っていた。

 だが、時折、見えたり見えなかったりする現象に、おかしいなという感じをいだいてきた。ところが、こんどの病気で、徹底的に膵臓の治療も受けたところ、左の視力が復活してきて、7分通り見えるようになってきた。いわば、死んだ網膜が生き返りつつある。網膜を1枚、大御本尊様より下賜されたというところである。ただただ、御本尊に対する感謝の心でいっぱいである」

 この手記の冒頭で、戸田は7年ごとの難について触れ、難には前兆があることを述べているが、今回の病魔の前兆としては、昨年夏の夕張の炭労の問題、そして、大阪での小西理事長や山本伸一たちの逮捕事件をあげることができよう。

 競い起こったこれらの事件は、戸田の心身をいたく苦しめた。また、大阪地検の狙いが、戸田の逮捕、投獄にあったことを考えると、障魔の嵐は戸田という広宣流布の指導者を狙って、激しく吹き荒れていたといってよい。

 しかし、彼は、それらを、ものの見事に跳ねのけ、いま高らかに凱歌の曲を奏でたのである。
厳しい冬は終わり、まばゆい陽光の春が、いよいよ訪れようとしていた。



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テーマ: 二次創作:小説 | ジャンル: 小説・文学

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