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「5月3日創価学会の日」のお話

若輩では、ございますが、
本日より、戸田門下生を、代表して、
化儀の、広宣流布を、めざし、
一歩前進への、指揮を、とらさせていただきます!


img030.jpg
創価学会の歴史を学ぼう・任用試験勉強会シリーズ・その5
この寸劇人間革命は任用試験の勉強会の時に上演されることを想定して作成しました。



≪ナレーションA≫ それでは寸劇人間革命のコーナーです。本日は、5月3日のお話であります。

時は昭和26年1951年5月3日。定刻二時― 粛然(しゅくぜん)とした場内に、司会の緊張した声がひびきわたったのであります。

≪司会者≫ ただ今より、創価学会第2代会長推戴式(すいたいしき)を、おこないます。
会長講演 戸田城聖先生

≪戸田城聖≫ 故 牧口常三郎 初代会長は、昭和18年の春ごろから、『学会は発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)しなければならぬ』と私どもを責(せ)めるようにいうのが口癖(くちぐせ)になっていました。
不肖(ふしょう)の弟子どもは、それがどんなことなのか、私はじめ、戸惑(とまど)うだけで、どうすることもできなかったのであります。

しかるに、いまやっと学会総体に、偉大な自覚が生じ、偉大な確信のもとに活動を開始するにいたったのであります。

これこそ創価学会の発迹顕本でなくして何でありましょう。
折伏をなすものは、慈悲の境涯にあり、仏にかわって仏の事(じ)を行(ぎょう)ずるのであることを、夢にも忘れてはなりませんぞ。

この一念に立って、私は、いよいよ大折伏を果敢(かかん)に実践せんとするものであります。

私の自覚にまかせて言うならば、私は広宣流布のために、この身を捨てます。

私が生きている間に、七十五万世帯の折伏は私の手でいたします。

もし私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな。

遺骸(いがい)は品川の沖に投げ捨てなさい!
よろしいか!

≪司会者≫ 誰もが耳を疑いました。
んんん~~。もしかして、7万5千の、聞き間違いではなかろうか。

いやたしかに七十五万と聞こえた。はたして、そのような大折伏がほんとうにできるのであろうか。

≪ナレーションB≫ 七十五万世帯の折伏達成という確信はいささかの狂いもなかった。
しかし、当時の誰ひとり、それを信じることはできなかったのであります。

この日の夜。山本伸一は、日記に次のように記(しる)したのであります。


≪山本伸一≫  五月三日 木曜日 
第二代会長、戸田城聖先生の会長推戴式。
晴天、午後二時開始。祝賀会終えて解散午後九時。

遂に戸田先生は会長となられる。
待ちに待った、我等門下生の願望であった。

生涯の歴史とならん、この日。
集まりし同志、約一千数百名か。--

進まん、法旗(ほうき)を高らかに。
広宣流布をめざして。二十億の民(たみ)ぞ待て、吾が学会の進軍に。

新組織の発表に、幹部の顔は、晴ればれなり。
講演に、決意に、確信発表に、皆元気に、やらんかなの意気盛(いきさか)んなり。

吾人(ごじん)は、一人、集会の中央に、静かに、先生の、先輩諸氏(せんぱいしょし)の話を聞き入るなり。

十年先の、学会の前途(ぜんと)を、見定(みさだ)める青年ありとは、先生以外に、誰人(だれびと)も知らざるを思いながら。

≪ナレーションA≫ 戸田会長の七十五万世帯の折伏達成という予言的確信が的中するには、わずか七年たらずの歳月で充分であったのであります。

昭和32年1957年12月、
学会の総世帯数が、七十六万五千を達成するにいたったこと。

そして三ヵ月後の翌年の四月二日に、戸田先生が逝去(せいきょ)されたことは、皆様ご存知のとおりです。

≪ナレーションB≫ そして、戸田会長の逝去から2年後に、山本伸一が第3代会長に就任。

昭和35年1960年5月3日。
山本伸一 32歳であります。

≪山本伸一≫ 
若輩(じゃくはい)では、ございますが、

本日より、戸田門下生を、代表して、

化儀(けぎ)の、広宣流布を、めざし、

一歩前進への、

指揮を、とらさせていただきます!

IMG_560503_2.jpg


≪ナレーションA≫ こうして 5月3日が「創価学会の日」となり、広宣流布を誓う、誓願(せいがん)の日となったことは、皆様ご存知のとおりです。

本日は、「小説人間革命第5巻 烈日 れつじつ」の章、 そして「若き日の日記」などより、「5月3日創価学会の日」のお話を、任用試験受験予定者の オール スター キャスト でお送りいたしました。

以上で、寸劇人間革命のコーナーを終わります。




この寸劇人間革命を最後まで読んでいただきありがとうございます。
この寸劇人間革命の分量はおおよそ、20文字×110行です。

印刷用に空白行の少ないテキストデータを準備しました。
ぜひご活用ください。



≪ナレーションA≫ それでは寸劇人間革命のコーナーです。本日は、5月3日のお話であります。
時は昭和26年1951年5月3日。定刻二時― 粛然(しゅくぜん)とした場内に、司会の緊張した声がひびきわたったのであります。

≪司会者≫ ただ今より、創価学会第2代会長推戴式(すいたいしき)を、おこないます。
会長講演 戸田城聖先生

≪戸田城聖≫ 故 牧口常三郎 初代会長は、昭和18年の春ごろから、『学会は発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)しなければならぬ』と私どもを責(せ)めるようにいうのが口癖(くちぐせ)になっていました。
不肖(ふしょう)の弟子どもは、それがどんなことなのか、私はじめ、戸惑(とまど)うだけで、どうすることもできなかったのであります。
しかるに、いまやっと学会総体に、偉大な自覚が生じ、偉大な確信のもとに活動を開始するにいたったのであります。
これこそ創価学会の発迹顕本でなくして何でありましょう。
折伏をなすものは、慈悲の境涯にあり、仏にかわって仏の事(じ)を行(ぎょう)ずるのであることを、夢にも忘れてはなりませんぞ。
この一念に立って、私は、いよいよ大折伏を果敢(かかん)に実践せんとするものであります。
私の自覚にまかせて言うならば、私は広宣流布のために、この身を捨てます。
私が生きている間に、七十五万世帯の折伏は私の手でいたします。
もし私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな。
遺骸(いがい)は品川の沖に投げ捨てなさい!
よろしいか!

≪司会者≫ 誰もが耳を疑いました。
んんん~~。もしかして、7万5千の、聞き間違いではなかろうか。
いやたしかに七十五万と聞こえた。はたして、そのような大折伏がほんとうにできるのであろうか。

≪ナレーションB≫ 七十五万世帯の折伏達成という確信はいささかの狂いもなかった。
しかし、当時の誰ひとり、それを信じることはできなかったのであります。
この日の夜。山本伸一は、日記に次のように記(しる)したのであります。

≪山本伸一≫  五月三日 木曜日 
第二代会長、戸田城聖先生の会長推戴式。
晴天、午後二時開始。祝賀会終えて解散午後九時。
遂に戸田先生は会長となられる。
待ちに待った、我等門下生の願望であった。
生涯の歴史とならん、この日。
集まりし同志、約一千数百名か。--
進まん、法旗(ほうき)を高らかに。
広宣流布をめざして。二十億の民(たみ)ぞ待て、吾が学会の進軍に。
新組織の発表に、幹部の顔は、晴ればれなり。
講演に、決意に、確信発表に、皆元気に、やらんかなの意気盛(いきさか)んなり。
吾人(ごじん)は、一人、集会の中央に、静かに、先生の、先輩諸氏(せんぱいしょし)の話を聞き入るなり。
十年先の、学会の前途(ぜんと)を、見定(みさだ)める青年ありとは、先生以外に、誰人(だれびと)も知らざるを思いながら。

≪ナレーションA≫ 戸田会長の七十五万世帯の折伏達成という予言的確信が的中するには、わずか七年たらずの歳月で充分であったのであります。
昭和32年1957年12月、
学会の総世帯数が、七十六万五千を達成するにいたったこと。
そして三ヵ月後の翌年の四月二日に、戸田先生が逝去(せいきょ)されたことは、皆様ご存知のとおりです。

≪ナレーションB≫ そして、戸田会長の逝去から2年後に、山本伸一が第3代会長に就任。
昭和35年1960年5月3日。
山本伸一 32歳であります。

≪山本伸一≫ 
若輩(じゃくはい)では、ございますが、
本日より、戸田門下生を、代表して、
化儀(けぎ)の、広宣流布を、めざし、
一歩前進への、
指揮を、とらさせていただきます!

≪ナレーションA≫ こうして 5月3日が「創価学会の日」となり、広宣流布を誓う、誓願(せいがん)の日となったことは、皆様ご存知のとおりです。
本日は、「小説人間革命第5巻 烈日 れつじつ」の章、 そして「若き日の日記」などより、「5月3日創価学会の日」のお話を、任用試験受験予定者の オール スター キャスト でお送りいたしました。
以上で、寸劇人間革命のコーナーを終わります。




以前に作成したものを、任用試験勉強会用に作り直しました。
以前に作成したものは、ここをクリック

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テーマ: 二次創作 | ジャンル: 小説・文学

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