『11.18』のお話 創価教育学会の発足 

先生の、教育学の目的は、一言で言えば、何でしょう?
それは、価値を創(つく)ることだ。
それでは、先生の教育学を、創価――創価教育学と名付けましょう。

私は寒い独房(どくぼう)のなかで、いつも御本尊様に祈っておりました。―― 私はまだ若い。先生は74歳でいらせられる。どうか、罪は私一身に集まって、先生は一日も早く帰られますように、と。 ところが、忘れもしない今年一月八日、私は取り調べの判事から、突然「牧口は死んだよ」と聞かされたのであります。私は独房に帰って、ただ涙にかきくれました。この世に、これほどの悲しみがあろうとは、思いもかけないことでありました。


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2012年6月に公開したものを書き直したものです。

≪ナレーションA≫ それで寸劇のコーナーです。本日は、牧口先生と戸田先生のお話であります。

 時は大正9年、西暦1920年、2月。青雲の志に燃える、戸田青年は、北海道厚田村の父と母に別れを告げ、東京を目指した。
彼の心には、大きな志が、赤々と熱く燃えさかっていたのであります。
しかし、上京した戸田青年を待っていたもの、それは苦闘の日々でありました。
 北海道出身の友人たちの人脈を通して、同じ北海道出身の牧口常三郎の存在を知ったのは、もう夏が近くなったころでした。

紹介状をたずさえ、戸田青年は、緊張して、牧口常三郎の自宅を訪ねた。牧口は、鋭い眼で戸田青年をじっと見た。
そして北海道出身の青年と知って、快く迎えたのであります。

≪牧口常三郎≫  履歴書をお持ちになったかな?

≪戸田青年≫  はい、持ってきました。
(すごい人だ。でも、やさしそうだ。よし、思い切っていこう。ゴクリ。)

 先生、私をぜひ採用してください。
私はどんな劣等生でも、必ず優等生にしてみせます。
先生、私を採用してくだされば、あとできっと、「いい奴を採用してよかった」、とお考えになるでしょう。

≪牧口常三郎≫  はっ、はっ、はっ。そうか、そうか。

≪戸田青年≫(ちょっと照れるが、ここが大事。よし、もう一押しだ。)
先生、ぜひとも、ぜひとも、お願いいたします。

≪牧口常三郎≫  わかった、わかった。尽力しよう。
戸田君。君は、うまくいけば素晴らしい人物になるが、わるくすると、とんでもない人間になるだろう。

≪戸田青年≫ は、はい。

≪ナレーションA≫ この時、牧口常三郎49歳。戸田青年は20歳でありました。
 こうして戸田青年は、牧口先生のはからいで、彼が校長を務める西松尋常小学校に代用教員となったのです。やがて昭和3年1928年。牧口先生が日蓮正宗に入信し、戸田青年も入信します。当時のいきさつを、いろいろやってますと、寸劇が、朝になってしまいますので、今回は、次のお話を急ぐことに、いたしましょう。

≪ナレーションB≫ 時は、昭和4年1929年2月。
牧口は、戸田の自宅を、新しい教育学説の発表と名称について語るために、訪れたのであります。
夜は、しんしんと更(ふ)け、二人は火鉢(ひばち)をかこみながら、熱っぽく語り合ったのであります。

≪戸田城聖≫ 牧口先生。先生の教育学を、後世のためにぜひ出版しましょう。やりましょう。

≪牧口常三郎≫ 戸田君、本の出版には、金がかかるよ。

≪戸田城聖≫  私には、たくさんはありませんけれども、あるだけ、全部投げ出しましょう。
けっしてご心配なさらないでください。
先生。先生の、教育学は、何が目的ですか?

≪牧口常三郎≫ 価値を創造することだ。

≪戸田城聖≫ それでは先生、先生の教育学を、創価―創価教育学と決めましょう。

≪ナレーションB≫ “価値創造”を略して「創価」とした戸田の進言を、牧口は大変気に入って採用したのであります。
こうして、昭和5年1930年11月18日 牧口先生の30年に及ぶ研究・思索・実践の結晶として「創価 教育学 体系 第一巻」が発刊されます。

そして、この日を、もって、創価学会の創立記念日となったことは、皆様ご存知のとおりです。

やがて日本は戦争への道を歩み始め、時代は軍国主義一色に、塗りつぶされたのであります。
座談会にも特高警察が同席し、牧口先生の「神札」を謗法とする発言などに、たいして「そこまで!止(や)め!弁士中止!中止だ!」と大声を上げるようにな、― そんな時代になったのであります。
しかし、牧口門下の折伏、弘教の戦いは、「神札」を謗法払いして、着実に進められていったのであります。

ところが、日蓮正宗は、権力の弾圧を恐れ、大聖人の精神を忘れさっていたのです。
昭和18年1943年6月学会の幹部は総本山に登山を命ぜられた。

≪本山僧侶≫   エー私は、日蓮正宗総本山の偉い、ご僧侶です。エー時節がら、総本山においても、神札を、一応、受けることにした。エーこんどの教師指導会において、全国の寺院に対しても、徹底する予定である。そこでだ、創価学会でも、神札を受けるように申しわたす。

≪牧口常三郎≫  承服いたしかねます。神札は、絶対に受けません。いまだかつて創価学会は、総本山に、何ひとつご迷惑を、かけておらぬでは、ありませんか。

≪本山僧侶≫   エー、いやいや、創価学会が謗法払いと、称して、神札を焼いておるのは、本山の指導によるものだと、警察に告訴状がでているのですぞ。

≪牧口常三郎≫  承服いたしかねます。神札は、絶対に受けません。

≪ナレーションB≫ 牧口会長は、こういいきって、総本山を、後にしたのであります。

≪牧口常三郎≫  私が嘆くのは、一宗が滅びることではない。一国が眼前でみすみす滅び去ることだ。宗祖日蓮大聖人の悲しみを私はひたすら恐れるのだ。今こそ国家諫暁の時ではないか。
宗門は、いったい、何を恐れているのだろう?
戸田君、君はどう考える?

≪戸田城聖≫  先生、戸田は命をかけて戦います。何がどうなろうと、戸田は、どこまでも先生の、お供をさせていただきます。

≪ナレーションB≫ 牧口は、一、二度うなずいて、はじめてニッコリと笑いかけた。そして、この日から一ヶ月たたぬうちに、二人は逮捕されたのである。権力の弾圧に恐れをなした宗門は、創価学会に対して総本山への登山を禁止し、信徒除名処分にしたのです。

日蓮正宗宗門は、大聖人の仏法を唯一、守った牧口先生を切り捨てたのであります。

≪ナレーションB≫ 獄中からの手紙を紹介します。

≪牧口常三郎≫ 昭和19年1944年10月13日「カントの哲学を精読している。100年前及びその後、学者共が、望んでも手を着けない「価値論」を私が著し、しかも上は法華経の信仰に結びつけ、数千人に実証したのを見て、自分ながら驚いている。これ故、三障四魔が粉起するのは当然で、経文通りです。」

≪ナレーションB≫ これが牧口先生の絶筆となりました。昭和19年1944年11月18日― 牧口会長は東京拘置所で逝去したのであった。奇しくも、創価教育学体系の出版から、ちょうど14年の歳月が、流れていたのです。

≪ナレーションA≫ それから一年、昭和20年1945年11月18日、牧口常三郎の一周忌が営まれることになった。集まったのは、親族のほかに、わずかに二十数名の門下の弟子であった。かつて三千名をかぞえた創価教育学会員は、いま牧口会長の一周忌法要というのに、これだけしか、集まることが、できなく、なってしまった。それは、創価学会の再建が、いかに、困難であるかを、物語っていたのです。

≪戸田城聖≫ 私は寒い独房(どくぼう)のなかで、いつも御本尊様に祈っておりました。
―― 私はまだ若い。先生は74歳でいらせられる。どうか、罪は私一身に集まって、先生は一日も早く帰られますように、と。 
ところが、忘れもしない今年一月八日、私は取り調べの判事から、突然「牧口は死んだよ」と聞かされたのであります。
私は独房に帰って、ただ涙にかきくれました。
この世に、これほどの悲しみがあろうとは、思いもかけないことでありました。

先生は、死して、獄門を出られた。
不肖(ふしょう)の弟子の私は、生きて獄門を出た。
私がなにを、なさねばならぬかは、それは自明(じめい)の理であります。
―― 話に聞いた地湧の菩薩は、どこにいるのでもない。じつにわれわれなのであります。
わたしは、この自覚に立って、いまはっきりと叫ぶものであります。
―― 広宣流布は、誰がやらなくても、この戸田が必ずいたします。
地下にねむる先生、もうしわけございませんでした。
先生、先生の真(まこと)の弟子として、立派に妙法流布にこの身を捧げ、先生のもとにまいります。
きょうよりは、やすらかにお休みになってください。

≪ナレーションA≫ この日は、戸田城聖が広宣流布の第一声を放った、歴史的一日となったのであります。

本日は、小説「人間革命」第1巻「一人立つ」の章、さらに小説「人間革命」第2巻「地湧」の章、などから、「牧口先生と戸田先生」そして「11.18 創立記念日」のお話を、黎明地区、のオール スター キャスト で、お送りいたしました。                                  
本日は、テーマを、かなり、欲張りすぎて、書き残しが、たくさんございます。
それらは、またの寸劇に、こう、ご期待、であります。以上で寸劇のコーナーを終わります。



最後まで読んでいただきありがとうございます。

この寸劇の分量はおおよそ、20文字×200行です。

この寸劇を、実際に座談会でやってみようと思った方は、「続きを読む」を御覧ください。

空白行の少ないテキストデータを準備しましたので、ご利用ください。
登場人物

≪ナレーションA≫≪ナレーションB≫ 2人で読み分けても、1人でも良い。
≪戸田青年≫≪戸田城聖≫同様に、2人で読み分けても、1人でも良い。
≪牧口常三郎≫
≪本山僧侶≫
4人で寸劇ができます。参加者を増やして6人でもいいでしょう。


原稿印刷

A4用紙2枚に印刷してはどうでしょうか。
Wordを使用したとき、印刷縦向き、余白は上下左右15ミリ、12ポイント、横書き、段数2、文字数22、行数46、くらいでどうでしょうか。


≪ナレーションA≫ それで寸劇のコーナーです。本日は、牧口先生と戸田先生のお話であります。
≪ナレーションA≫ 時は大正9年、西暦1920年、2月。青雲の志に燃える、戸田青年は、北海道厚田村の父と母に別れを告げ、東京を目指した。彼の心には、大きな志が、赤々と熱く燃えさかっていたのであります。しかし、上京した戸田青年を待っていたもの、それは苦闘の日々でありました。
 北海道出身の友人たちの人脈を通して、同じ北海道出身の牧口常三郎の存在を知ったのは、もう夏が近くなったころでした。
紹介状をたずさえ、戸田青年は、緊張して、牧口常三郎の自宅を訪ねた。牧口は、鋭い眼で戸田青年をじっと見た。そして北海道出身の青年と知って、快く迎えたのであります。
≪牧口常三郎≫  履歴書をお持ちになったかな?
≪戸田青年≫  はい、持ってきました。
(すごい人だ。でも、やさしそうだ。よし、思い切っていこう。ゴクリ。)
 先生、私をぜひ採用してください。
私はどんな劣等生でも、必ず優等生にしてみせます。
先生、私を採用してくだされば、あとできっと、「いい奴を採用してよかった」、とお考えになるでしょう。
≪牧口常三郎≫  はっ、はっ、はっ。そうか、そうか。
≪戸田青年≫(ちょっと照れるが、ここが大事。よし、もう一押しだ。)
先生、ぜひとも、ぜひとも、お願いいたします。
≪牧口常三郎≫  わかった、わかった。尽力しよう。
戸田君。君は、うまくいけば素晴らしい人物になるが、わるくすると、とんでもない人間になるだろう。
≪戸田青年≫ は、はい。
≪ナレーションA≫ この時、牧口常三郎49歳。戸田青年は20歳でありました。
 こうして戸田青年は、牧口先生のはからいで、彼が校長を務める西松尋常小学校に代用教員となったのです。やがて昭和3年1928年。牧口先生が日蓮正宗に入信し、戸田青年も入信します。当時のいきさつを、いろいろやってますと、寸劇が、朝になってしまいますので、今回は、次のお話を急ぐことに、いたしましょう。
≪ナレーションB≫ 時は、昭和4年1929年2月。
牧口は、戸田の自宅を、新しい教育学説の発表と名称について語るために、訪れたのであります。
夜は、しんしんと更(ふ)け、二人は火鉢(ひばち)をかこみながら、熱っぽく語り合ったのであります。
≪戸田城聖≫ 牧口先生。先生の教育学を、後世のためにぜひ出版しましょう。やりましょう。
≪牧口常三郎≫ 戸田君、本の出版には、金がかかるよ。
≪戸田城聖≫  私には、たくさんはありませんけれども、あるだけ、全部投げ出しましょう。
けっしてご心配なさらないでください。
先生。先生の、教育学は、何が目的ですか?
≪牧口常三郎≫ 価値を創造することだ。
≪戸田城聖≫ それでは先生、先生の教育学を、創価―創価教育学と決めましょう。
≪ナレーションB≫ “価値創造”を略して「創価」とした戸田の進言を、牧口は大変気に入って採用したのであります。
こうして、昭和5年1930年11月18日 牧口先生の30年に及ぶ研究・思索・実践の結晶として「創価 教育学 体系 第一巻」が発刊されます。
そして、この日を、もって、創価学会の創立記念日となったことは、皆様ご存知のとおりです。
やがて日本は戦争への道を歩み始め、時代は軍国主義一色に、塗りつぶされたのであります。
座談会にも特高警察が同席し、牧口先生の「神札」を謗法とする発言などに、たいして「そこまで!止(や)め!弁士中止!中止だ!」と大声を上げるようにな、― そんな時代になったのであります。
しかし、牧口門下の折伏、弘教の戦いは、「神札」を謗法払いして、着実に進められていったのであります。
ところが、日蓮正宗は、権力の弾圧を恐れ、大聖人の精神を忘れさっていたのです。
昭和18年1943年6月学会の幹部は総本山に登山を命ぜられた。
≪本山僧侶≫   エー私は、日蓮正宗総本山の偉い、ご僧侶です。エー時節がら、総本山においても、神札を、一応、受けることにした。エーこんどの教師指導会において、全国の寺院に対しても、徹底する予定である。そこでだ、創価学会でも、神札を受けるように申しわたす。
≪牧口常三郎≫  承服いたしかねます。神札は、絶対に受けません。いまだかつて創価学会は、総本山に、何ひとつご迷惑を、かけておらぬでは、ありませんか。
≪本山僧侶≫   エー、いやいや、創価学会が謗法払いと、称して、神札を焼いておるのは、本山の指導によるものだと、警察に告訴状がでているのですぞ。
≪牧口常三郎≫  承服いたしかねます。神札は、絶対に受けません。
≪ナレーションB≫ 牧口会長は、こういいきって、総本山を、後にしたのであります。
≪牧口常三郎≫  私が嘆くのは、一宗が滅びることではない。一国が眼前でみすみす滅び去ることだ。宗祖日蓮大聖人の悲しみを私はひたすら恐れるのだ。今こそ国家諫暁の時ではないか。
宗門は、いったい、何を恐れているのだろう?
戸田君、君はどう考える?
≪戸田城聖≫  先生、戸田は命をかけて戦います。何がどうなろうと、戸田は、どこまでも先生の、お供をさせていただきます。
≪ナレーションB≫ 牧口は、一、二度うなずいて、はじめてニッコリと笑いかけた。そして、この日から一ヶ月たたぬうちに、二人は逮捕されたのである。権力の弾圧に恐れをなした宗門は、創価学会に対して総本山への登山を禁止し、信徒除名処分にしたのです。
日蓮正宗宗門は、大聖人の仏法を唯一、守った牧口先生を切り捨てたのであります。
≪ナレーションB≫ 獄中からの手紙を紹介します。
≪牧口常三郎≫ 昭和19年1944年10月13日「カントの哲学を精読している。100年前及びその後、学者共が、望んでも手を着けない「価値論」を私が著し、しかも上は法華経の信仰に結びつけ、数千人に実証したのを見て、自分ながら驚いている。これ故、三障四魔が粉起するのは当然で、経文通りです。」
≪ナレーションB≫ これが牧口先生の絶筆となりました。昭和19年1944年11月18日― 牧口会長は東京拘置所で逝去したのであった。奇しくも、創価教育学体系の出版から、ちょうど14年の歳月が、流れていたのです。
≪ナレーションA≫ それから一年、昭和20年1945年11月18日、牧口常三郎の一周忌が営まれることになった。集まったのは、親族のほかに、わずかに二十数名の門下の弟子であった。かつて三千名をかぞえた創価教育学会員は、いま牧口会長の一周忌法要というのに、これだけしか、集まることが、できなく、なってしまった。それは、創価学会の再建が、いかに、困難であるかを、物語っていたのです。
≪戸田城聖≫ 私は寒い独房(どくぼう)のなかで、いつも御本尊様に祈っておりました。―― 私はまだ若い。先生は74歳でいらせられる。どうか、罪は私一身に集まって、先生は一日も早く帰られますように、と。 ところが、忘れもしない今年一月八日、私は取り調べの判事から、突然「牧口は死んだよ」と聞かされたのであります。私は独房に帰って、ただ涙にかきくれました。この世に、これほどの悲しみがあろうとは、思いもかけないことでありました。
先生は、死して、獄門を出られた。不肖(ふしょう)の弟子の私は、生きて獄門を出た。私がなにを、なさねばならぬかは、それは自明(じめい)の理であります。―― 話に聞いた地湧の菩薩は、どこにいるのでもない。じつにわれわれなのであります。わたしは、この自覚に立って、いまはっきりと叫ぶものであります。―― 広宣流布は、誰がやらなくても、この戸田が必ずいたします。地下にねむる先生、もうしわけございませんでした。先生、先生の真(まこと)の弟子として、立派に妙法流布にこの身を捧げ、先生のもとにまいります。きょうよりは、やすらかにお休みになってください。
≪ナレーションA≫ この日は、戸田城聖が広宣流布の第一声を放った、歴史的一日となったのであります。

本日は、小説「人間革命」第1巻「一人立つ」の章、さらに小説「人間革命」第2巻「地湧」の章、などから、「牧口先生と戸田先生」そして「11.18 創立記念日」のお話を、黎明地区、のオール スター キャスト で、お送りいたしました。                                  
本日は、テーマを、かなり、欲張りすぎて、書き残しが、たくさんございます。
それらは、またの寸劇に、こう、ご期待、であります。以上で寸劇のコーナーを終わります。
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テーマ: 二次創作 | ジャンル: 小説・文学

コメント

  • 2014/06/12 (Thu) 20:44
    Re: 寸劇

    >寸劇人間革命を読んでいただいて、ありがとうございます。
    座談会で、使えそうな寸劇は、見つかったでしょうか?
    座談会でやってみての、感想などありましたら、ぜひお送りください。
    地区部長は、なにかと大変ですが、しっかり使命を果たしてまいりましょう。

    土星人 #- | URL | 編集

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